ただいまとお帰り

帰宅した俺を玄関で出迎えてくれた香穂子と交わす二人だけの挨拶・・・ただいまとお帰りのキスを終えて。
頬をほんのり赤く染めたままニコニコと両手を差し伸べてくるのは、鞄や荷物を持たせて欲しいという、彼女のささやかなおねだり。それは着替えをしようと部屋に向かう俺に、一緒について行くよという合図だ。

聞こえてくる鼻歌に肩越しに振り返れば、嬉しそうに足取り軽く、スカートの裾をふわりと靡かせている。
少しだけ困ったように眉を寄せて微笑むけれど、そんな顔をしても駄目なのだと、無言の笑みで訴える君と見つめ合うばかりだ。


俺も嬉しいし香穂子がご機嫌なのも分かるが、どうもここ数日、何かひっかかる物を感じるのは何故だろう?
はしゃぐ様子から見ると後ろめたい隠し事ではなく、無邪気な悪戯を仕掛けられている気がするんだが・・・。



部屋に入りヴァイオリンケースを置くと、クローゼットに歩み寄り扉を開く。着ていたジャケットを脱ぎかけた所でふわりと軽くなり、ふと振り返ればいつのまにか背後に寄り添っていた香穂子が受け止めてくれている。
先程の鞄と同じように満面の笑顔で手を差し伸べていて、甘えてすり寄るのも忘れずに。


そうだったな、君がいるんだ。つい危うく一人で片付けてしまう所だったな。


出かける時に羽織わせてくれるのと逆で、脱がせてくれているのだと分かる。少々照れ臭さを感じながらも身を任せ、ジャケットから腕を抜く。受け取る香穂子にありがとう・・・そう伝えて微笑みを向けた。


「香穂子、着替えを手伝ってくれる気持ちは嬉しいが、一人でも出来る。その・・・まだ慣れないというか、じっと見られているのは少々照れ臭い」
「ただいまとお帰りの挨拶は、玄関のキスだけじゃないんだよ。いってらっしゃいの時にジャケットを羽織わせるように、ただいまの時も脱がせるお手伝いがしたいの。お疲れ様、今日もありがとうって伝えたいから、こうしたひと時も大切にしたいな。頑張ってる蓮にね、お家に帰ってきたんだよってリラックスしてもらうのも、奥さんの大事な仕事だと思うの!」


奥さんの仕事、という所を真っ直ぐ見上げる香穂子に強調されると、もう何も言えなくなってしまう。
そうか・・・と呟いて熱さを感じる顔を隠すようにフイと反らすしかない。だがあれもこれもとかいがいしく動く彼女が愛しくて、心遣いが温かく俺を包み込んでくれる。

君と出会ってたくさんの夢が生まれ、未来が輝き始めた。俺の大切な人、生きる意味を見つけたと言ってもいい。あのまま一人だったら、俺はどんなふうに生きていただろうか? こうした日々の幸せに、心から感謝したいと思う。それに・・・と小さく呟く声が聞こえて彼女を見ると、火を噴き出さんばかりに顔を真っ赤に染め、ジャケットを抱きしめながらちらりと俺を伺っていた。


「私だって、本当は照れ臭いんだよ」
「香穂子・・・?」
「着替え中に明るい部屋で、蓮の引き締まった胸とか背中を見ると、キュンって心が締め付けられるの。心臓が駆けだして、息が詰まりそうになるんだよ。着替える為とはいえ早く脱いでって、私が急かしているみたいで凄く恥ずかしい・・・。えっとね、もちろんそんなつもりは全然無いからね?」
「・・・・・・・・・」


止まらないのは恥ずかしさを誤魔化す為なのか。一気に言い終わると、腕の中にある俺のジャケットを強く抱きしめ、真っ赤に染まった頬を隠すように埋めてしまう。そんな君に想いを告げれられて、心臓が張り裂けそうなのは俺の方だというのに。気づかなかった心の内を聞かされたら、今すぐに抱きしめたくなるじゃないか。


「あっ、ごめん。抱きしめすぎたら、しわになっちゃうよね」


そう言って埋めていた顔を上げた香穂子は、背を向けるように俺の前に入り込み、クローゼットにかけられたハンガーへと手を伸ばす。しかしジャケットを掛けつつも、扉の内側に付いている鏡越しに感じる視線が熱い。
俺も少し、気持ちを落ち着かせないといけないな。火照った頬と気持ちを冷まさなくては・・・。

クローゼットから数歩離れた所で脚を止め、静けさに漂う息づかいや気配を互いの背中で感じ取りながら、大きく深呼吸を一つした。




一日の中で特に香穂子が妙にそわそわして、じっと強く注がれる視線を感じる・・・ここ最近ずっとだ。
しかも朝や出かけに身支度する時には平気なのに、帰宅した時にだけというのは何故だろう。
まるで一瞬も見逃さないように、観察をされているような。
悪意が無い無邪気なものだと察するのは、期待と興奮に、大きな瞳の奥が輝いているからだ。


