それは始まりの合図
明日も練習を見てやるよ、昼間は暑いけど午前中なら涼しいから、外でも平気だろ? 今では毎晩恒例となった、眠る前におやすみなさいと伝え合う電話で、香穂子にそう言った翌朝に見上げた空には、雲一つ無く予想外に夏の日差しが強く照りつけ、じりじりと肌を焦がす。波の音を聞きながら海で感じる暑さは平気なのに、どこからともなく蝉が賑やかに騒ぐだけで、眉間に皺が寄るのはなぜだろう。そんな俺を、隣で手を繋ぐ香穂子が、面白そうに眺めているけれど。
先に涼しい図書館で宿題をするか、こんなに天気が良いのならいっそ、サイクリングかボディーボードに行けば良かったかもな。駅前で待ち合わせた後に海の見える公園にきたものの、暑さを避けて茂みの日陰に避難。小さな木陰の先に広がる白い眩しさに眉を寄せる衛藤に、木陰は涼しいよねと。休日のデートでもヴァイオリンケースを欠かさず持ってくる香穂子は、暑さにめげること無くふり仰ぎ、眩しい笑顔を返してくる。
「夏は好きだし、暑いのは平気なの」
「拳を握り締めて意欲を示すのはいいけれど、あんたは長引いた夏風邪が治ったばかりだろ。夜は譜読みの他に、受験生の夏休みだから遅くまで勉強をしているみだいだし、無理すんなよ。風邪が長引くと、また俺に会えなくなるぞ」
気付いていないのか、それとも無理をしているのか・・・いつもより口数も少ないし、まだ顔色があんまり良くないぜ。外がこんなに暑いと、いくら涼しい木陰でもヴァイオリンに集中できないだろうし、何よりも香穂子の身体が心配なんだ。
真摯に見つめる衛藤が伸ばす長い指先が、病み上がりで少しやつれた香穂子の頬に触れると、香穂子の瞳が溢れる温かさにふわりと緩む。最初は指先だけ、そしてゆっくり溶け合うように手の平で包む、ちょっぴり不器用だけどたくさんの優しさが愛しくて。精一杯の笑顔で返す香穂子に、衛藤の頬も照れたようにほんのり赤く染まってゆく。
「ありがとう、風邪はもう大丈夫なの。会えなかった間にも、携帯にメールや電話をくれたでしょ? 風邪引いたのは久しぶりだから、一人で寝込んでいる時はすごく寂しかったけど、桐也がくれた心のお薬が私を元気にしてくれたんだよ。ふふっ実はね、幹生くんからもお見舞いメールをもらったんだよ」
「幹生から?」
「うん! 香穂子ちゃん、風邪の具合はどうですか。香穂子ちゃんが風邪を引いてから、お兄ちゃんも家で元気がありません。風邪が治ったら、お姉ちゃんのヴァイオリンで元気を分けてあげてねって。私が好きな熊のデコメつきで」
「なっ・・・・! あいつ、いつの間に」
「可愛いなぁ、私末っ子だから弟がいるって羨ましいな。元気になったよって、あとでお礼言わなくちゃ」
香穂子は可愛いものが好きと分かっていながらも、絵文字やデコメなんて気恥ずかしくて送れるわけがない。先を越された驚きや恥ずかしさ、素直な弟は香穂子に何を言ったんだという見えない焦りが、一気に押し寄せ、次に紡ぐ言葉を詰まらせる。にこにこ楽しそうに微笑みながら可愛いねを連呼する、あんたが言う可愛いってのは、まさか俺じゃないよな。
一気に身体中へ吹き出した熱が顔へと集まるのを感じながら、他にどんなメールをもらったのかと問い詰めても、秘密なのだと悪戯に笑みを浮かべるだけ。後ろ手に組みながら一歩ずつにじり寄り、元気なかったんだ〜と、悪戯に迫るのも今のうちだぜ。
「待ち合わせ場所に来た私へ桐也の第一声が、俺に会えて嬉しい?だったでしょ。私の心を言い当てた桐也は凄いっなて思ったし、どうして分かったんだろうって不思議だったの。嬉しい気持ちは素直に顔に出ちゃうから、恥ずかしかったけど。でも私ね、気付いちゃった。会えて嬉しかったのは、桐也も同じだったんだね」
「香穂子、その・・・悪かったな」
「どうして桐也が謝るの?」
「香穂子が風邪引いたのも、元はといえば俺の責任だし」
