その顔みたさについ
「やっ・・・ちょっと待って、蓮くん」
「香穂子、どうしたんだ」
「やっぱり・・・駄目。私、これ以上は・・・無理だよ・・・・・・」
「じゃぁ、今日は止めるか? 君がいいと言うまでは、俺はいつまでも待つから」
「そ、それも嫌っ! だって、せっかくここまで来たんだもの・・・。ねぇ、蓮くんどうしよう〜」
そう言って君は俺のシャツをきゅっと掴み、潤んだ瞳で縋るように見上げてくる。
どうしたらいいのか教えて欲しいのは、俺の方だというのに・・・。
大きなショッピングモールの中にある映画館の前で、こんなやりとりを俺達はもう30分以上も繰り返していた。
チケット売り場へ向かおうとすると香穂子が俺のシャツの裾を掴んで、あるいは腕を掴んで引き止めて。その度に映画を見るだの止めるだの、いつもの彼女とは違い、優柔不断で煮え切らない様子を見せていたのだ。
決して焦らせずにゆっくりと宥めながら、辛抱強く彼女の気持と意見が固まるのを待ってはいたが、時間が経つに連れて収集がつかなくなってしまい、映画館のスタッフや客、通りすがりの人々の視線を遠巻きに集め出している。デートの最中に何をもめているのだろうかと、興味津々な他人の視線などは気にも留めないが、彼女の為にも早く何とかしたいと、心の中では思う。
香穂子が見たがっていたのは実話に基づく外国の映画で、不慮の事故で母親を亡くしてしまった、生まれたばかりの小熊の物語。このつぶらな瞳が可愛いのだと、彼女は街で見かけたポスターの前を通る度に瞳を輝かせ、ずっと動かずに長い間佇んでいたのを見ていれば、どれ程楽しみにしていたかが分かるというものだ。
「香穂子はこの映画が見たかったのだろう? 随分前から、楽しみにしていたじゃないか。俺も今日、君と一緒に見るのを楽しみにしていた」
「ごめんね、蓮くん。もちろん私もそのつもりだったよ」
「では、香穂子は何が不安なんだ?」
「映画館の前で大きなポスターの可愛い小熊に見つめられたら、もう涙が潤んできちゃったの。今ね、もの凄〜く表面張力なんだよ。映画見たら絶対に泣いちゃう・・・そんなぐちゃぐちゃな顔、蓮くんに見せられないもの」
私、動物ものって弱いのと困ったように言った彼女は、僅かに鼻をすすりながら、きらきら光る瞳の雫を指の甲で拭っていた。ポケットからハンカチを出してそっと彼女に渡すと、ありがとうと吐息と共に呟き、ほんのり赤く染まった目元と頬で一生懸命笑顔を作って向けてくる。俺が渡したハンカチを、ぎゅっと胸元で握り締めて。
可愛い・・・。
純粋で一生懸命に生きる動物の姿に心打たれるのは、それだけ彼女自身も純粋だという事だろう。
俺は映画の小熊よりも、君の方がずっと可愛いと思う。
心を射抜かれ、腕の中に抱き寄せようと無意識に動いた手を、残った僅かばかりの理性で堪えて引き戻した。辺りは多くの人で賑わっており、ただでさえ先程から人々の視線を集めているのだから、こんな事をしたら彼女は恥ずかしさのあまり、映画を見ずに頬を膨らまして帰ってしまうに違いないから。
「しかしこうしている間にも上映時間が迫っている、映画が始まってしまうぞ。別の映画にするとしても、他に時間が合いそうなのは、香穂子が苦手なホラー映画くらいのようだが」
「あ、じゃぁ熊さんをやめて、ホラー映画にしよう!」
「・・・・・・」
パッと顔を上げた大きな瞳に先程とは別の輝きが灯ると、閃いたとばかりにポンと手を叩いた。見上げる彼女の表情は、今までの数十分間の葛藤が嘘のように清々しく晴れ渡っている。しかしなぜか俺には収まるどころか彼女が無邪気なだけに、更なる深い悩みの底に突き落とされるようで、微かな頭痛を覚えた頭を押さえつつ前髪を書き上げた。
香穂子が言いたい事も、気持も良く分かる。
けれども、これで解決するなら俺も君も長い間悩みはしなかったのだが・・・。
「俺は別に構わないが、香穂子は本当にいいのか? 怖い話を興味本位で見たり聞いたりするものの、結局いつも味わった恐怖感を、後々まで引きずるじゃないか」
「大丈夫だよ。目を閉じて、聞こえないようにずっと耳を塞いでいるから!」
「香穂子・・・それでは何の為に映画館に来たのか、分からないだろう・・・」
「もし怖くて泣きそうになったら、蓮くんが私の手をぎゅって握っててくれるよね」
「ま、まぁ・・・。言われるまでも無く、そうするつもりだが・・・・・・」
「じゃぁ決定! 早く行かないと始まっちゃうよ」
嬉しそうに笑顔を見せて俺の手を引く、足取りも軽い彼女の手を握り締めて一緒にチケットブースへ向かう。
映画によって販売窓口が分かれており、時間帯の同じ小熊の映画とホラー映画は同じ売り場のようだった。
