その手に触れた日



オレンジ色の夕焼けを包むように、夜がゆっくりと空から降りてくる。どこからが海で空なのか・・・全てが一つに溶け合う静けさを照らすのは、街の灯りと空の星たち。港さん橋から見る景色も、さっきまでは夕日に照らされる黒いシルエットだったのに、いつの間にか闇の中へ溶け込んでいたんだな。どうりで夕暮れ前に買った温かい缶の紅茶が、すっかり冷たくなっているわけだ。

もう少しだけ一緒にいよう?と香穂子の可愛いおねだりを聞くうちに、夕焼け空になるまで、そして空の色が変われば一番星が見えるまで・・・二番星と三番星が見えるまで。音楽のことやお互いのこと、好きな趣味のこととか何気ない話をしながら感じる互いの温もりが心地良くて、時間は駆け足で過ぎてゆく。

静かな夜の海は不思議なほど落ち着くから好きなのに、今はどうしてこんなに胸がドキドキしているんだろう。いつも勝ち気な香穂子が、妙に大人しいから可愛く見える。くすぐったいデートな雰囲気になるのは、夜の海と夜景がが魅せる魔法っていうのかな。珍しく緊張するなんて俺らしくないじゃんと、自分に言い聞かせながらも嬉しくて幸せなのは、あんたが隣にいるからだろうな。


「さすがに夜になると寒いよね。衛藤くんは平気?」
「あんまり寒くない、っていうか今は逆に暑いくらいだ。冬の空気が火照りを冷ますのに、ちょうど良い感じ」
「熱いの? ひょっとしてお熱ある?」
「・・・っ違う、その熱じゃない。風邪じゃないから心配すんな」
「でも・・・衛藤くんがそろそろ帰ろうって言ってくれるのを、もっと一緒にいたいなって、遅くまで引き延ばしてたのは私だし・・・。風邪は甘く見たら大変なの、無理しちゃダメっ!」
「何泣きそうになってんだよ、心配すんなって言っただろ。その・・・熱いっていうのは、ドキドキしてるから。香穂子がすぐ近くにいるからに決まってるじゃん、照れてんの。全部言わせたいわけ?」
「あっ、えっと・・・そうなんんだ。へへっ、私も熱くなってきちゃったかも」


忙しなく駆ける鼓動を落ち着かせようと深呼吸すれば、冷えた夜の空気に白く濃い吐息の風船がふわりと浮かぶ。その吐息が消えるのを見届けてから、ちらりと横目で隣を見れば、頬をピンク色に染めた香穂子と間近で視線が重なった。

頬が鮮やかなピンク色に染まるのは、寒さを受け止めているから・・・だけじゃないよな。トクンと鼓動が跳ねた瞬間に慌てて視線を逸らし、真っ赤な火を噴いたのは俺もあんたも同じで。ほら、あんたが恥ずかしそうに照れるから、俺まで意識しちまうだろ。

港さん橋を見渡せるお気に入りのベンチから立ち上がり、ぐっと背伸びをするともういちど夜景を見渡す。何気なく香穂子を振り返ると、俺をじっと見つめる大きな瞳に一瞬視線が奪われ呼吸も時間も止まってしまった。どうしたの?と不思議そうに首を傾げる問いかけに我に返り、熱く火照り出す頬を隠したまま、何でも無いと素っ気ない返事。でも照れ隠しほど上手く気持ちが伝わらなくて、しゅんと肩を落とすのが分かるから。あんたの前でだけは素直に慌てたり照れたり・・・今まで感じたことも無い自分を素直にさらけ出せるんだ。


