その身ひとつで



「おい、かなで。お前今どこにいるんだ」
『どこって、神戸の三宮に着いたって、さっき千秋さんの携帯にメールしましたよね? あっ!その、朝早く起こしてごめんなさい・・・ひょっとして怒ってますか?』
「どうせもう起きる時間だったんだ。それよりも、昨夜眠る前にも電話で話した筈なのに、お前は神戸に来るなんて一言も言ってなかったじゃねぇか。俺が出かけていたり、相手を出来ない用事があったら、どうするつもりだったんだ」
『あ、そっか! 来れば何とかなるかなぁって、思ってました』


毎朝かなでから送られてくる「おはよう」のメールが、今朝に限ってはいつもより早い時間に携帯へ届いた。いきなり夜明けに『今、夜行バスに乗ってます。もうすぐ神戸に着きます!』と、待ちきれない嬉しさを絵文字でふんだんに表したメールが、予告無く届いたら誰だって驚くに決まってるだろう。

昨夜は遅くまでライブだったんだぜ?それに今日は休日だ。起こすのなら俺の枕元までキスをしに来いと、早朝の三宮駅へ足早に向かいながら、携帯電話の向こうにいる恋人に呼びかければ、キスはもうちょっと待ってて下さいと・・・ほんのり拗ねた甘える色が耳朶をくすぐる。新幹線のチケットくらい送るし、神戸で過ごしたければ俺が迎えに行くと、何度も言っているのに、いつまでも頼っては居られない。出来る限り自分の力で行くのだと、頑固な想いを曲げることは無かった。


『心配かけてごめんなさい〜。千秋さん。びっくりしました?』 
「驚いたなんてものじゃないぜ。もうすぐ駅に着くから、ちょろちょろ動かず待ってろ」
『はい! 出迎えのキスの準備、してますね』
「良く分かってるじゃねぇか。久しぶりだからな、酸欠を覚悟しろよ?」
「えっ・・・そ、そんなに長い間キスするんですか!? って、あ!千秋さん発見しました〜」


賑わい始めた人混みの中でも、大切なお前の姿はすぐに見つけることが出来る。かなでが待つ駅まで迎えに行くと、俺に気付いたお前が、嬉しそうな笑顔を綻ばせたのが遠くからでも分かった。耳に当てていた携帯電話を離すのは、今まさに通話をしていた二人同時。元気に手を振りながらここにいるよと存在を強く伝えて、待ちきれず子犬のように駆け出すお前の気持ちと、逸る俺の気持ちが足早に駆け出すのはきっと同じ。

何度もこの手に求め続けた俺の胸へと飛び込む柔らかな温もりは、一度抱き締めたらそう簡単には手放せそうにない。ジャケットへきゅっとしがみつきながら、嬉しそうに振り仰ぐ、お前を受け止め抱き締めるのが俺は好きなんだぜ。


悪戯が成功した子供みたく、無邪気な笑みで背伸びをする愛しい恋人の額へコツンと触れて、愛撫をするように前髪を絡め合う。抱き締め返しキスをして、触れ合う唇から言葉に現しきれない想いを伝えあう。名残惜しげに離れた唇から、ほうっと甘い吐息を零したかなでが「恥ずかしいです・・・」と桃色に染めた頬にも、軽く啄むキスを降らせた。


「神戸の次は横浜でもライブがある。今はこっちでの活動が詰まっていて、横浜に行く時間を捻出できないが・・・落ち着いたらたっぷり、お前を構ってやる。もう少し待てるかと、この前電話で話したばかりだろう。俺に会いたくて、我慢できなくなったのか? 情熱的だな、かなで」


そう耳朶に吐息を吹き込めば、抱き締める身体が羞恥でほんのり火照り出す。しがみつく俺のシャツをきゅっと握り締めながら、切なげな瞳を揺らして振り仰ぎ・・・素直にコクンと頷く頭をそっと胸に抱き寄せた。だがそれも一瞬だけですぐに羞恥が勝ってしまい、人目を意識して離れると、まだほんのり赤く染まる頬のまま、眼差しに笑顔を咲かせている。


