素敵な景色の贈り物

音楽活動と生活の拠点にするヨーロッパの人々にとって、クリスマスと並ぶ一大イベントは夏のバカンスだ。

香穂子と結婚して共に暮らし始めてから初めて迎える夏休み。クリスマスが終れば次の楽しみを・・・とばかりに、まだ雪深い時期からどこへ行こう何をしようかと。彼女は地図やパンフレットを片手に、目を輝かせ調べものに没頭していた。太陽を求めてイタリアやギリシャ、スペインなどへ海外赴く人が多いらしいが、まだ知らない素敵な場所がたくさんあるの、という香穂子の主張で国内を巡る事になった。暑さが苦手な俺には過ごしやすいドイツの夏はありがたい。


待ち望んでいた休暇を共に過ごすべく訪れたのは、ドイツ南部にあるスイス国境の街コンスタンツ。税関を挟んで二つの組が商店街となって続いているこの街は、パスポートさえあれば二つの二つの国を自由に行き来もできるのも魅力の一つといえるだろう。


豊かな水源を持つ黒い森、古城のホーエンツォレルン城、数多くの音楽家も訪れた温泉保養地バーテン・バーテン、ベンツの街シュトゥットガルトなど・・・。このコンスタンツは、一本の街道で様々なドイツを堪能できるファンタスティック街道の終着点となる街。戦火を逃れた小さな旧市街には、三角屋根と木枠に囲まれた壁に、中世のフレスコ画が描かれた美しい街並みが残る黒い森が育む水を湛えるボーデン湖畔最大の街は、年間を通してリゾート客で多く賑っている。


ライン川を挟んだ川向こうはフランスだからドイツで最も美味が揃い、箱庭のような景色だけでなく、街道沿いには温泉保養地も数多い。これ以上に魅力的な場所は他に無いと、着いた早々からはしゃぐ香穂子は、いつもの数倍輝いてみえる。彼女の弾む心が奏でる音色と重ね、旅先の街角でヴァイオリ音を弾くのも楽しみも一つだ。


休暇とは人生で一番大切なものなのだと、留学していた音楽大学の友人に言われた事がある。大切な相手の為にどれだけ時間を割き、共有できるかが重要なのだと・・・。真っ直ぐ届いた一言の重みが、今となっては痛いほど胸に染みる。共に過ごせる時間は何にも代えられない大切な宝物。このひと時のために俺は生きているのだと・・・君の柔らかい空気に触れて、自由になれる心と身体がそう教えてくれた。






「ん〜っ! やっぱり朝の空気は気持いいねー。ねぇ見てみて、湖がキラキラしてて、凄く綺麗だって思わない?」
「・・・・・・・・」
「大きい湖だよね、反対岸が見えないから海みたい。ドイツに来てから海を見る機会が少なくなったけど、水のある場所って何だかホッとするの。水辺が好きな蓮の気持が分かるな〜。湖の真ん中に遠く見えるのが、お花のマイナウ島でしょう?」
「あぁ・・・・」


ベッドから引きずり出されるように起こされ、朝の散歩に繰り出したのは、ホテル近くにある湖畔沿いの遊歩道。
まだ半分眠りの淵を漂う俺とは違い、寝つきも寝起きも良い香穂子は元気さに溢れている。深呼吸をして腕を天に伸ばすと、気持良さそうに伸びをした。振り仰ぐ笑顔が、遊歩道を彩る花や湖畔を照らす太陽よりも眩しい。


「あっ! 始発のフェリーがもう出ちゃったよ〜お花畑一番乗りを目指してたのに! でもほらっ、水面に白い線が真っ直ぐ伸びてるの。輪っかの波紋が広がって面白いよね」
「・・・・・・まだ朝の6時半だ。何もこんなに早く行かなくても良いと思うんだが・・・」


水辺に駆け寄り額に手を翳しながら、白く走る小さなフェリーを眺める香穂子が肩越しに振り返った。
ちょっと残念そうに頬を膨らましているのは、遅れたのは俺のせいだと言いたいのだろう。あれもこれもと思い当たる節がたくさんあるだけに、反論出来ないのが辛いところだ。