「衛藤くん、もしかして怒ったの?」
「・・・怒ってない」
「でも口尖らせて、ぷんとそっぽ向いちゃったし。私、何かしたかな?」
「夜景より瞳が綺麗だってキザな台詞、香穂子も聞いたことあるだろ? よくそんな恥ずかしい事言えるな、俺には絶対無理だねって思ってた。でもあれ、嘘じゃないんだな。夜景は最初感動するけど、ずっと見てると普通になってくる、でも・・・あんたの瞳は違う。ずっと眺めていた夜景よりも綺麗なものが、俺の隣にあったんだなって・・・そう気付いたんだ」
「わ、私のこと!? 嬉しいけど、えっと・・・衛藤くん真っ直ぐだから、ときどき大胆で恥ずかしいよね」
「直球で想いを伝えてくる素直な香穂子だって、そうとう恥ずかしいぜ。ほら、そろそろ帰るぞ。これ以上いると、本当にあんたを家に帰せなくなっちまう」


夜闇の中でも分かるほど茹で蛸に染まる香穂子が、ヴァイオリンケースを背負いポシェットを肩にかけると、照れた微笑みで駆け寄り衛藤の隣に並ぶ。可愛いと想う気持ちが愛しいに変わる、その小さな変化だけで、どうしてこんなに幸せだと離れがたくなるんだろうな。もっと傍にいたい、触れたいっていう想いが止まらなくなる。なぁ、あんたはどうなんだ? 

ふいに頬へぴっとり触れた手の平に、衛藤が驚き目を丸くすると、背伸びをする香穂子がそっと頬を包み込んでいた。衛藤くんのほっぺ冷たいね、これで温かいかな?と無邪気に笑いながら。あんたって本当、可愛いヤツ。不安も緊張も、その手で優しく触れられると、何もかもが自然と浮かぶ笑顔の中にほどけてゆくんだ。


衛藤が隣にいる香穂子へ差し伸べかけた手を、指先が触れる直前で止めてしまい、耐えるように拳を握り締めてしまう。香穂子の視線もずっと俺の手に感じていたのは、あんたも同じように想ってくれていたんだよな。手を繋ぎたいなら素直にそう言えばいいのに、でも手を繋ごうぜっていうのが、俺だってこんなドキドキするとは知らなかった。

手を繋ごうというのは、好きだという言葉やキスと同じくらい、付き合っている恋人たちにとって大切な意味があるんだろうな・・・そう思う。初めて手を繋ぐまで、好きだからこそ照れるし緊張する。鼓動が飛び出しそうになるのはきっと、香穂子が大好きだからなんだよな。。

深く吸い込んだ息をゆっくり吐き出しながら、握り締めた拳を開き、香穂子へ差し出した。


「香穂子、ほら・・・手」
「手? あの、それってもしかして、手を繋いで良いってこと?」
「嫌ならいいけど。あんたきょろきょろ余所見するから、はぐれると危なっかしいし。その・・・もっと傍にいたいっていうか」
「嫌じゃないよ! 手、繋ぐ。私、衛藤くんと手を繋ぎたい!」
「なっ、おい・・・大きな声で、恥ずかしいヤツだな」
「私もね、衛藤くんの手をこっそり見つめながら、手を繋ぎたいなぁってずっと想っていたの。だからね、凄く嬉しい」


真っ直ぐ振り青く眼差しと繋いだ手から、温もりに乗せて大切な言葉が流れてくる。二人の手を繋いで重ね合わせて、二つの温度が一つに馴染んでゆく。心と心が溶け合うように、こうしてあんたと俺は一つになっていくんだな。

まだぎこちなく落ち着かなくて、何度も握り締め直しながら、繋いだ手の平の間がじんわり汗ばんでくるけれど。いつか俺たちの手がここにあることが、繋ぎ合う事がとても自然になる日がくるんだろうな。手を互いに握り合うだけじゃなく、指と指を絡め合うようになった日に手を繋ぎいで歩きながら、初めて繋いだときを振り返るんだぜ。


