幸せの音

シャワーを浴びて寝室に戻ると、先に済ませていた香穂子がベッドの上にペタリと座り寛いでいた。シーツの上に雑誌か何かを広げているようで、ドアを開けた俺に気付くと顔を上げて「おかえり」と笑顔を向けたものの、再び熱心に魅入ってしまう。瞳を輝かせ紙面に吸い寄せられる君は、一体何を熱心に見ているのだろうか?



首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながらベットに歩み寄り、邪魔をしないようにと静かにベッドの淵へ腰を下ろした。
上体を捻って背後を振り向き付いた片手を支えにして身を乗り出すと、キチリと小さくスプリングが軋む。
香穂子の手元に広げられているのは、今夜観賞したばかりのコンサートのパンフレットだった。


観賞したのは弦楽四重奏の室内楽で、ホールではなく古城の広間を使ったもの。間近で奏でられる演奏とサロンの雰囲気が、古き時代の宮廷に誘ってくれるようだと、演奏後は興奮を隠しきれなった香穂子の姿を思い出す。

重奏の音楽、重奏の為の楽曲を室内楽である室内楽は英語でチェンバーミュージック(chanber music)といい、チェンバーとは宮廷内の広間の事。本来は宮廷楽と訳すべきだが室内楽の訳が定着したようだ。そう話した時に身を乗り出して真剣な表情で聞入り、ふむふむと頷き質問を返すほどの真っ直ぐさが、俺の心に灯した熱さとなって蘇ってくる。


素っ気無くされた訳では無いが何故か寂しいと・・・こちらを向いて欲しいと本にさえ嫉妬していたのに。
俺を放ってまで君を夢中にさせるものが音楽であった事に、少しだけ安堵している自分に苦笑が込み上げた。
だがそろそろ一緒に過ごす為に、君の時間を俺にくれないか? 


歴史は夜に作られるというが、俺たちも想いや言葉は寝る前のくつろぎのひと時に伝え合う事が多いと思う。
俺たち二人には、一日の中で最も心と身体の距離が近くなる大切な時間だから。
ありのままの自分を晒し、君に委ね、そして互いに受け止め合って。




1・2・3・4と楽しげに声を出して数える香穂子は、広げた手の平の指を一本ずつ折っている。時折ふと視線を上げて考え込んだかと思えば、くすりと笑みを浮かべてまた続きを数え出す。くるくる変わる表情は見ていて飽きる事がなく、自然に緩む頬は一緒に同じ顔をしてしまいそうだ。


俺の視線を感じたのか数える手を止めて振り向くと、あっという間に頬が赤く染まってしまう。照れ隠しなのかシーツの上に置いたパンフレットを掲げて見せると、素敵な演奏だったよねと横からちょこんと顔を覗かせて。溢れる音ごと閉じ込めるように、パンフレットを胸に抱き締めた。


「楽しそうだな、指折り何を数えていたんだ」
「やだ・・・見てたんだ。今日は素敵なコンサートに連れて行ってくれてありがとう。楽しかったなって、パンフをみながら思い出していたの。二人はデュエット三人でトリオ、今日のは弦楽四重奏だったからカルテット! 五人でクインテッドだし、他にどれくらいまであったかな? 奏でる人数は少なくても、オケに負けない響きや良さがあるよね」
「あぁ、九重奏まで呼び名がある。六重奏はゼクステッド、七重奏はセプテット、八重奏はオクテット、九重奏はノテットというんだ」
「独りの演奏も素敵だけど、アンサンブルって音色と一緒に心も一つになる感じが心地良いの。素敵な演奏を聞いたら私もヴァイオリンが弾きたくなっちゃった」
「では、明日になったら一緒に合わせようか?」
「本当!やった〜凄く楽しみだよ。じゃぁ今日は、寝不足にならないように早く寝なくちゃね。蓮と良い音楽を奏でる為に」


今夜も君を抱き締めて眠りたいと思っていたのに、演奏に備えて体調を整えるのも大事だよねとそう言って。シーツに広げていたパンフを片付け、いそいそと布団を捲って眠る準備に入ってしまう。君と音色を奏でるひと時は好きだが、温もりと柔らかさを抱き締めるのも同じくらい大切なのに。お休みなさいと布団をかぶって振り仰ぐ瞳を微笑で受け止めながら、タオルで髪の雫を拭っていた手も思考も行動の素早さに一瞬止まる。