スカートを翻して駆け戻り目の前に佇むと、先程から言葉少ない俺の頬をそっと包み込んでくる。温かい・・・そう思ったのも束の間で、メッと諌めながら頬をムニムニと動か始めた。


「蓮の脚が止まりそう、ちゃんと起きてる? 私たちの心のアルバムに、この景色をしっかり納めるが大切だって思うの。おはようのキス覚えてないって言うから、今日は4回も大奮発したんだよ。もう一回したら目が覚めるかな?」
「目も覚めて意識もはっきりしている、脚もちゃんと前に動かしている。だが、君のキスは何度でも欲しい」


起きている・・・と言いながら柔らかい手を剥がせば、堪えきれない欠伸をかみ殺しつつ小さな溜息が零れてしまう。
おはようとそう言って手を握り締めたまま、掠めるだけの口付けを唇に降らせれば、ほんのり頬が赤く染まった。


「もしかして私が朝早く起こした事、怒っているの? ごめんね、ホテルへ戻ったら仮眠を取ろうよ。世界的に人気の観光地だから、空いている朝がオススメだってホテルのコンシェルジュさんも言ってたじゃない」
「・・・香穂子は朝から元気だな、昨夜は意識を失うまで抱き合っていたのに。寝付いてからそれ程時間も立っていないだろう。俺はもう少し、君を腕の中に抱いていたかった・・・」
「やっ、もう〜蓮ってば。爽やかな朝に、恥しい事思い出させないでっ! そ、それは・・・先に気を失ってそのまま寝たのは私だし、やっと寝付いたばかりの蓮には申し訳ないって思うの。」


瞬く間に火を噴出した顔が、湯気の見えるほど耳や首筋まで真っ赤に色付いた。振り切るように解いた手をもじもじと弄り、必死に言葉を紡いでいる。途中に立ち寄ったバーテン・バーテンで、どうしても水着になりたいから跡を付けるなと。柔肌に強く触れる事を拒まれ続けた辛い日々が、ようやく昨夜に解禁になったのが原因だろう。


押さえつけられていた欲求が、堰を切って溢れ出したのは言うまでもない。半分どころではなく、九割以上は自業自得だといえる。夏なのに香穂子が薄いカーデガンを羽織っているのは日焼け対策ではなく、肌に散った赤い花たちを隠すためだ。暑い中に申し訳ないと思いながらも感覚が蘇り、顔に熱さが集まってくる。


「だって温泉なんて久しぶりだったんだもん。水着でいろんなお風呂に入れるスパだから、蓮と一緒に入れるのが嬉しくて。だからね、恥しくないように跡を付けたくなかったの。でも反動が大きいから、今度からちょっと考えるよ」
「すまない・・・もう跡を付けても構わないと、君の許しが出てつい我を忘れた」
「温泉でお肌がツルツルになったって喜んでた私もいけないけど、でも半分は蓮のせいだよ? あ、えっと・・・我慢させちゃった私のせいかな」
「いや、俺のせいだろう。無理をさせてしまったな、香穂子の方が辛いのに」
「私は大丈夫だよ。蓮にギュッと触れてもらえるのは嬉しいもの。それに早起きは素敵がいっぱいだから・・・ねっ、頑張ろう?」


俺の片手を包み握り締める温もりに、抜けの霧も晴れてくるようだ。真っ直ぐ見つめる眼差しを緩めた瞳で見つめ返し、微笑を注ぎながらもう片手を添え重ねた。


「初めて過ごすバカンスにこのコンスタンツを選んだのは、俺たち二人の希望を叶える為だったな。俺は水のある場所、香穂子は花のある所へと・・・」
「湖に浮かんだマイナウ島のお花畑を見るのが、バカンスの最終目的なんだよ。綺麗な景色と澄み切った空気と大切な花の香りは、蓮と二人っきで楽しみたいの」
「俺が好きな湖と、君の好きな花・・・水は花を咲かせ、花は大地を潤す。湖の真ん中に花畑が包まれているのは、まるで俺たちみたいだな。いつでも君を抱き締めいたい、そんな願いをも表しているようだ」
「でしょう? この場所は私達にピッタリなんだよ。蓮もずっと前にそう言ってたじゃない。フフッ・・・忘れちゃった?」


