それは息をするのと同じ
菩提樹寮までの道すがら、もうすぐ到着すると携帯電話にメールを入れると、すぐに返事が返ってきた。「これから迎えに行く」と、張り切る様子が伝わる文章に嬉しさで頬が緩むが、行き違いになったら困るだろう。だがお前のことだ、大人しくじっとしてはいないだろうな。
道の先に蔦の絡まる古びた洋館が見えたところで、小日向かなでの番号をディスプレイに表示させる。通話ボタンを押し、ワンコールで出た元気の良い声に語りかければ、予想通り菩提樹寮の玄関を飛び出す頃だったらしい。まったく、飛び出すほどに俺を待ちきれなかったのか?
かなでらしいなと緩む頬のまま、「いい子だから、大人しく寮で待ってろ。俺を出迎る、キスの準備でもするんだな」。そう囁き、電話越しにキスの音を鳴らすと、ほうっと漏れ聞こえる甘い吐息。このまま電話越しに繋がっていたいが、もうすぐお前に会えるんだ・・・続きはお前を抱き締めてからだな。名残さを感じならも、通話ボタンを切って電話をポケットにしまった。
さぁ、今回はどんな出迎えをしてくれるんだ?
「千秋さん〜!」
「かなで、時間を割いて会いに来てやったぜ。ちゃんと、大人しく寮で待ってたんだな」
「はい! 一番最初にお出迎えしたくて、玄関で待ってました。お帰りなさい、千秋さん〜」
「・・・っ、おい。かなで・・・!」
菩提樹寮の門を潜ると、玄関の外で携帯電話を握り締めながら待つ、小日向の姿が見えた。そこで待っていろと告げた玄関先で、ずっと動かずにいてくれたのか・・・。玄関へと続く石畳を踏みしめる気配にすぐ気付き、寄りかかっていた軒下から弾かれたように飛び出してくる。
満面の笑顔で子犬のように真っ直ぐ駆け寄るかなでを、いつでも抱き留められるように、ほら来いよと心で呼びかけながら腕を開く。ふいに視界から消えたと思った瞬間、ポスンと胸に飛び込む小さな衝撃に、よろめきかけた足元を踏み止めながら、愛しい温もりを抱き締めた。
じんわりと広がる温もりと、腕の中にすっぽり収まる久しぶりの抱き心地に、心も瞳も自然と緩むのを感じる。嬉しそうに腕の中ではしゃぐ、可愛い笑顔にキスを届けようと身を屈めたが、俺よりも先に背伸びをしたのはかなでの方だった。
ぐっと迫る顔に驚くよりも早く、背伸びを支える為に俺の二の腕を掴み、ちゅっと可愛い音で唇に触れた柔らかな熱。
「ちゅっ・・・・・」
「・・・かなで。今日はやけに情熱的な出迎えじゃねぇか、久しぶりにドキッとしたぜ」
「千秋さん、びっくりしました? ふふっ、作戦大成功〜。おかえりなさい、のキスですよ。出迎えのキスを準備してろって言ってたから、お気に入りのリップを塗ってちゃんと待ってったんです。あっ! 新婚さんみたいって言わないで下さいね、私だって恥ずかしいんですからっ。でも、今から慣れておかなくちゃですよね」
「可愛い顔して、不意打ちは反則だろ。ほんの一瞬触れただけで、俺の中へお前が溢れちまったぜ。この熱さ、責任取れよ?」
責任って何ですか!?と慌てながら俺を見上げ、落ち着きなく身動ぐ身体を腕の中へ閉じ込めて。身体を密着させながら頬を包めば、言いたいことを感じ取ったのか、見る間に顔や耳までも真っ赤な茹で蛸に変わってゆく。
お気に入りのリップを塗ったという唇は、淡いピンクのグロスに艶めき俺を誘う。俺へキスをするために、わざわざリップを塗るなんて可愛いじゃねぇか。そのリップも、あとでたっぷりキスで落としてやるから、待ってろよ。
「おかえりなさい・・・か。お前に言われると、なんだかくすぐったいぜ。俺が戻る場所は、いつだってお前だ」
「ふふっ、温かいなぁ〜千秋さんの香りがする。こうしていると、すごく安心するんです。毎日電話で声を聞いているけど、やっぱりぎゅーっとしてもらえるのが一番嬉しいな。会えてすごく嬉しい、会いたかった・・・」