「ねぇ衛藤くん、私ね、素敵な事に気付いたの。ただ並んで歩くよりも、手を繋いで歩いた方がスピードもゆっくりになるんだよ。街の景色も緩やかに流れるから、いつも見ている街なのに新しい発見をたくさんするの。ふふっ、お話しながら衛藤くんの顔もゆっくり眺められるから、また新しい衛藤くんを見つけちゃった」
「何を見つけたんだ? 俺にも教えろよ」
「あのね、手を繋ぐって恋人の証だよね。言葉が無くても繋いだ手から、見えない言葉がたくさん伝わってくるんだよ。大好きだよ、この手を離したくないよって思ってるでしょ?」
「・・・当たり、良く解ったな。同じ台詞、俺もあんたに帰すぜ」
「温かさとか温度とか、きゅっと握り締める強さにドキドキするの。大好きな衛藤くんに触れてもらっているから、すごく落ち着く・・・優しい気持ちになれるの」


並んで歩くよりも、ぐっと近くなった香穂子が甘い吐息で頬を綻ばせれば、嬉しそうに繋いだ手をきゅっと握り締めてくる。その手に心を握り締められたような、甘い痺れが駆け巡り目眩がしそうだ。髪から漂うシャンプーか、トリートメントムースの花の香りに、近付いてから初めて気付いたり。合わなかった歩幅が手を繋いだ途端にぴったり合ったり。満面の笑顔ではしゃぐ笑顔を見ると、小さな一つ一つが嬉しいのは、どうやら俺だけじゃないみたいだな。




港さん橋を背に街を歩き、名残惜しさに少しだけ遠回りをしながら、あっという間に辿り着いた香穂子の家。いつもなら「じゃぁ、またね!」と笑顔で手を振りながら玄関の向こう側へ消えてゆくのに、今日はいつまで経っても佇んだま、中へ入る気配がない。向かい合ったまま、片手で繋いでいた手を包むように両手を重ねて包み込んで・・・離したくないよ、もっと一緒にいたいのと、甘く切なげに伝えてくる。

香穂子、と優しく呼びかけてもふるふる顔を振るだけで、握り締める手の力は強まるばかり。こっちはなけなしの理性を総動員しているってのに、本当にあんたを手放せなくなるじゃん。


「香穂子、また週末に会えるだろ? それまでしっかり練習しておけよな」
「・・・うん。デートで遅くなったときに、今まで何度か衛藤くんに送ってもらったことはあったけど、こんなに『じゃぁ、またね』って、さよなならするのが名残惜しいのは初めてだよ。すごく幸せで、楽しかったから」
「ったく、仕方ねぇな。じゃぁ俺から、寂しくないように香穂子へプレゼント。目、閉じろ」
「うん!」


何をくれるのか期待に胸を膨らませる香穂子は、素直に瞳を閉じる。ふいうちのようで少しだけ後ろめたさも感じるけれど、会えない間も寂しくないようにと自分にも言い聞かせながら。繋いだ手を引き寄せ、香穂子を胸の中へ抱き締めた。やっと手を繋いだばかりで早いだろうかと、自問自答はアイスクリームのように熱さに蕩けてしまう。


「香穂子」
「衛藤くん、真剣な顔してどうしたの・・・んっ・・・!」


胸の中でちょこんとふり仰ぐ香穂子が、驚き慌ててきょろきょろ身動ぐのを、腕の力を強めしっかり抱き締め、俺だけしか見えないように。贈り物やるよと軽く言った物の、本当はどうしたらいいか解らないくらい、緊張して心臓が破裂しそうなんだ。リズムが身体を動かすように、刻む鼓動に本能のまま導かれ、でも微かに震える唇でそっと掠めるだけのキスを。

ほんの一瞬触れるだけのキスに、最初場何か解らずぱちくりと目を見開く香穂子が、白い湯気を昇らせて真っ赤になるのは数秒後。同じように真っ赤になった衛藤と、手を繋いだままで。


一歩を踏み出せた勇気が、その先への力に変わる。 大人は出会って決めて付き合って・・・誰もが恋を急ぐイメージがある。だけど俺はあんたのことを、ゆっくり知っていきたい・・・なのに意志と気持ちは反比例していて、想いのまま急かす熱さに呑まれそうになるんだ。好きだから触れたくなるし、気持ちも一緒に触れたくなる・・・俺のことどう想っているかを確かめたくなる。

繋いだこの手を離したくない、あんたの心ごと。