行こうか・・・と腕を差し出せば、スカートを靡かせながら駆け寄り、ピョコンと腕にしがみ付いて来る。懐から舞い上がる花の香りと温もりを伝える柔らかさが、足元の小さな草花の呼びかけに応えていた。歩く早さは心地良い呼吸と同じくらいゆっくりで。花や草に宿る朝露を見つけては、宝石みたいだと喜び、くるくる変わる表情に引寄せられ目が離せない。


ただの草や名も無い花にに見えても露の付き方が違い、どれもが光り輝いているのだな。その中で一番輝いているのは、間違いなく君だと思う。自然に綻ぶ頬が留められずに、いつしかもっと君の笑顔が見たくて、俺もいろいろな目線で見るようになっていた。


湖に浮かぶ島を遠く眺める香穂子の横顔が、懐かしそうに記憶を辿っている。絡めた腕を引寄せ、どうかしたのかと耳元で優しく囁けば、きゅっとしがみ付き、甘えるように肩先へ頭をこすり付けてきた。


「蓮が留学して遠く海を離れていた頃、蓮が手紙と一緒によく絵葉書を送ってくれたでしょう? その中にね、このマイナウ島のお花畑があったの。島全体がフラワーアレンジメントみたいに綺麗で、ちょっとエキゾチックで。どうして森の国ドイツに島があるんだろうって不思議だったけど、湖に浮かんでいたんだね」
「覚えていてくれたのか」
「うん、もちろんだよ。今でも大切に持っているもの。私の誕生日にメッセージカードをくれたんだよね。本物の花は贈れないけど、君にぴったりの花畑を見つけたから送ろう・・・って。湖に囲まれた花の楽園に、いつか一緒に来れたらいいと思うって・・・凄く嬉しかった。だからね、夢が叶って幸せなの」


そう言ってポシェットの中から手帳を取り出し、丁寧に挟んでいた一枚の絵葉書を取り出した。俺に差し出しながら頬を染め、照れ臭そうにはにかんでいる。小さなキャンバスいっぱいに広がった花の景色に、驚きと嬉しさと・・・言葉にならない感情が一気に押し寄せ俺を飲み込む。


「これは・・・・・っ」
「私の大切な宝物なの。寂しかった時とか、元気が欲しい時に眺めていたんだよ。蓮くんはどんなところで暮らしているんだろう、こんな街でヴァイオリン弾けたら楽しいだろうなって。自分が一緒にいる姿を想像してたの」


差し出されたのは色とりどりの花と湖に囲まれたバロック式の教会や、宮殿の風景が納められた写真・・・。留学中に俺が香穂子へ送った絵葉書だった。かつては要塞だった湖の島が王家の所有となり、教会や離宮が建てられ花の楽園にと生まれ変わった。夏のサマーコンサートを聞きに遠出をした時に偶然見つけ、心に焼きついた一枚。
俺の心に花と陽だまりをもたらしてくれた君に似ていて、眩しい笑顔と音色が蘇り、どうしても手放せなかった。


身体を押し付けるように腕へしがみ付く温もりと柔らかさが、甘い疼きとなって背中を駆け抜ける。小さな灯火が大きくなるのは、夜の熱さがほのかに宿っているからだけでない。心を込めて送った一枚を、数年経った今でも大切に持ち歩いてくれているのが、純粋に嬉しかったから。


街の様子を伝える代わりに俺が送った絵葉書と同じように、彼女から贈られた絵葉書の数々にどれだけ励まされたか数え切れない。裏面の余白に書かれたメッセージを何度も何度も読み返し、添えられる愛らしいキスマークにそっと唇を重ねた・・俺にとっても、色褪せない大切な宝物たちだ。


湖の穏やかな小波のように、ゆっくり歩きながら心に刻むひと時は、またひとつ素敵な想い出に変わるだろう。
肩先にもたれかかる香穂子の髪に頭を寄せ、撫で梳く代わりに髪を優しく絡めてゆく。一人では決して生み出せない心地良さ・・・花よりも芳しい香りが安らぎをもたらすから、ずっとこの温もりに浸っていたくなる。