「ただいま、かなで。じゃぁ俺からは、ただいまのキスをしねぇとな。おい、泣くヤツがあるか。かなでの笑顔が見たかったんだ、笑ってくれ・・・いつもみたいにさ」
「・・・はっ、はい」
ポスンと抱きつき、胸に顔を埋めたかなでが、ころころと無邪気に擦り寄る髪がくすぐったい。堪えていると振動が伝わるのか、楽しそうにちょこんと懐から振り仰いでくる。太陽を受け止めてきらりと光るのは、溢れた涙を零さないようにと、必死に目を見開、ひたむきに振り仰ぐ真っ直ぐな瞳の輝き。
逸らすことの出来ない大きな光の泉に吸い込まれ、呼吸も時間も止まる・・・。愛しさに甘く痺れる心のまま、気が付けばしなるほど強く背を抱き締め、覆い被さるように唇を重ねていた。楽しむように触れ合ういつものキスではなく、乾きを癒すように貪り求める、どこか性急なキスで。
「んっ・・・ふぅっ・・・。ちあき、さん・・・」
身動ぐ身体を腕の中へ深く閉じ込め、包み込んだ。お互いの唇を隙間が無くなるまで、ぴったりと塞ぎ、敏感な腔内をなぞりながら逃げる舌を絡めれば、漏れ聞こえる吐息に理性が焼き切れそうになる。甘く緩やかな刺激に、次第に力がふわりと抜けてゆく身体を支え直しながら、それでも離さずに甘く噛んだり啄むを繰り返す。
唇を重ね合う間は呼吸をすることさえも忘れてしまうのに、久しぶりに会って交わすキスは、触れ合うほどに優しい風が身体の中を吹き抜ける・・・そんな気がするぜ。さすがにもう限界かと唇を離せば、くってりと胸にもたれかかるかなでが、焦点のぼやけた蕩ける眼差しで、浅く早い呼吸で酸素を求めていた。
「大丈夫か、かなで」
「今からこれだと私、将来は毎日酸欠になっちゃうよ・・・」
「将来? かなで、何の話だ?」
「何って、千秋さんがいつも言ってるじゃないですか。嫁入りする気になったのかって・・・。もし将来一緒に暮らしたら、千秋さんの帰宅を玄関でお出迎えするたびに、今みたくたっぷりと、ただいまのキスが返ってくるんだろうなって。だから毎日、酸欠になりそうだって思ったんです。オレンジシャーベットみたく、熱く溶けちゃう・・・」
どうしよう千秋さん、と困ったように小首を傾げ、眉を寄せながら本気で悩む、ささやかな仕草にさえも鼓動が高鳴る。いつもは真っ赤になって照れるのに、珍しく求めてくれるのは、久しぶりに会えたからだろうか。「かなで、お前・・・。俺のところへ嫁にきたら、毎日玄関でキスしてくれるのか」。熱い吐息でそう囁けば、きょとんと不思議そうにふり仰ぐ澄んだ瞳が、あっと声を上げて大きく見開かれた。
白い湯気を噴き出しそうなくらい、真っ赤に染まるかなの熱や走る鼓動が、触れ合う胸から伝わってくる。照れているのは本気で意識しているからだと分かるから、嬉しくてつい余計にからかいたくもなるんだがな。恥ずかしさに耐えきれず、じたばたと身動いで腕から抜け出そうと必死だが、そう簡単に離すわけがねぇだろう。
「あのっ、今のは聞かなかったコトにして下さい〜。やだ私ってば、恥ずかしい!」
「今の言葉しっかり胸に刻んだぜ。この先、忘れたとは言わせねぇ。もちろん出かけるときも、行ってきますのキスがあるんだよな。今年の誕生日で俺も18だ。俺への誕生日プレゼントに、いっそ神戸へ嫁に来るってのは、どうだ?」
「勝手に進めないで下さい〜。今すぐお嫁に行きたい話しじゃないんです。それは、もうちょっと待って下さい!」
「知ってるさ、ただいまのキスのことだろ。間違いなく、お前の予想通りになるぜ。何も照れることはねぇだろう、遅いか早いかの違いなんだ」
ぷぅと頬を膨らませて見上げる可愛い顔へ、ニヤリと笑みつつ、もう一度啄むキスを贈れば、上目遣いで甘く睨んでくる。精一杯の威嚇のつもりだろうが、俺には誘っているようにしか見えないぜ。何度でもキスしたくなるだろう?