どうやら、余計な一言だったようだな・・・。


惚れた弱みとはいえ、心の中で自分の迂闊さに小さく溜息を吐いた。寝つきが良いから、直ぐに夢の中へ漂ってしまうだろう。君とは反対に眠れぬ夜を過ごしそうだと、瞳を閉じる愛しい彼女の寝顔を、ただ見つめるしかないのがもどかしい。だが前髪を掻き揚げつつ頭を抱え、濡れた髪を拭いていると、あっ!と声を上げた香穂子が潜った布団を跳ね飛ばして飛び起きた。何か気になる事を思い出したのか膝立ちをして、ベッドの淵へ座る俺の元へ早足で駆け寄ってくる。

緩やかに跳ねるベッドのスプリングの足元は不安定だ。
大丈夫だろうかと手を差し伸べかけたところで、パジャマの裾を自分の膝で踏み、体勢を崩してしまう。


「きゃっ!」
「・・・・・・っ! 危ない」


止まらぬ勢いのままベットから床へ転がり落ちるところだったのを、危ういところで受け止めた。腕の中にしっかり抱き締めたままほっと胸を撫で下ろし、安堵の吐息を吐いたのは俺も香穂子も同時で。微かに震える手で背にしがみ付いたまま、ちょこんと振り仰いだ彼女がすまなそうに瞳を揺らしてくる。洗いたての髪から漂うシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、胸が甘い糸で締め付けるようだ。


「ありがとう、いつまでも落ち着きが無くてごめんね。蓮が受け止めてくれなかったら、今頃私は床に転がってたよ」
「気をつけてくれ、俺の心臓まで止まりそうだ。寝る前でも元気が良いのはいつもの事だろう? そこが君らしいと俺は思う。俺の元へ急ぎたかったのだと分かるから・・・だが無理はしないでくれ。もしもの事があっては大変だから」
「うん、ごめんね。気をつける」
「寝付いたと思ったが、突然飛び起きてどうしたんだ。何かあったのか?」
「えっとね、さっき指を折り何を数えていたかって私に聞いたでしょう? 答をまだ伝えていなかったなって思い出したの」


身体を離すと、傍らにペタリと座る振動が柔らかい波を作り出した。心を揺らす白い波に二人で身を任せれば、硬く緊張した互いの瞳もいつしか甘く溶け合ってくる。


「違う楽器や旋律を重ねるアンサンブルって、人と人との繋がりや係わり合いに似ているなって思ったの。二人が三人、三人から四人ってどんどん増えていくでしょう? 最初は二人でも分かり合うのが大変だけど、多くなれば尚更で。でもその繋がりは揺ぎ無い強いものになるんだよ。私と蓮を演奏に例えたら、二重奏のデュエットだよね」
「重奏は複数の人が同時に、各パートを独りずつ演奏するものだ。少なくとも二人が同じ演奏をしているならば合奏という。違う個人・・・つまり俺と君が、想いや生活の全てを共に一つに重ね奏で合う。まさに人生のデュエットだな」
「そこで考えたの! 私たち、何重奏まで出来るかな?」
「は!? ・・・すまない。質問の意味が良く分からないんだが・・・」


分からないの?と愛らしく小首を傾げた香穂子は、俺にどう伝えようかと悩み、人差し指を唇に押し当てて考え込んでしまう。やがて閃いたのかポンと手を叩くと、シーツに両手をついて一歩前へ迫り、俺へと身を乗り出してくる。


「蓮のお父様とお母様を加えたら四人でしょう? そのうち私達に子供が出来たら五人になって、六人になって・・・皆で演奏できたらきっと楽しいよね! 九重奏まで名前を教えてくれたけど、十人以上集まったらどうなるの?」
「こ、子供・・・・!? いや・・・その。皆がピアノやヴァイオリンでは、アンサンブルは難しいと思うんだが・・・」
「あ、そっか。違う楽器も欲しいよね・・・む〜ん、壮大な計画は前途多難だなぁ〜」
「計画?」
「うん! 私と蓮がおじいちゃんとおばあちゃんになった時にね、子供とか孫とか皆が集まって、室内楽とかオーケストラになったら素敵だよね。想像したらワクワクしちゃって、それでさっき数を数えていたの」
「かっ、香穂子・・・・・・。まさかそれを俺に伝える為に、寝付いたところをわざわざ起きてくれたのか?」
「そうなの、どうしても気になって眠れなくて。やだ・・・蓮、どうしたの? 顔が真っ赤だよ、熱あるの!?」




