その仕草は俺の前だけにして



昼休みに待ち合わせをした森の広場で、香穂子と一緒に昼食を取りながら、午前中にあった話や他愛のない会話を交わしていた。変わりやすい秋の天気と同じように、君の話や穏やかな空気の流れも突然変わる事が多い。それもまた楽しみの一つなのだが、今日もいそいそと弁当箱を片付けた香穂子が、コホンと咳払いをしすると、改まったように俺へ向き合った。姿勢を正し近い距離からじっと見つめられると、俺まで背筋が伸びる思いだ。


「ねぇ蓮くん、気持ちいいこと・・・しよう?」
「は!?」


時間も思考も止まり、手を拭いていたハンカチがひらりと膝の上に舞い落ちる。
驚きに目を見開いたまま頬を赤く染めて固まる月森を、不思議そうに小首を傾げた香穂子が、蓮くんどうしたの?と訪ねてくる。

何でも無いんだと表面では冷静さを装い、微笑みを向けて。ベンチに寄り添い並んで座った脚の上に、ぽとりと落ちたままのハンカチを慌てて拾い、動揺を隠したままポケットにねじ込んだ。
香穂子は今、何と言ったのだろうか。聞き間違いでなければ、気持ちよいこと・・・聞こえたんだが。
いや、耳には自信がある。だが万が一という事もあるから、念のためもう一度聞いてみよう。


「すまない香穂子、何と言ったんだ? その・・・聞き逃してしまって、もう一度良いだろうか?」
「えっとね、蓮くんと一緒に気持ちいいことがしたいなって思ったの。駄目かな?」
「駄目・・・ではないが・・・」
「やった〜! 蓮くんをふわふわにしてあげるね」
「・・・・・・・・!?」


神妙に寄せる眉がふわりと綻べば、嬉しそうな微笑みを満面に湛えてはしゃぎ出す。嬉しさの波動が俺にも伝わるから、心が躍り浮き立ってくるんだ。しかし香穂子のいう、ふわふわになるほどに気持ちいい事とは何だろう? 
君と重ね合う音色も心地良いし、柔らかい身体を腕の中に閉じ込め、キスで唇を味わうのも心地良い。それ以上に心地良いものといったら、やはりここでは難しそうだな・・・放課後は俺の部屋で練習をというのだろうか。


あれこれ考えを巡らせる内に、どれもが正解に思えてしまい期待だけが膨らんでくる。いつもは恥ずかしがるのに、今日はやけに積極的なんだな・・・と、そう思うところが既に先走っているのだが、火が付いた想いは止まらない。
君しか見えない、恋はいつでも盲目とはよく言ったものだ。

駄目な訳がないだろう? 俺はいつでも君を抱きしめたいと思っているのだから。


ベンチに並んで座った上半身を捻り、互いに正面へ向き合う君と俺。膝の上で手をきゅっと握りしめ、はにかむ香穂子に、そわそわと落ち着かない気持が顔に熱を集中させる。抱きしめようと伸ばしかけた腕よりも、先に動いたのは香穂子だった。

ひらりと舞う蝶か花びらに戯れるように、捕まえたと微笑みを浮かべたまま頬を綻ばせ、俺の手を両手で包み握りしめてくる。包まれた手を温めてくれるのは、温度だけでなく君が感じてくれている想いなのだと思う。
学院の生徒が多く集まる森の広場だが、愛しい人に求められれば拒む理由など何も無い。

甘く溶け合うひとときに想いを馳せれば、身体の底から疼き駆け巡る熱さ。薄皮一枚の理性で留めながら、深く呼吸をして努めて冷静にを心がけて見つめ合った。


「午前中の休み時間にね、クラスの友達に手のマッサージをしてもらったの。すっごく気持ち良かったから、蓮くんにもやってあげるね」
「・・・マッサージ? 香穂子のいう気持良い事とはマッサージだったのか」
「うん、そうだよ。蓮くんは、何だと思ったの?」
「想い違い・・・いや、考えすぎていたようだ。何でもない、気にしないでくれ」


まさか、最終的に行き着いた考えは肌を重ねることだと言える筈がない。
予想もしなかった答えだったのが嬉しいような、少しだけ残念なような複雑な気持ちだ。

香穂子の瞳が真っ直ぐで純粋な輝きを放っているだけに、自分の欲深さが痛く感じて居たたまれず・・・。月森は赤く染めた頬を隠すように、フイと視線を逸らした。だが香穂子は気にした様子も無く、そう?と首を捻るがすぐに笑みを湛えて、包んで握りしめた月森の左手を胸の前に引き寄せた。


「マッサージをするなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。なぜ遠回しな言い方をしたんだ?」
「だって、蓮くんの手を揉ませてくださいってお願いするの、恥ずかしかったんだもん。それにマッサージしたいって言ったら、何かほら・・・ちょっとエッチな感じがするなって思ったの」


気持ち良い事と例えて言う方が、よほどストレートで照れ臭いように思う。
そう言ったら不思議そうに首を傾げ、そうかなと神妙に考え出した・・・あまり深く考えられても困るのだが。
困ったように眉を寄せながら、これでも一生懸命考えたんだよと、頬を染めて力説する姿が愛おしい。

差し出した左手の小指と親指それぞれ間を、手の平と親指で摘むように挟み、両手で握りしめる。差し出した手の甲には親指が悪戯に動き回り、手の平同士はしっかり重なり包み込まれていた。もうこれだけで気持が良いのだが、まだ続きがあるらしい。高鳴る鼓動が手の平に集まる熱を通じて、君に直接伝わってしまいそうだ。


「まずは手のマッサージだよ。ヴァイオリンを弾く大切な手だから、しっかり大切に労ってあげなくちゃね。蓮くんの手、いつもひんやりしているのに、今日は温かいね。もしかしてお熱ある?」
「いや・・・その、香穂子のマッサージ効果が早速出てきた・・・のだろうか」
「まだこれからなんだけど、でも嬉しいな。身体も心も柔らかくほぐれて、リラックスしてもらえるように頑張るね」


彼女のやる気と好奇心に満ち溢れる輝きに、見つめる瞳も緩み自然と細くなるのが分かった。
弦を押さえる左手は指の付け根の筋肉が重要だから、ここは特に入念にマッサージするのだと。そう言って俺の指の付け根一本一本を摘み優しく揉みほぐしてくれる。手の甲を這い回る親指は、痛くも無く弱くもないちょうど良い強さで、ツボを押し刺激したりそっと指の腹で撫でたり。

俺のためにと、かいがいしく一生懸命な心づどれほど俺を嬉しくさせているか、君は知らないだろうな。
硬かった手が揉み解され、血の巡りが良くなる温かさとは別の熱さに、意識が蕩けそうになる。
言葉は無いけれど、ふと交わる瞳がどとらともなく微笑んでしまうのは、繋いだ手から感じるものが君から俺に、俺から君に伝わるからなのだろう。


「親指の付け根のぷくっとしたところ、ここ押すと気持ちいいでしょう? 私ね、最初は痛くてつい声を上げちゃったの・・・ちょっと恥ずかしかった。でも慣れ来ると、だんだん気持ち良くなってくるんだよね。蓮くんは平気? 痛くない?」
「・・・あ、あぁ・・・とても気持いい」
「ふふっ、蓮くんに喜んでもらえると、私も嬉しいな。じゃぁ手が終わったら、肩もみもしようかな。あのね、頭のマッサージもお勧めだよ。美容院で髪を切ると最後にやってもらうんだけど、私それが大好きなの。いっそのこと、蓮くん専属のマッサージ師さんになろうかな」


君の言うとおり、確かにふわりと漂ってくるな。このまま眠ってしまいそうだ。
香穂子の言葉の数々が、なぜか俺たちだけの熱いひとときを想わせるのはなぜだろう?
君が与えてくれる温かさと心地良さが、身体に潜む記憶を呼び覚ますからだろうか。身体の中へ、別な熱が灯ってしまいそうだ。


「・・・っ・・・!」


親指の付け根にあるツボを強めに押され、背筋を駆け抜けた痛みに思わず声を漏らしてしまった。これは・・・確かに恥ずかしい。月森は口元をとっさに押さえて顔を逸らし、熱い頬を見られないように呼吸を整えながら火照りを冷ましている。動きを止めた香穂子が、心配そうに瞳を揺らし覗き込んできた。


「ごめんね、蓮くん。痛かった? 私に気をつかって、我慢しないでね。痛かったり、もっと強くして欲しかったら正直に言ってね」
「い、いや・・・平気だ。俺は我慢も何もしていないから、安心してくれ。君を受け止めるひとときがとても心地良くて・・・つい。このまま全身を預けてしまいたくなるな」
「良かった。マッサージをする口実にして、こうして蓮くんの手をずっと握ったり触っていられるんだもの。マッサージをしてあげてるのは私なのに、一緒に気持いいんだよ。二人で分かち合えるって、とっても幸せだなって思うの」


周囲から見たらマッサージという行為が分かりにくいから、ただ手を握り合っているだけに見えるのかも知れないな。
少々照れ臭いが、たまにはいいと思う。君は俺の大切な人だと、伝えることが出来るのだから。


