その花色を曇らせるのは誰?
玄関ドアの前に立ち、ポケットから取り出した鍵を穴に差し込みかけて、ふとその手を止めた。玄関先に灯る明かりと、家の中から漂う温かい料理の香りが、お帰りなさいと笑顔で僕を迎えてくれるから、思わず頬が緩んでしまう。今日は香穂さんの仕事がオフの日だから家にいるんだったよね。音大に在学中からヴァイオリニストとして活動していた香穂さんは、僕と結婚した後も変わらずコンサートや演奏活動を続けていた。帰宅が遅かったりツアーで長い間家を空けることもあるけれど、お互いに帰る場所はただ一つ。
これから帰るって、さっき携帯から君に電話したばかりじゃだったよね。君も僕も仕事が忙しくて、一緒に暮らし始めてからの方が、君に会えない日が多いなんて不思議な話だけれど、これからしばらくは二人の休暇を合わせたからゆっくり過ごせる・・・。ドアの向こうから子犬のように駆けてくる君が、待ち遠しくてつい頬が緩んでしまうよ。
チャイムを鳴らして数秒後に玄関のドアが開かれると、可憐な花を綻ばせた香穂さんが笑顔で僕の帰宅を出迎えてくれた。ドアを閉めて鍵をかけた僕に両手を差し出し、鞄を受け取ろうとするけれど、まだ挨拶が終わっていないよね。そう微笑めば組んだ両手を握り締めながら、そわそわと落ち着き無く視線を泳がせていたけれど、はにかみながら瞳を閉じた香穂さんは後ろ手に組み、上を向くようにちょこんと唇を差し出してくれた。
僕からのただいまと、君のお帰りなさい。お互いの挨拶を唇に乗せて重ねれば、嬉しさと幸せに思わず頬と唇が緩んでしまうんだ。まるで身体に眠っていた恋の細胞が目覚めるようにね。恋によって綺麗になるのは、君だけでなく僕もなんだって思えてくるよ。
「葵くん、お帰りなさい〜! お仕事お疲れ様」
「ただいま香穂さん、やっと君に会えた。今日一日がすごく長かったよ。ねぇ香穂さん、ごはんとお風呂どっちがいい? それとも・・・僕?」
「へ?」
玄関先で僕の鞄を受け取った香穂さんきょとんと目を丸くして、それから数秒後にぽんと見えない音を立てて弾けてしまった。白い湯気を昇らせながら耳まで真っ赤に顔を染めると、受け取った僕の鞄をきゅっと抱き締めながら俯いてしまう。ふふっ、照れる香穂さんは可愛いよね。帰宅した僕を出迎えてくれる香穂さんに、玄関先で毎日同じ事を訪ねているんだけど、そろそろ慣れて欲しいかなって思うんだ。でも、いつまでも初々しい花のような君が、僕は大好きだよ。
「あの・・・あのね葵くん、私をお迎えしてくれる時もこうして帰ってくる時も、毎日嬉しいんだけど。それは、帰ってきた旦那さんを迎える奥さんが、お疲れ様の気持で言う台詞だと思うの。葵くんじゃなくて、私が言うべき台詞だよ」
「本当は香穂さんから聞きたいけど、恥ずかしいから言ってくれないでしょう? 香穂さんだってコンサートや演奏活動で忙しいのに、家の事も頑張っているよね。お疲れ様を向ける気持は同じだし、僕が言っても良いと思うんだけどな。で、三つの中から答えは決まった? 今日は違う答えが聞きたいな」
「だって葵くんが欲しいだなんてそんな・・・おねだりしているみたいで恥ずかしいよ、いかにも新婚さんな台詞なんだもん。毎日聞かれても私の答えは一緒だよ、ご飯が先なの。絶対に変わらないんだからね」
「・・・あっ、香穂さん待って!」
知らないとそう言って頬の風船を膨らました香穂さんが、柔らかなスカートの裾を翻して背を向けてしまった。だけど僕が託した鞄を抱き締めたまま駆けだしてしまうよりも、僕が腕を掴む方が僅かに早くて。引き寄せられた反動で僕の胸に飛び込む君を、身体ごとしっかり腕の中へ抱き締めた。僕に背を向ける耳や首筋まで真っ赤に染まっているから、拒絶ではなく照れているのだと分かる。
この家の中で香穂さんが隠れてしまう場所は決まっていて、僕の書斎とか二人の寝室とか・・・すぐに見つけられるけれど。一度拗ねた君が僕の腕の中から離れたら、心を抱き締めるのは難しくて、なかなか機嫌を直してくれないのは知っている。だから離してと身動いでも、シルクみたいに滑らかで柔らかな身体を抱き締める、この腕を離す訳にはいかないんだよ。
「葵くん、離してっ!」
「例え香穂さんの願いでも、それは聞けないよ。今この腕を緩めたら、抜け出してどこかに隠れてしまうでしょう? 僕の、香穂さんの居場所は分かるけどね。ねぇ香穂さん、もしかして怒ってる?」
