大気ごと君を抱きしめて



待ち合わせた正門で香穂さんを待ちながら見上げた秋の青空は、バニラクリームを溶け込ませたように、優しいパステルカラーの微笑みを浮かべていたのに。いつの間にか薄暗くなって、空の端に夕日のオレンジ色がほんのり灯っている。高く澄み渡る薄い水色の空は群青色から朱色へと変わり、濃厚で鮮やかなグラデーションを描いていた。

街並みも街路樹も、墨を流したような黒いシルエットの中で、一際鮮やかな色彩を放つのは夕日となって隠れる太陽と君だね。君が身振り手振りの会話に夢中なように、僕も君だけを見つめることに夢中だから気付かなかったよ。


秋は夕日がとっても綺麗だよねと、頬を綻ばせて振り仰ぐ香穂さんは、りんごみたいに美味しそうだと赤い色へ楽しげに想いを馳せていた。赤い夕日もりんごも素敵だけど、僕は香穂さんが一番魅力的だと思うな。心のキャンドルへ火を灯すのは他の何物でもない・・・たった一人の君だから。 秋は物思いの季節というけれど、君を想うのに秋だけではとても足りない。僕はどの季節が巡っても、君の事を想っているよ。

緩む頬が止められない僕を隣からひょいと覗き込む香穂さんが、鼻先が触れる近さで楽しそうだねと笑顔を浮かべる。だけどあまり目の前に迫ると、僕が君の唇を食べてしまうから気をつけてね。


「さっきまでは夕日が綺麗だったのに、日が沈むのが早くなったよね。瞬きしたり、香穂さんと話しに夢中になっていると、綺麗な夕焼けを見逃しちゃうから気をつけなくちゃね」
「子供の頃、いつものように夕方まで友達と遊んでいて、気が付くと遠くまで来ていたの。帰る頃に周りは急に暗くなるから、怖い思いをした事があったな〜。泣きたいのを堪えながら、必死で家まで走ったの。ふふっ、懐かしいなぁ」
「香穂さん、今も怖い?」
「一人ぽっちだったら、ちょっぴり怖かったかも知れないけど、加地くんがいるから平気だよ。二人なら夜道は全然怖くないの。でも・・・ね、ちょっと寒いかな」


大きく近寄って隣に並ぶ距離を詰めてきた香穂さんは、手を繋いでいい?と、甘いお菓子をねだるように上目遣い見つめてくる。駄目な訳がないよ、僕だって君と手が繋ぎたかったんだから大歓迎さ。さぁ一緒に温まろう? 
そう言って優しく微笑みながら手を差し出すと、可愛らしい笑顔の花が綻び、そっと手の平が重ねられた。

加地くんの手、温かいねと・・・。はにかみながらきゅっと握り締める手を、照れ隠しに小さく揺さぶる香穂さんに、何度胸が甘く痛んだだろう。走る鼓動が止まらない僕は、もう駄目かも知れない。このまま心臓が熱さで破裂したら、君を抱き締めてしまうかも知れないよ。どうして君は、そんなに可愛いの?


小春日和の日だまりが心地良い日中は、まだ秋とはほど遠い温かさがあるけれど、朝や夕方はひんやりした空気や風を感じるようになったよね。涼しいよりもちょっぴり肌寒くて、もう一枚上着が欲しいかなって温もりが恋しくなる。
こういう寒さが僕は好きだな。だって・・・ほら、手を繋いでお互いがぴったりくっつけば温かいよね。
ねぇ香穂さん知ってた? 寒いっていうのはね、お互いの肌が触れ合えるくらい、近くに行っても良いかな?っていう恋の呪文なんだよ。

驚いたように目を見開き、夕焼け空を頬に映して真っ赤に染まる君に、僕の顔にも熱が集まってゆく。


「夕焼けを愛しいと感じるのは、愛らしく頬を染める、照れたときの香穂さんみたいだって思うからからだろうね」
「わ、私・・・あんなに真っ赤になっているのかな。すごく恥ずかしいよ」
「照れている顔も困った顔の君も可愛いから、いろんな君がみたくなるんだ。人恋しさの募る夕闇の中で思うのは、いつどんな時でも君のことだよ。君に言われて嬉しかった言葉、ふと見かけた景色、心に染み渡るヴァイオリンの優しい音色。今日の髪型や笑顔がとびきり可愛かった事とか・・・ささやかな事でも感じることができれば、一日の終わりが温かく穏やかな気持になれるんだ」
「小さな幸せだね、とっても素敵。大きなものを一つだけよりも、毎日たくさんの小さな幸せを感じられた方が、きっと楽しいよね。毎日が喜びで溢れたら、私の中が加地くんでいっぱいに溢れるんだよ!」