「もう、その話は解決したの。私が勝手に風邪引いたんだから、桐也は悪くないんだよ。だって・・・ちゃんとタオルケットかけてくれたのに、熱いから放り出しちゃったのは私だもん・・・何度もかけてくれたんだよね。でもその度にぽいって放り出しちゃったみたいなの。桐也の腕枕で気持ち良く眠っていたから、良く覚えて無くてごめんね」
真っ赤に火照る頬のまま、前に組んだ手をもじもじと恥ずかしそうに弄りながら、時折上目遣いで見上げる視線。熱さの後でやってくる寒さと冷えを、薄着のまま・・・というよりも何も着ないで過ごしたのが原因だとそう言いたいのは分かる。だけど、風邪を引かすことなくあんたを温める方法が、ちゃんと合ったはずだろ。
想いを巡らせ難しそうに眉を寄せる衛藤に、嬉しかったし幸せだったよと綻ばせる微笑みが、さざ波のように押し寄せ想いと温かさが広がってゆく。
だからうん!って素直に頷いたら、真っ赤に照れたんだねと、満面の笑顔で真っ直ぐ飛び込心には敵わないぜ。今更強がる訳にもいかず、嬉しかったと素直に心の内を明かせば、夏の暑さと恋心が火を付ける。これ以上俺の心臓を弾けさせないように、頬を包む手を滑らせ無邪気な唇を指先で塞いだ。
「場所、変えるか。香穂子、どこ行きたい?」
「・・・えっとね、私の家はどうかな? 今日はね、夜まで私一人だけなの。お父さんとお姉ちゃんは仕事だし、お母さんも同窓会があって帰りが遅くなるんだって」
「誰もいない家に男を招く意味、分かってる? ひょっとして俺を誘っているわけ? ふーん、やるじゃん」
「違うよ、桐也の意地悪! 涼しい部屋の中でヴァイオリンが弾けて、桐也と二人きりになれるところって、他に思いつかなかったんだもん。私の部屋は防音じゃないけど、昼間なら音が出せるし・・・お茶も菓子も一緒に食べられるし」
「・・・本当に、それだけ?」
Tシャツの裾をきゅっと掴む手の力と、ふり仰ぐ眼差しから甘い願いが痺れるほどに伝わってくる。自分の心とあんたの願いが重なるのを確かめたくて問い返せば、真っ赤に火を噴きながらも小さくふるふると首を振り、つま先立ちで背伸びした唇がぐっと近付く。触れる寸前で控えめに周囲を見渡し、誰もいない事を確認すると、吐息と共に熱い柔らかさが押し当てられた。恥ずかしさに顔を上げられず、俯いたまま腕に添えられた手の熱さに目眩がしそうだ。
「私が元気になったから、今度は桐也に元気を分けたいな。あ・・・でも風邪は治りかけが肝心だから、とびきり甘いお薬をココロとカラダに欲しいかも。水分やどの栄養よりも、私の中に桐也が不足しているんだよ。ダメかな?」
「・・・また、風邪引いても知らないぞ」
「大丈夫だよ。寒くないように、温かい桐也へきゅっとしがみついているから。熱くなるけど冷房は控えめにしなくちゃ。二人で一緒にタオルケットにくるまろうね」
木陰の緑がそっと覆い隠してくれる中で、まずは風邪引いた間に俺を心配させた分、そしてあんたには小さな恋のクスリを。優しいキスで啄み合うようにお互いへ元気を補給・・・なのに、困ったように涙目でちょこんと差し出す赤い舌。
口内炎があるから舌が痛い?それってつまり、キスしても中に入っちゃいけないってこと? 我慢できないから無理に決まってんじゃん。そんなもん舐めときゃば治るって。身を屈めて小さく差し出された舌へ、アイスキャンディーのように唇が吸い付けば、驚き跳ねる身体を深く抱き締めた。
治りかけの風邪が心配だと言う割には、今もヴァイオリンの音色だけでなく、柔らかさや温もりも求める心を押さえきれない。足りなかった潤いを補おうと、俺の全てがあんたに向かっている。熱く触れ合う想いのまま、深く腕の中に抱き締めてしまうのに。いつからこんなに欲深くなったのだろうと思う。会えないたった数日の間に、ふと気付けば香穂子を思いだし心配して、自分の音楽に集中する所じゃなかったよな。
今度はあんたに風邪なんか引かせないように、しっかり抱き締めててやるよ。熱いと言っても、離してやらないぜ。