その沈黙の意味は「Yes」?
休暇を利用して神戸にやってきた小日向が、ソファーに埋もれながら熱心に眺めていたのは、地元神戸の街を特集するタウン雑誌。膝の上に乗せた雑誌を読みふけりながら、楽しげに笑ったり、そうかと思えば頬を染めて照れてみたりと百面相だ。お前は、黙っていても飽きないな。目の前に俺がいながら、他に夢中になるのは正直面白くないが、ふいに浮かぶまだ見たことのない表情に思わず目を奪われる。くるくると表情を変えるお前を、こうして静かに眺めるのも悪くない。
だが、それも限界があるだろう。雑誌ばかり読んでないで、たまには俺を見ろ。向かいのソファーに背を預けながら、腕組みをして呼びかけるが、ちらりと視線を上げただけですぐに戻ってしまう。それどころか、桃色に染まった頬を隠すように、雑誌を顔の前に高く掲げてしまうんだ。
それほどまでに夢中になる記事が、気になるじゃねぇか。ソファーを立ち上がり横から覗き込めば、そこにあったのは「ラブラブ温泉大特集・カップルで楽しむ混浴の宿」の派手な見出しが躍り、今にも滴りそうな露天の湯が溢れるページたち。
どうせ温泉街の食べ物記事が目当てなんだろう。かなでが好きそうなスイーツや、温泉の名物である饅頭の店比べ・・・ほらみろ、釘付けの瞳がキラキラしてるじゃねぇか。色気より食い気だな、そう思いながら額が触れ合う程の近さに迫り、「俺と温泉に行きたいのか?」と仕掛けてみる。
だが予想外に、真っ赤に染まる顔でコクンと素直に頷かれたのは、不意打ちも良いところだ。「千秋さん、気分転換しに行きませんか?」と。ガイドブックを胸に抱き締め、羞恥を堪えながらじっと俺を見つめる視線は、鼓動を焼き焦がすほど甘く熱い。まったく・・・お前ってヤツは、俺の方が照れちまうだろ。可愛くねだるお前の誘いに、ここで乗らなきゃ男がすたるってもんだ。
*
さわやかな青畳のほのかな薫りと、芳ばしい木の香り。畳の部屋に続く副室には、リビングテーブルとソファーが置かれ、開放感溢れる窓の外には豊かな自然の景色と空。窓を開け放てば湯上がりに火照る身体を、緑の風が柔らかく包みこむ。数奇屋造りの風雅な佇まいをみせる温泉旅館の客間には、洗練された和の情緒が溢れていた。
他に何も予定を入れず、忙しい街中を離れてお前と二人、のんびり過ごす・・・。時間を気にせず湯に浸かれば、心も身体も開放感で軽くなる。安らぎと心地良さへを誘う温泉は、やっぱり気分転換には最高だぜ。
小日向の可愛いおねだりを叶えるべく、「温泉に行くぞ」と突然思い立って連れだし、やってきたのは太閤秀吉も愛した京阪神の奥座敷。神戸といえば、有馬温泉だろ。神奈川にも温泉があるが、神戸だって負けちゃいないぜ。それにこっちは神戸三宮からでも30分で行ける近さが魅力だ。いずれこの街がお前の庭になるんだから、いろいろな場所を見ておけよ。
「千秋さん、お茶が入りましたよ。温泉の後は冷たい方がさっぱりすると思ったんですけど・・・温かいお茶で、すみません」
「おっ、サンキュ。かなでが神戸に・・・俺の元へ嫁入りしたら、いつでも好きなときにこんな状況を楽しめるのか。悪くない」
「やっ、もう〜千秋さんってば! 気が早すぎです!」
部屋の中央で黒く艶光る和座敷のテーブルから、湯上がりの浴衣に着替えた小日向が俺を呼ぶ。窓を閉めて足早に戻り、向かい側の座椅子ではなく、小日向の隣へ直接畳に腰を下ろせば、品の良い湯飲み茶碗に淹れたお茶を、はいどうぞと笑顔で差し出してきた。一口飲んだだけでも分かる豊かな風味と香り・・・お前の淹れた茶は美味いな。緩む頬と瞳のまま、美味いと素直な感想を返せば、満面の笑顔が鮮やに咲く満開の花へと変わり、さらに一口啜る茶の味も深さを増す。
地味なお決まりの浴衣ではなく、数多くある浴衣の中から好きな柄と帯を選べるのがこの温泉旅館の特徴だ。似合ってるぜと視線で浴衣を示せば、ほんの少し桃色に染めた頬で照れながら。可愛いを連発するほど浴衣が気に入るのは当然だろう、俺のコーディネイトは完璧だからな。
そうかと思えば隣でふと黙り込み、正座した膝の上で組んだ手を弄りながら、そわそわ落ち着き無く肩を揺らしてる。だがくすぐったい沈黙に耐えきれず、ちょこんと上目遣いに俺の様子を伺う視線が交わるだけで、ボンと音を立てて茹だってしまうんだ。
「俺を意識してるのか、可愛いヤツだ。いいぜ、もっと惚れろ。いつもと違う雰囲気に、ドキドキするお前の鼓動が聞こえてくるぜ」
「あの・・・念のため確認したいんですけど、もちろん日帰りプランですよね」