一人で歩けますと、そう言って強気で腕から抜け出すが、足元に力が入らずよろめいてしまう。危ういところで支えたら、ほっと安堵の溜息が腕の中から零れ、ありがとうと素直に告げる、はにかんだ眼差しが振り仰いでいた。まぁ、こればかりは、俺が悪い・・・か。
「かなで、ちょっとの間、大人しくしていろよ」
「へっ? 何をするんですか・・・て、きゃっ! 千秋さん、降ろして下さい〜。私、重いですし・・・だからっ」
「おい、暴れると落とすだろ、じっとしてろ」
軽々と腕の中に抱き上げた耳朶をぺろりと舐めれば、ひゃぁと驚きの声を上げて、力が抜けたように大人しくなる。恥ずかしさで泣きそうな瞳へ、軽くて驚いたぜと微笑めば、首に腕を絡めながらきゅっとしがみついてしまう。かなでを抱き上げたまま、器用に玄関ドアを開けて菩提樹寮に入ると、真っ直ぐ向かう先は寮のラウンジだ。
部屋まで運びたいところだが、本気拗ねたら困る。とりあえずどこかで休ませて、もう少し待つか。
「千秋さんのキス・・・久しぶりすぎて、力が入らないんですけど、もうちょっとしたら自力で動けますから」
「心配するな。もし動けなくなったらその時は、俺が抱きかかえて寝室のベッドまで運んでやる。今も動けないのなら、お前の部屋まで運んでやるぜ? もちろん礼は、たっぷり頂くが」
「それじゃぁ、お出迎えの意味が無いですよっ。何だか最近、前よりもキスする回数が増えたように思うんですけど・・・気のせいなのかなぁ。あ!もちろんキスは嬉しいですよ、だって千秋さんのこと大好きですから」
久しぶり会えるから、たくさんキスしたいってことですか? と素直に聞くお前の方が、恥ずかしいぜ。
いつも傍にあると、当たり前の幸せに気付かないが、離れからその大切さに気付くことがある。お前とのキスは、呼吸と同じくらい自然で大切で、生きるために欠かせない。思いっきり綺麗な空気を胸の中へ吸い込めば、身体の中が透明になるように、俺の中で熱い力が漲るんだ。
「俺にとっては、お前に触れられない時間の方が、酸欠になりそうだったぜ・・・身体も心も。」
「キスは心の呼吸って、ことですね。わかりますその気持ち、千秋さんに会えないときは寂しくて。例え唇を塞いでいても、キスに夢中になって呼吸を忘れても、一人でいるときよりもずっと心地良いって思うんです」
抱き上げた腕の中からそう告げて微笑めば、絡めた腕を支えに首を伸ばし、小さなキスを頬に届けくれる。
かなでのキスは、勝利の女神のキスだからな・・・昔も今も、これからもずっと。
もらったものの礼をしないのは、俺の流儀じゃねぇ。キスで俺に届けてくれたお前の想い・・・その倍をお前に届けてやるぜ。ちなみに、今のはほんの一部だぜ? たった数度のキスだけで、俺がどれだけお前に惚れてるか、伝えきれるわけがないだろう。一晩かけて教えてやるから、覚悟しておけよな。