「花にも負けない輝きの君と、いつか共に訪ねられたらどんなにか素敵だろうと思っていた。きっと気に入り喜んでくれると信じ、同じ一枚を俺もずっと持っていたんだ」
「本当!?」
「あぁ・・・香穂子と同じ一枚はいつでも眺められるように、持ってきた本の中に挟まっている。早く気づいていれば、俺も持って来るのだったな。その他に君からもらった絵葉書たちや、俺から贈った同じものは、自宅のファイルへ保管してあるんだ。家に帰ったら、一緒に想い出と未来を語り合って眺めようか」
「・・・っや、どうしよう。もう〜蓮がこんな時に驚かすから、目の湖が溢れてきそうじゃない」
「涙はこの湖が吸い取り、心を潤してくれるだろう。バカンスの行き先に、俺が贈った絵葉書の土地たち選んでくれたと気づいた時は、言葉で言い表せない程嬉しかった。無事に帰宅したら伝えようかと思ったが、今改めて君に伝えよう。ありがとう、香穂子」



絵葉書をぎゅっと握り締めたまま、零さないように一生懸命見開く大きな瞳には、光りに輝く湖のように湛えられた煌きの雫。くしゃりと歪みそうな笑顔で振り仰ぐ頬を優しく包み込み、伝う雫の跡を指先で拭い去った。
早朝で誰もいないからいいだろうかと周りを見渡し、口元を寄せて吸い取った目尻の泉は甘い蜜の味がした。


くすぐったそうに身を捩りながらも甘い吐息を零し、緩めた浮かべた唇を悪戯に掠めて笑みを零す。
真っ赤に染まった笑顔は、湖の向こうに見える小島に咲くどの花よりも可憐で愛らしい。
そう・・・君は誰にも負けない太陽の花。俺という湖で、ずっと君を潤し抱き締めよう。


「旧市街の中央駅からバスで行く方法と、フェリーで行く二つの方法がある。香穂子はどちらがいい?」
「せっかくだからフェリーがいいな。蓮は水が好きでしょう? 私も水辺が大好き。のんびり湖を眺めて澄んだ空気を感じたら気持良さそうだよね」
「ではそうしようか。次の便に乗れれば、島の開館時間には間に合うはずだから」
「蓮はもうすっかり起きたよね? そうと決まれば、早く行かなくちゃ。きっと今日は、朝ごはんも美味しいと思うの」


持っていた絵葉書へ愛しそうにキスをすると、ポシェットの中へいそいそと片付け始めた。元気一杯の彼女に腕を引かれ急かされながら、のんびり歩いていた先程までと違いペースも足取り軽やかにテンポアップしている。
遠くの小島を指差しながら待ちきれないのとはしゃぐ笑顔に、浮き立つ心のまま自然と緩む瞳と頬。受け止めた笑みに、愛しさを載せて君に返そう。





一枚の絵葉書で俺が君に、君が俺に見せてくれた素敵な景色。だが何よりも嬉しくて大切なのは、小さなキャンバスに納められたどんな美しい景色よりも、君と一緒にこの場所にいられる事だと思う。

俺たち二人の思い出を一つに重ね合わせ育もう、これからもずっと----------。






123456キリ番が諸事情で中止になった代りに、携帯写真絵日記の「Pictuers Dirry」で絵葉書を使った絵画クイズを出題しました。見事正解されたAkiさんから頂いたリクエストは「結婚後の2人で 2人で初めて過ごす欧州の初夏のバカンス」です。連載を好きだと仰ってくださった嬉しさに、ほんの一欠けらだけエピソードを絡めてみました。

大変お待たせしてすみませんでした! 拙いものではありますが、愛と日ごろの感謝を込めてAkiさんに捧げさせて頂きますね。そしてスペシャルサンクスなYさんにも、ひっそりこっそり捧げます。
私もバカンスした気分で楽しみました。素敵なリクエストをありがとうございましたv