「買い物をしに横浜駅へ行ったら、大きなバスがたくさん止まっているターミナルを見つけたんです。友達に聞いたら、ここからバスに乗ると神戸まで行けるよって教えてくれて。往復の新幹線は私のお小遣いにはちょっと高いけど、パスならお小遣いで行けそうだったし、眠っている間に千秋さんの所へ運んでくれる。早く到着できれば、それだけ一緒に過ごせる時間が長くなるかなって・・・」
「で、悩んだ末にバスへ乗った訳か」
「買おうと狙っていたワンピースがお店に売り切れだったから、ちょうど手元に軍資金があったんです。可愛いワンピースも欲しかったけど、千秋さんに会える方がもっと嬉しいから。それに土岐さんや芹沢くんに聞きましたよ。ここ最近はライブで忙しいから、千秋さんはご飯を食べることも忘れて、夜遅くまで練習に籠もることが多いって・・・。だから私が、千秋さんのためにご飯を作りに来たんです!」
「かなで・・・」


数日前にも眠る前の電話越しに、次はいつ会えるのかと寂しさを素直に零しながらも、心配させまいと必死に笑みを繕う気配を強く感じていた。不安になるなと言いながらも、結局は肝心なときに傍に居てやれず、寂しい想いをさせてしまう。そんな時、お前はただ寂しさを堪えるだけじゃなく、前向きな強さを秘めた女なのだと何度気付かされ、逆に俺の方が励まされたただろう。

ぽやんとしているようで、思い立ったら後先考えず真っ直ぐ行動するんだな。だがその行動力は、嫌いじゃない
抱き締めていた腕の戒めを解き放ち、ほら行くぞと差し出した手を強く握り返しながら、瞳に強く宿る意志の力を伝えてくる。ドクンと鼓動が高鳴る度に、全身へ熱さが漲り意識が熱く甘い痺れに浮かされそうだ。


「千秋さんが忙しくて横浜に来られないのなら、私が神戸まで会いに行きます。ただ待っているだけじゃ、駄目なんだって気付きました。離れていても、私にたくさんの力をくれる千秋さんの為に、私も何かしたいんです。練習の邪魔しませんから、だから・・・せめて一日だけでも一緒にいさせて下さい」
「かなでに会えて嬉しい、抱き締めたこの腕を手放したく無い。お前を横浜に帰したくないのに、邪魔だと追い返すわけが無いだろう」
「お出かけして楽しくデートするだけが、恋人同士の過ごし方じゃないと思うんです。貴重な休みなら何もせずに、お家で二人のんびりするのも良いですよね。千秋さんの好きな物、たくさん作るって決めたんです。何が食べたいですか?」
「決まってる、俺が食べたいのはお前だ」


私もお腹が減ったから朝ご飯作りますねと、朝日よりも眩しい笑顔がつま先立ちで背伸びをする。限りある時間を無駄には出来ないから早くと、繋いだ手を急かすように揺さぶりながら、俺の腕を引っ張るお前に導かれて一歩を踏み出した。俺が好きな食べ物を指折り数え、他に食べたいものは何かと真剣に問いかけてくる。


料理も魅力的だが、俺は一番最初にお前を食べたい。からかうのでもなく、ずっと抱き締めたくて仕方が無かった心からの望みを告げれば、熱い吐息に茹だったまま、小さくコクンと頷いた。だが小さく響く腹の音に甘さが消え去り、更に羞恥で赤く染まってしまう。色気より食い気だなとからかえば、ぷぅと頬を膨らませて拗ねて・・・ささやかなやりとりさえも、今は積み重なる幸せの一つ。


「しかし、泊まり支度にしてはずいぶんと身軽な格好じゃねぇか」
「へ? 帰りも夜行バスで日帰り予定ですよ? 少しの時間だけでも会えればいいなって思ってたから、私の身体一つだけで神戸まで来るのが精一杯だったんです」
「明日は日曜日だぜ? 久しぶりに会えたって言うのに、いくら何でも日帰りは早過ぎじゃねぇか。どうせ動けなくなるんだから、今夜は神戸に泊まっていけ。帰りのチケットはキャンセルしろ、代わりに明日の新幹線を、俺が手配してやる」


泊まりの支度を何もしてなくても心配するな。お前が泊まる部屋も、必要な物もすぐに用意できる。気にすることはないぜ、俺がそうしたいんだからな。次に神戸へ来るときも、いずれ俺の元で永住するときも・・・お前のその身体一つとヴァイオリンがあれば充分だ。言っておくが、もちろんベッドは俺と一緒だぜ?