君に見つめられるのはもちろん嬉しいが、理由が分からないのは困ってしまう。
一体俺が何をしたのか、君は何を望んでいるのか。
着替えが終われば、いつも達成感に満ちてご機嫌なのだから、謎はますます深まるばかり。


考えていても仕方が無いな。
真っ直ぐで正直な香穂子は隠し事が苦手だから、いずれ分かるだろうし。


小さく溜息を吐いてネクタイを緩めると、シャツのボタンを二つ三つと外し襟元をくつろげた。たったそれだけでも開放感が溢れ、心に通り抜けた風によりゆとりが生まれてくる。前髪を掻き上げつつ再び振り返り、香穂子の元へ行こうと何気なく脚を踏みだしかけた所で、俺の脚は二歩目を踏み出すこと無く止まってしまった。
静けさを打ち破る大きな声が部屋の中に響き渡ったからで、鏡越しに俺を見ていたらしい彼女がくるりと身を翻し、俺を指さしながら驚きに目を見開き固まっていた。


「あーっ!」
「・・・っ香穂子、どうしたんだ?」
「ひどーい、蓮てばいつの間にっ! 私、楽しみにしてたのに〜」
「は!? 楽しみ?」


勢いに押され立ち止まっていると驚くのは俺の方で。慌てて駆け寄った香穂子が、外したばかりのボタンを全部締め始めた。終いにはせっかく緩めたばかりのネクタイまで、丁寧に締め直し整えてしまう。
着替えを手伝う・・・そう言っておきながら、やっている事は逆な気がするんだが。

満足げな表情ときっちり整えられた襟元は、また今日も同じ。
目の前でポンと俺の胸を軽く叩き、出来上がりを知らせる君は、本当は着替えるなと言いたいのだろうか?
ひょっとして家にいて欲しくないのではと考え始めたら、際限なく深みにはまりそうな自分がいる。


「はい出来上がり! 綺麗に結べたよ」
「香穂子?」
「ん? なぁに?」


どうしたの?と小首を傾げて見上げる仕草は、この上なく愛らしい。だが瞳の中に僅かに戸惑う色を俺は見逃さなかった。無邪気に仕掛ける悪戯に気づかず巻き込まれたいと思うけれど、時と場合にもよる。
いや・・・俺の知らない所で一人だけ楽しんでいるのが面白くないのだろう。

眉を寄せて諫めるようにじっと見つめると、予想通りに視線がそわそわ泳ぎだし、そうかと思えば一生懸命笑顔を浮かべている。怖い顔しないで・・・ね?笑って?と甘えてねだられれば、つい緩みかける頬を引き締めるのに実は俺も必死だ。


「俺はただいまと、そう言って香穂子の元へ帰ってきた。スーツを脱いで私服へ着替えようとしているのに、これではまるで、いってらっしゃいと送り出される朝と同じじゃないか。早く香穂子と二人きりでくつろぎたいと思っているのに、君は違うのか?」
「ち、違わないよ! もちろん着替えて欲しいよ、その為にお手伝いしてるんだもの。でもね、今のはちょっとだけタイミングが悪かったの。だから、もう一度お願いしたいな〜って思ったの」
「タイミング?」
「う、うん・・・・」
「香穂子、俺に何か隠してないか? 緩めた襟元をわざわざ直すのも今日だけじゃない、ここ最近ずっとだ。帰宅後は特に特に君の視線を強く感じるのも、関係があるのか?」


瞳の奥を射抜いたまま一歩詰め寄ると、うっと喉を詰まらせた香穂子も押されて一歩後ずさる。
いつもなら料理が途中だったとか用事を思いだしたとか、ふいふちの甘いキスで話題が逸らされてしまうが、今日こそは真相を聞き出さなくては。俺たち夫婦の間に、隠し事は無しなんだろう?


逃げ道を探るべくきょろきょろ周りを見渡す彼女が、思いだしたように口を開き何か言いかけるよりも早く。
素早く背を攫い、逃げられないように腕の中へ閉じ込めた。離してと言いながら身じろぎ出すけれど、ぴくりとも動かない腕の戒めに観念したのか、やがて大人しく身を任せてくる。

捕らわれながらも困ったように・・・すがるように言葉無く助けてと。
じっと見上げる潤みかけた大きな瞳に心が揺らぐが、あえて厳しく接する俺だって辛いんだ。


「言いたくないのならそれでも構わない、人間なら心に秘めたい事があると思うから。だが長年の想い叶ってようやく夫婦になれた俺と君の間には、どんな事も隠さず打ち明けたいと・・・俺はそう思っている」
「蓮・・・・・・」
「このまま黙っているのなら、言葉を発したいと思ってもずっと香穂子の唇を塞ぐが・・・良いのか?」
「えっ!? やっ・・・その・・・それだけは待って! 言う・・・正直に言うから! ごめんね私、蓮に隠してた事があるの! ちょっとした悪戯心というか、悪気は無かったの」
「やはり、思った通りだったな」
「私の大好きな蓮をまたひとつ見つけたから、貴重な一瞬を楽しみにしてただけなの。私が楽しんでいた間に、気分を悪くしてたなんて気づかなくてごめんね。蓮はいつだって本気だから、ただの優しいキスじゃないって分かるんだもの。絶対にキスだけじゃ終わらないくせに〜。怒った蓮に抱きしめられたら、私きっと壊れちゃうよ」
「・・・・・・・・」


