Sea Breeze



青空の端からゆっくりとオレンジ色の夕焼けに染まる頃、それまで陸から吹いていた風が、海から向かう風に変わる。陸風と海風が移り変わるときに、無風状態になるのが夕凪だ。「よき日を讃えるには夕暮れを待ち、生を讃えるには死を待て」・・・ラテン語のことわざなんだが、知ってるか? ははっ、なにぽかんとした顔してやがる。

大さん橋から出航しているクルーズ船の白いデッキから、身を乗り出すように海風を受け止めて。ゆっくりと暮れゆく景色の中で、少しずつライトアップが始まる港の景色を、小日向が無邪気な子供の笑顔で見渡している。だがふと思い出したように困った顔で見上げる澄んだ瞳へ、夕凪の微笑みを注ぎながらそっと肩を抱き寄せた。


「あれがベイブリッジで赤れんが倉庫、こっちは観覧車と・・・あっ、いつも練習している公園も発見しました! 船から見ると、いつも暮らしている街の景色が違って見えるから不思議ですね。夕暮れの海も街もキラキラ光る宝石みたい!」
「嬉しそうだな。昼間は暑さにしおれた花みたいだったが、水を浴びたみたいに元気になったじゃないか。炎天下の中で必死に練習もいいが、たまには息抜きも必要だろ」
「ありがとうございます。でも、良かったんですか? 私まで一緒に素敵な船に乗って」
「俺が船に乗りたかったんだ。で、お前も手放したくなかった・・・それだけだ。海辺で涼むのもいいが、船で潮風を浴びるのが、一番涼しくて気持ちいいぜ」


むせかえるような暑さとはこんな日なんですよね、空気じゃなくて湯気ですよ・・・と。一緒に取った昼食後の練習で、いつもより少し具合の悪そうな顔色を見せながらも、お前は笑顔や毅然とした音色は失わずにいたな。こう連日の暑さが最高記録を上回ったんじゃ、確かに気分も茹だりたくなるぜ。一日の終わりを迎えた頃に真っ直ぐ寮へ帰るのではく、「出かけるぞ、お前も一緒に来い」と誘った先が、このクルーズ船だ。

ファイナルを控えたお前は、夏の暑さにやられている場合じゃねぇだろ? 
どうせ熱さにやられるなら、俺の熱さに焦がされてみろよ。そう吐息混じりに囁きながら華奢な肩を捕らえ、腕の中へと引き寄せた。


「海や波を、日がな一日眺めていても飽きない気持ちも分かる。だがいつまでお前は、海ばかりをみつめているんだ」
「わわっ・・・ちょっ、千秋さん!」
「夕暮れの夜景に見とれるのもいいが、少しは俺のことも見ろよ」
「あの・・・でも、背後から抱き締められたら、私・・・千秋さんの顔が見られません」
「そうむくれるなよ、お前を抱き締めるのが気持ちいいんだ。じゃぁ俺が見えるように、正面から抱き締めてやろうか?」
「いっ、いいです! 後からギュッのままで、いいです」


背後から閉じ込めた身体は、自分の身体に隠れすっぽりと収まるほど小さくて、可愛い。堂々と演奏するステージでは、大きく見えたんだがな。夏服の薄い布越しに温もりを伝えてくれる柔らかさを、触れる肌で感じながら大切に抱き締めれば、白い首筋が見る間に赤く染まるのが分かった。

明るい太陽が輝く昼と夕暮れに艶めく海、そして全てを黒で飲み込みながら夜景を照らす夜の海・・・。いろんな海が俺を魅せるように、お前も俺を惹き寄せる。この腕の中に咲くお前は、夜にどんな花を咲かすんだろうな、そう急く気持を理性で繋ぎ止めているのは、真っ赤な茹で蛸になる純粋さが愛おしいからだ。残念だが今はまだ・・・もう少しこのまま、お前を抱き締めさせてくれ。

船を岸壁に停留させる綱を絆というのを知っているか? 人と人との絆は、これから来てるんだぜ。お前との絆を手放したくはない、今すぐ神戸に攫ってずっと手元に置いておきたい・・・。そうざわめく心の波を夕凪の穏やかな海と、優しく包み込むお前の温もりが静かに沈めてくれる。


「ん〜潮の香りが気持ち良いですね。夕方になると暑さが和らぐから、ほっとします。昼間の海も好きだけど、夕暮れの海も綺麗。小さく揺れるオレンジ色の波は、キャンドルの炎に似ていると思いませんか? すごく落ち着きます」
「公園や海岸から海を眺めると遠く感じるが、船に乗ると海がずっと近くなる。どうだ、お前も少しは涼しくなっただろ。一歩踏み出せば近付くんだぜ、海も音楽も心も・・・な」
「千秋さん・・・あの、えっと・・・」
「なんだ、小日向」
「海の風も香りも気持ち良いですけど、千秋さんの香りと、ぎゅっと抱き締めてくれる腕の温もりが、一番大好きです!」
「・・・小日向。馬鹿・・・腕の中でそういう誘い文句、反則だぜ」


ったくお前は、じれったいくらい鈍感だと思えば、時々俺がドキッとすること言うじゃねぇか。背後から抱き締めた肩越しに振り返りながら「元気出ました、ありがとうございます」と、にこやかな笑顔に自然と頬や瞳が緩む。視界を遮る物がない360度の大パノラマが、少しずつ夕闇に溶け込み電飾の輝きを放ち始める。ほうっと感嘆の吐息で景色に魅入っているが・・・夜景よりもお前が一番綺麗だぜ。

耳に掛かった吐息にぴくりと肩を揺らし、何か言いました?と不思議そうに振り返る額へ、可愛いって言ったんだよ・・・そう微笑みながら小さくキスを落とす。


「千秋さんは、船が好きなんですね」
「あぁ、好きだな。汽船のことをクイーンというが、いつか俺がそんな船を持つときには、お前の名前を付けてやるぜ」
「えっ、えぇっ〜! 船って・・・私の名前って!?」
「いや、クイーンというよりも女神だな、お前は。俺に勝利をもたらした、情熱的なキスの女神・・・」
「もっ、も〜千秋さんってば! そうやってからかうのなら、もうキスしてあげませんからね」
「ハハッ、強気に出たな。ならば俺から奪うまでだぜ」
「・・・んっ、ふぅっ・・・・」


ぷうと頬を膨らまして拗ねる可愛い顔が、肩越しに振り仰ぎながら俺を睨んでくる。本当はお前だって俺が欲しいくせに、キスしないなんて言っても良いのか? 俺をの目を見ろよ、そう・・・そのまま目を閉じる。自身たっぷりに笑みを浮かべながら、指先で捕らえた華奢な顎を上向かせて、吐息で囁く恋の呪文。

拗ねた瞳が甘く潤みだし、吐息に甘さが加われば、素直に閉じた瞳へゆっくりと顔を近づけてゆく・・・。だが、深く抱き締めたまま重なる唇は、カンタレラで奏でるドルチェの音色のように、どこまでも甘く優しく。
お前を蕩けさせるなんて言いながら本当は、俺の方がお前に蕩けちまうんだけどな。


夕方の風が止んだ穏やかな海は、心が和む景色だと思わないか? 穏やかになった波を見つめるだけで、心まで穏やかになれる・・・俺の一日もよき日だだったと、讃えることが出来るぜ。まぁ俺は、生を讃えるために死は選ばないがな。え、どうして良い一日だったかって? 相変わらず鈍いなお前、一日の終わりに、お前が俺の隣にいるからだろうが。