大丈夫だから・・・とそう伝えるのがやっとで。熱くなった顔をフイと反らし口元を手で覆って隠しているのだが、心配でたまらないらしく、一生懸命顔を覗き込もうとしてくる。鼓動は息苦しい程に高鳴り、掴まれる腕からは火を噴出してしまいそうだ。どうして君はいつも俺の心を真っ直ぐ射抜き、いとも容易く引き金を引いてしまうのだろう。


遠回しに子供が欲しいのだと・・・夜の熱いひと時を求め俺を誘っていると、少女のように無邪気な君は気付いているのかいないのか。いや、気付いていないだろうな。もしも気付いていたら恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染めて、口も利けないだろうから。


「・・・そうだな、俺たちも頑張らないと」
「うん! 頑張ろうね」
「・・・・・・・・」


襲った軽い衝撃に、呼吸が一瞬止まったように感じた。
呟きにも等しい俺の言葉を聞き取ってくれた香穂子の頑張ると、俺の頑張るは恐らく違う意味なのだろう。
現に目の前の彼女は、いっぱい練習しなくてはと、そう言って両手の拳を握り締めているし。
しかし、室内楽を大きく飛び越えてオーケストラとは・・・。無邪気さもここまで来ると、熱さが噴出し眩暈がして来る。

確かに夢は壮大だな、一体何人の編成なのかと脳裏で考えてしまう自分がいる。
半ば呆れつつも彼女が言うと自然に心に落ちた雫が俺を染め、悪くは無いと思えてしまうから不思議だ。
都合良いかも知れないが、了承の返事をもらえた事だし、ありがたくそうさせてもらおう。


伝えて満足したのか、背を向けて自分の枕へ戻ろうとする香穂子の背中を抱き寄せ、腕の中に深く閉じ込めた。
耳朶に口付け、そのまま唇はゆっくりと白い口筋を這わせてゆけば、柔らかな温もりが甘い吐息を零し小さく震える。
背後から抱きかかえたままくるりと体勢を変えると、白いシーツの海へとゆっくり倒して覆い被さった。


「香穂子・・・」
「・・・・きゃっ! ちょっと蓮、何するの?」
「俺たちも頑張るんだろう? どんなアンサンブルを奏でようか」
「へっ!? えっと、その・・・あっ!私たち家族で事はつまり・・・やだっ、私ったら。違うの、そういう意味じゃなくて・・・でも遠い先を見ると違わないけど。あ〜もうっ、気付いてたら教えてよね!私一人だけ、凄く恥ずかしいじゃない〜」


我に帰った途端に真っ赤になるのは予想通りで、ジタバタと身動ぐのを難なく押さえ込んだ。顔を寄せると耳や首筋まで真っ赤になった熱が伝わり流れ込み、一気に身の内で最後の理性が弾け飛ぶ。潤み出す大きな瞳で必死に俺を見上げ、ね?と小首を傾げつつ俺を宥めるささやかな仕草も、もはや愛しさを募らせるしかない。


「まずは二重奏(デュエット)・・・だな」
「んっ・・・・」


手の平で熱い頬を包み込むと、微笑を注ぎながら優しくキスを落とした。
始まりを告げるキスは軽く触れるだけだが、灯った火をつける熱さを宿すもの。そして、次第に深さを増してゆく・・・。
さぁ始めよう、俺たちの二重奏を----------。





俺たちの結婚式の時に友人達がくれた寄せ書きにも、同じようなメッセージが幾つかあったな。
あの時はまだ遠い先だと、二人で眺めながら照れたものだが。


君が言うように確かにこの先、大切な人の絆が増えてゆくのだ・・・二人から三人、三人から四人へと。
俺たちのアンサンブルは何重奏まで増えるのかは、コウノトリのご機嫌に任せるとしようか。
いつか皆で楽器を奏で、音色を重ねられたらいい。きっと君の笑顔や音色のように、温かく光りに満ちていると思うから。