目尻に涙を溜めながら、必死に振り仰ぎ見てごめんねと訴えてくるのが痛々しくて、問い詰めた俺の方まで胸が締め付けられた。温かく迎えてくれる気持ちは偽り無い心からのものなのに、泣かせてしまったのだから。

だが・・・やはり香穂子の企みがあったんだなと納得する反面、あれ程堅く黙秘をしていたのにキスをするぞと真面目に言っただけで、あっさり口を割るのが少々複雑な気分だ。
しかも慌てて泣きださなくても・・・キスを拒まれたみたいで、俺の方が泣きたくなってしまうじゃないか。


「安心してくれ、怒っていないから。怖い想いをさせたな、すまなかった。君に見つめられるのは嫌じゃない、だた理由が知りたかったんだ」
「私こそ、ごめんなさない・・・」
「理由を話してくれないか?」


しゅんと肩を落としてうなだれる香穂子に緩めた瞳を注ぎ、優しく頬を包めば、火を噴き出しそうな赤さ通りに熱さが手の平に伝わる。冷たくて気持ちが良いねと、やっと見せてくれた微笑みに俺の心も綻んでくるようだ。

もう良いだろうかという頃合いを見計らってゆっくりと手を離し、安堵の溜息を漏らしつつ再びネクタイを緩め襟元をくつろげた。軽く頭を振って前髪を掻き上げた所で、目の前にいる香穂子がほうっ甘い溜息を吐き、先程とは変わって蕩けた眼差しで見つめている。


「香穂子、どうかしたのか?」
「それだよ! 私ね、それが見たかったの!」
「は!? すまない、それ・・・というのは?」
「ネクタイを緩める瞬間を見たかったの。みんなのヴァイオリニスト月森蓮が、私だけの旦那様に戻る瞬間。緩める仕草がすごく素敵だって気づいたら、毎日目が離せなくなっちゃったの。えっと・・・ね、くつろげた襟元からちらっと見える鎖骨も、心臓がドキドキしちゃうんだよ。きっちりも好きだけど、オンとオフの真ん中も好きだな」
「・・・だからずっと俺を見ていたのか。言ってくれれば良かったのに」
「意識しちゃうと難しいでしょう? いつネクタイを緩めるのか分からないし一瞬なんだもの。気づかれないように見逃さないようにって、毎日真剣だったんだよ。でも見つかっちゃったから、明日からの楽しみがなくなっちゃう」


残念そうに拗ねた口元で悪戯っぽく笑みを浮かべながら、緩んだままのネクタイや襟元に指を這わせ、今度は締め直さずにゆるゆるともて遊んでいる。君の指先には炎が宿っているのかと思うくらい、しなやかな指先がじゃれて肌に触れる度に、くすぐったさと同時に熱さで焦がされてゆく。

香穂子の手の平に重ねながらゆっくりとネクタイを解き、シャツのボタンに導くように彼女を指を沿わせた。
驚き戸惑い揺れる瞳に微笑みかけ、重ねた手で彼女の指を動かしながら、一緒に残りのボタンを外してゆく。
照れ臭いと想う意識はどこかへ消え去って、楽しんでいる自分がいるのは君には秘密にしておこう。

指を動かすのがやっとの真っ赤な君と同じように、俺にも明日からただいまの楽しみが一つ増えたから。


「香穂子の楽しみはこれからも無くならないから、心配要らない。明日からは君がじっと俺を見つめている目の前で、ちゃんとタイを緩めよう。途中までと言わず、シャツもボタンも全部外して」
「ちょこっと緩んだところが見れれば、今日の目標達成だったの。あの・・・全部じゃなくても、いいんだけどな」
「着替えを手伝ってくれるこの一時も、ただいまとお帰りの挨拶の続きなんだろう?」


握っていた両手を離すと、目の前にいるそのまま腕の中に閉じ込めた。
晒された上半身の素肌に押し当てられた香穂子から、伝わる胸の早い鼓動が、俺の鼓動をも震わせ心のありかを教えてくれる。抱きしめている俺が、君に抱きしめられているような感覚になるんだ。


「ただいま、香穂子」
「おかえりなさい。蓮にギュッってされると気持ちがいいの、良い香りがする〜」


頬を綻ばせながら素肌の胸に甘えて子猫のような姿に、愛しさがやがて優しい温もりへと変わってゆく。
瞳も頬も何もかもが緩み、全てが包まれ胸がじんわり温かくなってくる。
心の底から生み出す温かさが大好きだから、この手で守りたいと想うんだ。

そう・・・迎えてくれるこの腕の中の温もりは俺の家、たった一つの帰る場所-------。