【幸せのレシピ】 本文サンプル。実際は縦書き二段組みになります。
【幸せのレシピ】より冒頭の一部を抜粋
10月に入ると NYでは本格的な寒さが訪れ始め、朝晩には厚手のジャケットが必要になる。だけど空気もすがすがしくて、最高に気持ちが良い季節なんだ。セントラルパークや、街路樹や公園の木々も紅葉が始まるから、散策するのも良いかもな。月末に行われるハロウィンに向けて、街の店頭や家の玄関先には、オレンジ色をしたパンプキンのデコレーションが溢れるんだ。日本でもハロウィンはだいぶ馴染んだイベントになっただろう? アメリカはもっと楽しいぜ。
NYに暮らし始めてから日本にいた頃よりも秋が好きになったのは、奏でるヴァイオリンの音色がどこまでも遠くに・・・海を越えた日本にいる、大切な人の元へ届く喜びを感じるから。そしてずっと包まれていたい温かで優しい日だまりが、隣で微笑む大切なあんたに似ているからだと思う。鮮やかな輝きに染まり、ゆっくりと流れる小春日和な午後の時間を、あんたと一緒に過ごしたい。
日本の三連休があるちょうど同じ時に、アメリカでも10月の第二月曜日はコロンバス・デイという連邦の祝日がある。探検家のコロンブスがアメリカ大陸を発見した記念日で、フィフスアベニューでは大きなパレードが行われるんだ。ロックフェラーセンターの広場には、秋の深まりを告げるスケートリンクもオープンしたし、最高峰の音楽を連夜堪能できるコンサートシーズンも到来。もちろん俺もあんたも、一番忙しい時期だけどね。
国際間では電話やメールも料金が高く、毎晩声を交わすわけにはいかない。それでも会いたい想いは日々募るばかり・・・恋しさが増す季節、高く澄み渡る秋空に吹く風が、お互いの想いを乗せた音色を届け合うように。会いたい気持がパズルのようにぴったり重なった休日に、香穂子が俺のいるNYへやってきた。
香穂子が暮らす日本と俺が暮らすNYが、揃って同じ休日になる貴重な数日。今は二人ともプロのヴァイオリニストとして活動しているから休日なんて関係ないけれど、大学に通っていた頃は、クリスマスまで待ちきれない想いを抱えて慌ただしく帰国したのも懐かしい思い出だ。
今までは俺の方が、たった数日の帰国することが多かったけれどけれど、今年は香穂子から会いに来てくれたのは、NYの秋を二人で楽しむため。そして8年間育んだ俺達の想いが、左手の薬指に輝くリングとなって実りの秋を迎えたから。旅行気分の滞在ではなく、将来を見据えた生活のために、これからはあんたが渡米する機会も、もっともっと増えてゆくんだろうな。
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同じ人間なのに、暮らす国と地域が違うだけで、どうしてこんなにも違う考えをするんだろうと思うことがある。日本の常識がアメリカでは非常識になったり、その逆の場合もある。海外生活が長くなった今の俺でも、新たな発見と学習の毎日だ。だけどこれから俺と一緒にNYで暮らす香穂子にとっては、見るものや体験するもの全てが、驚きや戸惑いの連続なんだろう。
「アメリカって何でも大きいよね。牛乳パックも大きいし、野菜や果物もみんな安くてビックサイズだよ。あ、でも林檎は日本の方が大きいかも。お肉が安いのも嬉しいよね」
「何でもデカイのは、人が大きいからじゃないのか? キッチンや洗い場の位置とか、戸棚やドアノブからトイレやシャワーまで・・・俺にはちょうど良いけど、全部が高い位置にあるから、香穂子は大変だろう?」
「そうなの・・・ちょっぴり使いにくいけど、これから桐也とNYで暮らすのなら、今のうちから慣れておかなくちゃ」
散策のついでに立ち寄ったマーケットで、大量に買い込んだ一週間分の食料を、キッチンにある小さなダイニングテーブルへと置く。「重かった〜」と溜息を吐きながら肩を撫でていた香穂子に、お疲れ様と声をかけた衛藤が、冷えたミネラルウォーターのボトルを差し出し、受け取るよりも先に唇へキスをする。
ぱちくりと瞬きをする香穂子に、「ただいまのキス、まだだろ?」と微笑めば、途端に真っ赤な火を噴き茹だってしまった。照れ隠しにフイと顔を慌てて背け、開けたペットボトルを抱えながら一気に水を飲み干すと、ショッピングバッグからガサガサと食材を取り出し始める。テーブルへ食材を無心に並べ始める横顔に、もう一度キスを届けると、自分の袋からも食材を取り出し、冷蔵庫やキッチンへと仕分けをしてゆく。
高い棚に届かず苦戦している香穂子の背後にそっと立ち、さりげなく代わりに取る・・・。ありがとうとはにかみながら受け取る指先が触れて、そんなささやかなやりとりさえも、久しぶりに会う俺達にはくすぐったいくらいに幸せだ。
「ねぇ桐也。私ね、素敵な事を発見したの」
「ずいぶん嬉しそうじゃん、何を見つけたんだ?」
「言葉も文化も何もかもが違うのに、私たちが奏でる音楽は世界共通なんだよ。これはとっても凄いことだよね」
買い物の仕方を英語で復習する香穂子が、メモを捲りながら食材と照らし合わせ、覚えたばかりの新しい単語や言葉を口ずさんでいた。常にメモ帳とペンを片手に、覚えた英語や街の風習を書き留め覚えようと、貪欲に知識を吸収する真剣な眼差しは、音楽の高みを求める時と同じものだ。
今では一緒に散歩や買い物、料理などをしながら、日常生活に使う英語やNYでのマナーを教えることも多い。
俺がプロポーズをした後から英語やアメリカの事情について学ぶ姿勢に、それまでの旅行者としての興味から、定住を目標としたものに変わった。それを知ったときに、泣きそうなくらい嬉しかったって・・・今でもすぐに抱き締めてしまいたいんだって、あんたは知らないだろうな。
(続きは本文でお楽しみ下さい)