だが正直いつまでじっとしていられるか自信がない。吐息混じりになって掠れてゆく声・・・きっと今の俺は、蕩けそうな顔で君を見つめているに違いない。だからだろうか? 香穂子の瞳も輝きを増し、せっせとかいがいしく世話を焼いてくる気がする。左が終われば右手なのだとそう言って、今度は右手が彼女によって包まれた。

手だけでも限界なのだから、この先に肩や頭など行為が全身に及んだら、午後の授業をに出られるかさえも怪しくなる。楽しむ君を見ていたいし、気遣いも嬉しい・・・このまま浸っていたいけれど何とかしなくては。


「香穂子、ずっと続けるのは辛いだろう? 俺はもう充分だ、ありがとう。今度は君にしたいのだが、良いだろうか?」
「私は大丈夫だよ。マッサージは指先の鍛錬にもなるの。さっき友達にやってもらったし・・・その、蓮くんに手を握られたら、きっとドキドキして心臓が破裂しちゃうかも」
「さっき君も言っただろう? 二人で分かち合おうと・・・俺もそう思う。温かく幸せな感情なら、なお一人だけで味わうのはもったいない。君だけのヴァイオリンの音色が生まれる手を、大事にしたいんだ」


顔を赤く染めてじたばたと身動ぐ所をみると、うすうす察知しているらしい。ならば話は早そうだな、先程まで無邪気に頬を綻ばせ、俺の手を握りしめていたのに。そう想いながら頬や口元を緩ませ、顔の前でブンブンと振る手を捕らえると懐に引き寄せた。香穂子にしてもらったのと同じように、一回りも小さい手を両手ですっぽり包み込み、これから始まる儀式のように真摯に想いを注ぐ。


ほんのり温かさが灯った手を優しく揉みほぐし、そっと押せば、香穂子の頬が紅潮し、瞳がうっとり微睡み蕩けそうになっている。薄く開かれた唇から甘いと息が零れ、可愛い・・・というより艶めかしさを感じてしまう。親指の付け根の膨らみをそっと押してツボを刺激すれば、脳裏を刺激する甘い声がこぼれ落ちた。
肌を重ねた君が零す吐息に似ていて、疼き出す自分を押さえようと握りしめる手にも、自然と力がこもってしまう。

思わず互いに動きが止まり、くすぐったい沈黙が流れてゆく。香穂子・・・と呼びかければ、火を噴き出しそうな程に耳まで真っ赤に顔を染め、じたばたと身動いで。とっさに口元を押さえて俯いてしまった・・・さっきの俺と同じように。


「やっ・・・蓮くん。もういいよ、お願い・・・」
「香穂子?」
「変だよ・・・絶対変なの。私、おかしいのかな」
「何がおかしいんだ?」
「友達にやってもらったときには平気だったのに、蓮くんに手を握られただけで、心臓がドキドキしてるの。指を一本ずつ丁寧に揉まれたら、もう呼吸が苦しくなって・・・・熱くて蕩けちゃいそうなの。触れられたところが、熱くて火を噴いちゃいそう。燃え上がった炎が全身に駆け巡って、何とかして欲しくて・・・私・・・わたし・・・・」


それは、俺の想いが君へと届いた証。
振り仰いだ香穂子が隣へ座る俺の脚を支えに掴み、すがるように身を乗り出してきた。
ひたむきに見つめる瞳に吸い寄せられれば、閉じ込められた俺が潤みの中に映っている。
俺の瞳と腕の中へ、君を閉じ込めてもいいだろうか? いや・・・離したくないんだ。


今ここは学院の中で、昼休みの森の広場だから。
とっさに周囲を伺って人目のないことを確認して、包んだ手を口元へ引き寄せる。深く抱きしめる口付けの変わりに、手の平へ唇を寄せ、キスを落とした。しっとりと刻み込むように、蕩けるくらいに長く。ゆっくりと唇を離せば上目遣いに俺の様子を伺い、空いた片手で胸を押さえながら。あの・・・あのねと、真っ赤な顔でぽそぽそと言葉を紡いでくる。


「あの・・・ね、気をつける。他の人には、やらないよ・・・良く分かった。蓮くんもずっと熱かったんだね・・・我慢してたのはツボを押した痛みじゃじゃなくて、こっちだったんだね・・・」
「マッサージは、俺以外の誰にもやらないでくれ。今君が感じた想いを受け止めるのは、俺だけであって欲しいから」
「蓮くんのやってくれたキスのマッサージがね、凄く気持ち良かった。二人きりになったら、またやってくれる?」


自分の熱を押さえたかった、それだけではない。俺だけならいいが、他の男に同じ事をされたら困るんだ。
焼きもちとか独占欲などと言われようが、譲れないものが俺にもある・・・君に気づいて欲しいから。
瞳と頬を緩め微笑みを注ぎ、もう一度軽く触れるだけのキスを手の平に落とした。