窓口のチケット係りへ学生証を提示しつつ高校生2枚と告げると、どちらでしょうかと質問が投げかけられる。
「すみません、小熊の物語の方でお願いします」
「ちょっと蓮くん、話が違うじゃない!」
迷いもせず即答すると驚いたように目を丸くした香穂子が、俺の腕を掴んで騒ぎ出した。やんわり宥めつつ、それでいいですからと窓口に伝えて、手早く会計を済ませる。俺と彼女の分・・・二枚のチケットを受け取り、真っ赤に頬を膨らませる彼女の手を強く引いてチケット売り場を離れた。
映画の上映時間前という事もあり、出入り口で混雑する人ごみを器用にすり抜けて、少し離れたフロアーの隅で立ち止まった。手を勢いよく振り解き、プイと顔を逸らす香穂子の手を取って両手で挟むように包みながら、こちらを向いてと想いを込めて優しく語りかける。
「香穂子」
「もう、どうして勝手に決めちゃうの。蓮くんなんて、知らないっ!」
「香穂子はホラー映画ではなく、小熊の映画が見たくて、今日は俺と一緒に映画館まで来たんだろう?」
「・・・・・・うん・・・」
「どんな些細な事であれ、後悔はして欲しくない。それに俺は、怖い思いや辛い思いは君にさせたくないんだ。あの映画はシリーズものらしいが、前作よりもそうとう怖いと、既に見たクラスの者が話していた。怖がりな香穂子なら、一人で歩けなくなってしまうぞ」
そうとう怖いという言葉にピクリと反応して肩を震わせた香穂子が、唇を強く噛み締めて口を噤んだ。
実は怖いものが大の苦手なのに君は平気だと、いつも皆の前では笑顔で強がっていて。けれども夜や暗闇になると誰もいなくなった後で思い出し、途端に置いていかれた子犬のように心細そうな瞳をするのだから。
それは俺の前だけで見せてくれる・・・俺だけが知っている、君の秘密。
やがて俺の手の平から伝わる温もりと想いが彼女に伝わったのか、少しずつ身体の硬さが取れてゆくのが分かった。顔はまだ逸らしたままだが、頬をほんのり赤く染めたままで、拗ねるように小さな声でポツポツと呟く。
「だって恥ずかしいんだもん・・・。感動してぐちゃぐちゃに泣いちゃう腫らした顔なんて絶対に可愛くないから、特に蓮くんには見せたくないし・・・・・・」
「もちろん香穂子は笑顔が一番素敵だけれど、怒った顔も泣いてしまった顔も、みんな俺は可愛いと想う。どんな表情をしていようが、君は君だろう? 俺は、そんな香穂子の全てが大好きだよ」
じっと見つめて包み込む手に力を込めると、まだ不安そうな視線がおずおずと見上げて俺に向けられる。
本当?と消えるような囁き声に、あぁ・・・と返事をして真っ直ぐ見つめながら微笑めば、彼女の頬と瞳にゆっくりと微笑が浮かぶ。微笑みは次第に照れくさそうなはにかみに変わり、頬だけでなく顔まで赤く染まっていった。
「・・・きっと映画見終わったら、暫く蓮くんの顔見れないかも知れない。泣いちゃったら、家に帰るまでお話出来かも知れないんだよ・・・。それでもいいの?」
「あぁ、構わない。君の流す涙は恐怖や悲しみではなく、喜びや感動から湧き上がってくるものであって欲しから。それにもし泣きたくなったら、俺が涙を君ごと閉じ込めてしまおう。他の人には、決して見せはしない」
「ありがとう、蓮くん・・・・・・」
「もうそろそろ映画の始まる時間だ、香穂子も見に行くだろう?」
「うん!」
お互いに視線を甘く絡ませ笑顔を交し合い、包んだ手をそっと静かに離す。右腕の時計で時間を確認して再び香穂子に手を差し出すと、手を繋ぐのではなくピョンと飛びつくように、嬉しさいっぱいの彼女が俺の腕へしがみ付いてきた。腕を絡ませて歩きながら、映画館の入り口へと二人で向かう。
「そうだ。チケット代、蓮くんに立て替えてもらってるよね、今払うね」
「気にしないでくれ、君を困らせてしまったお詫びだから」
「あのね蓮くん、散々ごねて困らせたのは私じゃない。こういうのは良くないの! そうだ、じゃぁパンフとポップコーンは私のおごりね。さっきのハンカチも、蓮くんに返さなきゃ」
「ハンカチは、今日はずっと持っていてくれ。きっと君の分だけでは、足りなくなると思うから」
俺を見上げる香穂子に瞳と頬を緩ませて微笑めば、忘れてたのに思い出したらまた潤んできちゃったよと、そう言って。染まった頬を隠すように小さく俯き、絡める腕にきゅっと力が込められた。
君には内緒だけれども、清らかな心から溢れるきらりと光った瞳の雫が・・・。
温かい優しさから心震わせて泣いている君がとても綺麗だったから、本当はもう一度見たいと思ったんだ。
俺だけに見せてくれる君の涙、君の顔。
俺の瞳に・・・腕と胸の中に、その心と身体ごと閉じ込めてしまいたいから。