「残念ながら日帰りだ。その代わりに昼と夜の食事付きだぜ、ここの料理は旨いんだ。夜まではこの部屋を使えるから、たっぷり温泉と食事を堪能しろよ。それともなんだ、いっそ温泉に一泊が良かったのか? 俺は構わないが・・・」
「ひっ、日帰りで結構です! 私、一緒にお泊まりはまだ心の準備が・・・。千秋さんが温泉好きなのは、よ〜く分かりましたから!」
これ以上染まらないくらい真っ赤に茹で上がりながら、両手と顔を千切れんばかりにぶんぶんと横に振る。冗談だ、今はまだ早いしな・・・そう悪戯な笑みを浮かべると、拗ねる赤で顔を染めながら頬を風船みたく膨らましてしまった。からかって楽しむなんて酷いと瞳を潤ませながら、プイと顔を背けてしまう。
耳や、首筋まで赤く染めながら小さく俯き、膝の上で耐えるように握り合わせる両手に自分の片手を乗せて包み込む。じゃぁ、いつになったら心の準備が出来るんだ? ふと気配が緩んだ隙に肩を抱き寄せ、腕の中へ閉じ込めた。
触れる体温が拗ねた心も溶かし、身を委ねてくれる小さな重みをこの腕に抱き締める、幸せ。上手く言葉が見つからないのか、それとも羞恥心が邪魔をして言葉を紡げないのか・・・。どこか切なげに黙り込んでしまった横顔を見つめながら、指先を洗い立ての髪に絡め、ゆっくりと撫で梳いてゆく。
「ん? どうした、かなで。浮かない顔だな。温泉に行くぞと言ったら、嬉しそうにはしゃいでたじゃねぇか。まさか、湯あたりでもしたのか?」
「違います、湯あたりじゃありません。お湯はとっても素敵でした。大きなお風呂は気持ちが良くて楽しくて・・・でも、すごく寂しかったんです」
「寂しい?」
「久しぶりに千秋さんに会えたのに・・・二人きりになれたのに。温泉は男女別に大浴場が分かれているから、せっかく一緒に温泉来ても、はなればなれになっちゃう。周りはお友達同士で楽しそうだったから余計に・・・当たり前なんだけど、ひとりぽっちが寂しかったなって思ったんです」
「かなで・・・」
抱き寄せた肩先で俺を振り仰いた小日向が、ふわりと穏やかに微笑む。コツンと頭をもたれさせると甘えるように・・・温もりを求めるように頬をすり寄せて。千秋さんの香りがする・・・と、安心しきった顔で全てを預けられたら、このままお前を帰せなくなってしまうじゃねぇか。どこまで俺を惚れさせるんだ?
愛しい想いを込めて「かなで?」と、耳元に名前を呼びかけると、確かな答えを返す心が熱くなる。浴衣の裾を割って開いた脚と両腕で包み込むように、背後からすっぽりと抱き締れば、お互いの浴衣越しに伝わる体温と、鼻腔をくすぐる三プーの香り。
「混浴でもない限り温泉は男女別だからな、普通は当たり前なんだが。お前と二人きり水入らずなのに、一人で温泉に入ることが、寂しことに俺も気付いたさ」
「千秋さん・・・」
「イイことを教えてやる。この温泉旅館は全室、専用の露天風呂が付いてるんだ。貸し切り風呂を頼めば、誰にも気兼ねせず二人でお湯三昧。誰にも邪魔されずに広い湯船も独占出来るぜ。今日は特別サービスだ、かなでに好きな方を選ばせてやる」
「・・・きゃっ! 千秋さん降ろして下さい。どこに行くんですか! どちらか選べと聞いておきながら、まだ何にも言ってなのに」
「おい小日向、暴れるな。まずは部屋付きの露天風呂から行くぞ。お前がのぼせても、部屋の露天風呂なら近くて介抱しやすい。どうせまた汗を掻くんだ、貸し切りはその後だな」
潤んだ眼差しでじっと見つめながら、答えを出せずに沈黙する瞳に自分を映し、ゆっくり8カウントで深呼吸。二つの波長を一つに重ねるように、呼吸の中で五感の全てをお前に向けて感じながら。触れ合う優しい熱が、言葉に出来ない想いを伝えてくれる。
気付いてないんだな。沈黙がお前の全てを語っていたぜ、見つめる眼差しとキスで分かるんだぜ。俺を全身で求めているのがだから可愛いかなでの為に、お前の願いを叶えてやろう。カップルで過ごす貸し切り温泉・・・雑誌の特集に魅入っていただろう?
軽々と抱き上げて、向かう先は部屋の奥に備えられた貸し切り露天風呂。それともここで過ごすか? 甘く熱い心と身体の語らい・・・二人だけでしか出来ないことがあるからな。唇を触れ合わせたまま、軽々と抱き上げる腕の中でく、それもお前が言う二人で楽しむコトだよなと。深まるキスの合間に問えば、煽られる羞恥心がこれ以上ないくらいに真っ赤な火を噴き出した。
お前に寂しい想いはさせない・・・そう約束しただろ、俺を信じろと。