繋いだ手をきゅっと握り締めながら、ね?と小首を傾げる髪がさらりと肩から零れて、背に映る赤い夕日へ溶け込んだ。空に浮かぶ夕日が明日も良い天気だと伝えているように、君がいるだけでいつもの景色が色鮮やかになってゆくよ。色がじんわりと僕へと染み渡り、心の奥が同じ赤へと染まってゆく・・・夕日に蕩ける君と僕。大好きな人と一緒に過ごすひとときは、とても心地が良いんだ。


以前の僕は現状の生活に不満は無いものの、心の奥底では満たされていない・・・毎日がつまらないと感じてしまう日々を過ごしていた。だけど君に出会って世界が大きく変わった。目の間にあるささやかな幸せに目を向けられるようになったし、生きることの喜びを感じる瞬間を、たくさんつくれるようになったから。僕の中に生まれた愛を育て、好きだという気持を引き出してくれた香穂さんに、僕の全てでありがとうと大好きを伝えたい。


「夕焼け色に染まる、頬が赤く染まる・・・心が君色に染まる。ねぇ香穂さん、染まるという言葉の語源を知ってる?」


手を繋ぎながら歩くと自然とゆっくりなペースになって、緩やかな時の流れに身を任せていたくなる。僕たちの手が繋がっているこの幸せな時を、もっと長く感じていたいからだと思うんだ。僕を見上げた香穂さんは、眉を寄せて考えていたけれど、降参だと眉を寄せてふるふると首を横に振った。加地くんは国語が得意だよね、と興味津々に瞳を輝かせて答えを待つ香穂さんへ、にっこり笑顔を注ぐと想いを込めた手を握り締めた。


「染めるというのは、織物からきているんだよ。昔は色を染めるのが大変だったから、何度も何度も丹念に布に色を浸して染め上げたんだよ。色を重ねるごとに濃さを増して・・・褪せる事無く長く生き続けられるようになる。学院の毎日や休日に、逢う事を重ねる僕たちも同じだって思うんだ。会う度に君がいつまでも心から離れなくて、夕焼けや暁が空を染めるように僕の心も染めてゆくんだ」
「そうなんだ、凄いね。一度だけじゃなくて、何度も加地くんの色に染まることが出来るんだね。私はどんな色になるんだろうって、考えるとわくわくするの。染まるっていう言葉が、今まではちょっぴり恥ずかしく思えたんだけど、繰り返すと胸の奥がじんわり温かくなるみたい。素敵な言葉をありがとう加地くん、大切にするね」
「二人で想いの色をいっぱい重ねて、色褪せない綺麗な色になりたいよね。世界でたった一つしかない、僕たちだけの色に」



今にも止まってしまうくらいゆっくりな歩みでも、君の家に着いてしまったみたいだね。さぁ香穂さん、家に着いたよ。
名残惜しいけど今日はここでお別れだね、また明日ここで君を待っているよ。離れたくない心を優しい微笑で隠していると、香穂さんは手を離すどころか両手でしっかり握り締めて離さない。きゅっと目を瞑り、ふるふると首を振れば、髪が肩の上で花のように舞い踊った。君の熱い想いが咲いた鮮やかな花。

困ったな・・・香穂さんが手を離してくれないと、君を扉の向こう側へ送り届けられないよ。
香穂さん、じゃぁもう一度だけお互いに染め合おうか・・・。身を屈めてそう耳元に呼びかけると、ちょこんと振り仰いだ瞳が大きく見開かれるよりも早く、大きく腕を広げて抱き締めた。深まりゆく秋を感じさせる冷えた空気ごと、温めながら優しく包み込みたい。ちょっとの間だけ、そのままでいてほしいな。


ほら、温かいでしょう? だから何度でも、こうして想いの色を重ねよう。
夜が来ても寂しくないように、次の朝元気にまた会えるようにっていう、僕たちだけのおまじないだよ。



今日、大切な人に笑顔でいられたかな? 喜びを感じて優しい心になれたかな?
そして綺麗なものに心を向けられたかな・・・と自分に問いかけながら、君への想いを重ねよう。
僕は完璧だよ、何よりも綺麗なものは今、僕の腕の中にあるからね。
ふふっ・・・最後の一つが分からない? それはね、香穂さんだよ。


一際鮮やかなルージュみたいな夕焼けの色・・・秋の色に染まった君の頬。ほらね、染まったでしょう?
腕の中にある君の温もりが染めてくれたんだ、僕の心も。決して色褪せない想いの色にね。