「・・・違うの、怒ってないよ。私の胸がドキドキする音とか、身体が熱くなっているのが伝わりそうなんだもん」
「隠していても僕には分かるよ、一人で待つ香穂さんに寂しい想いをさせている事をね。ヴァイオリニストとしての香穂さんも僕の仕事も、お互いに順調である程にすれ違ってしまう・・・。こうして二人一緒に過ごせる時間は、とっても特別なんだ、そうでしょう? お帰りなさいと玄関を開けた君が、笑顔に変わった一瞬を、僕は見逃さないよ」
「葵くん・・・?」
「やっと会えたねって全身で語っているのが嬉しくて、泣きそうに切ない眼差しが、僕の心も甘く締め付けるんだ。僕が家に帰って一番最初に欲しいのは、香穂さんの笑顔だよ。いつでも笑っていて欲しい・・・心の底から溢れる太陽の光で」
背中から包むように抱き締めながら、小さく俯く頭に微笑みかけると、日差しを浴びた花の顔を上げて肩越しに振り向いてくれる。こうして君を抱き締められるのも久しぶりだから、もっと顔を良く見せて欲しいな。ほら・・・目尻が赤く染まっているよ、もしかして人知れず涙を零していたのかな。
「・・・葵くんは? 葵くんは何が良いの? いつも私の答えに合わせてくれる優しさは嬉しいの。でもたまには葵くんの答えを私に聞かせて?」
「僕?」
「大好きな人の笑顔が見たいのは、私も同じだよ。ちょっぴり照れ臭いけど、その為なら頑張れるって想ったの。ご飯にする? お風呂にする? それとも・・・私?」
「香穂さん・・・」
じっと見上げる甘く潤む瞳に、吸い寄せられてしまいそうだ。ここは「香穂さん、君だよ」と心のままに言ってしまおうか、迷ってしまうよ。君を抱き締めてしまったら、僕の腕がしっとり吸い付いて離れないんだ。でも今はまだだよ、美味しい果実は二人で一緒に食べるから美味しいように、僕だけの想いじゃ駄目なんだ。リラックスした状態や温かい雰囲気の中だと、お互いに癒されて優しい気持ちになれるように、愛しく想う気持も伝わりやすいと思うから。
「僕はご飯かな、香穂さんもそう思っていたでしょう? いつもと同じようにね、あれ・・・驚いた顔してどうしたの?」
「私が食べたいって言われるかと思って・・・その、ドキドキしてたから、安心したんだけどすごくびっくりしたの」
「意外だったかな。奥のキッチンから美味しそうな料理の香りがするよね。ちょうど僕が帰ってくる時間に合わせて、温めてくれたんでしょう? 大好きな香穂さんの手料理が早く食べたくて、もうお腹がペコペコだよ。僕だけじゃなくて、待っていてくれた香穂さんも・・・ね」
「ど、どうして私もお腹が空いているって分かったの?」
「抱き締めた腕が触れているお腹から、お腹空いたって歌う声が小さく聞こえてくるんだ。ふふっ、じゃぁ今度からは香穂さんの希望に応えるよ、君を一番最初に食べたいってね」
「えっ・・・その・・・あっ、ほら葵くん。早く寝室に行って部屋着に着替えようよ。せっかく作ったお料理も冷めちゃうよ」
もぞもぞと身動ぐ香穂さんを正面から深く抱き締め直すと、頭を捕らえて僅かに上を向かせて・・・もう一度キスを重ねた。今度はさっきよりもたっぷりと長く、息の続く限り。ご飯の後は一緒にお風呂で、その後君を食べるけど、待ちきれないから、今は一口だけ食べても良いでしょう? にっこり笑みを向けると、私が葵くんを食べるんじゃなくて私が食べられるんじゃない・・・そう言ってぷぅとむくれてしまった。
大好きな人が傍にいれば寂しくないけれど、常に一緒にはいられないし、好きなときにいつでもお互いに愛を確認できる訳じゃない。恋人同士だった時よりも、生活を共にしてからの方が一人の時間に感じる寂しさが大きくなったと想う。
でも一人じゃないよ、君がいて僕がいる。一人の時間にも自分の世界を広げられるって考えてみようよ、それってすごく素敵なことだよね。
そっと頬を包み額をコツンと触れ合わせ、赤く腫れが残った目尻に指先を這わせる。悲しみごと吸い取るように唇を目尻に滑らせれば、僕が言いたいことに気付いたのか、真っ赤に染まった香穂さんが身振り手振りで慌てだした。
え?今日は僕の大好きなシチューを作ったから、タマネギを切って涙が出たの?
でも寂しかったのは本当だよと、ちょっぴり甘えた上目遣いに捕らわれて、甘い唇にそっとキスを重ねた。
強気な香穂さんが隠した涙を、心から溢れる前にタマネギが救い出してくれたのかも知れないね。