側に居る口実

誰もいない月森家のリビングに、今は俺と香穂子の二人だけ。
昼前の早いうちから日が沈むまでの長い一日を、君と水入らずで過ごす休日は、何よりもの楽しみだ。
毎日がこんな休日ならばいいのにと、願わずにいられない。

二人で数曲ほど合奏をし合ったり、演奏を聞かせあったりとヴァイオリンの時間を終えれば、ひとまず休憩。
外には絹糸のような優しい雨が降り続いており、これ以上の楽器の練習はコンディションが良くないから。

香穂子が入れてくれた紅茶を飲みながら、これからの時間をどう過ごそうかと・・・俺たちは語り合っていた。
雨の中をわざわざ濡れる為に、君と出かける訳にも行かないし。何も無いからといって、家に帰す訳にはいかないんだ。その・・・俺の部屋で・・・という事以外に、家の中で何か一緒に楽しめるものはないだろうか。


空になりかけていた月森のティーカップを見た香穂子が、ティーポットを持ってお代わりを注ぎだす。側でじっと手元を見つめられる香穂子は照れくさそうにはにかみながら、微笑を向けて見守る紅茶と同じ琥珀色の優しい瞳を受け止めていた。ポットをテーブルに戻すとハンドバックからいそいそと何かを取り出し、自分のティーカップと一緒に持って、向かい側のソファーから月森の隣へと移動してくる。


「でね蓮くん。さっきの話だけど、耳掻きと爪切り、どっちが好き?」
「は? 耳掻きと詰め切り!?」
「うん。私ね、今どっちも持っているの」


そう言って香穂子は、後ろ手に隠していた物を俺の目の前に掲げて見せながら、満面の笑みを向けてくる。
彼女の右手には小さなピンク色の爪切り。そして左手にあるのは、先端に熊の人形が付いた耳掻き。

これからの時間をどう過ごそうか・・・と。つい今さっきまでその話はしていたのだが、耳掻きと爪切りの好き嫌いは、何か関係があるのだろか? 耳掻き云々は、今始めて聞いた話なのだが・・・・・・。


くるくる変わる表情と同じように香穂子の話も突然変わることがあるから、俺は何時も戸惑ってしまうんだ。
しかし先程の続きだと前置きしてくれたのだから、きっとそう言うように話の続き・・・俺たちがこれから過ごす時間に関わりがあるのだろう。突然違う話を進めずに前置きをしてくれるようになった分だけ、俺と君の心が以前よりも繋がり、互いの意思疎通が深く図れるようになったと・・・。そう進展を期待してもいいのだろうか。


「好きか嫌いかと言われると、困ってしまう。普段あまり、そういう考えで意識した事が無かったんだ。俺にとってはどちらも必要に迫られてするものだから」


身を乗り出して両手のものを俺に差し出しながら、さぁどっち?と迫り、大きな瞳を輝かせる香穂子。
好き嫌いでは選べそうに無いと困ったように微笑を向ければ、私はどっちも好きだけどな・・・と、不思議そうにきょとんと首を捻った。しかし香穂子は、まだ諦める様子は無いようだ。


「質問を変えるね。耳掻きと爪切り、蓮くんが今したいのはどっち?」
「爪はヴァイオリンを弾く為に、常に短く切り揃えてあるんだ。香穂子も同じだろう? だからこれ以上は切る必要がなさそうだな・・・すまない」
「じゃぁ、耳掻きに決定! 耳掻きって、とっても気持がいいんだよ〜私大好きなの。蓮くんも、私と一緒に気持ち良くなろうね」
「はっ? それはどういう・・・・・」


一緒に気持ち良く・・・・。
香穂子からのその言葉だけで、妙にソワソワして身体中が一気に熱くなってしまう俺は、きっと余計な事を意識し過ぎているのだろう。君はあくまでも無邪気な笑みを湛えているのだから、違うと分かっているのだが・・・・。

耳掻きに対する俺の意見はどうでも良いらしく、一人で納得する香穂子を止める事も出来ず。
真っ直ぐに突き進む君のエンジンがかかってしまえば、俺は見守りながら流れに身を任せるのみだ。
爪切りをポケットにしまった香穂子は、勢い良くソファーから立ち上がって広いスペースに駆け出ると、その場でペタリと座り込んだ。


「さっ蓮くん、ここ・・・ここに来て!」


ここ・・・と言いながら、嬉しそうにポスポスと手で叩いて俺を招き指し示すのは、香穂子の膝の上。
まさか耳掻きというのは・・・と、脳裏にある考えが浮かび上がった。香穂子の膝、広いスペース、そして彼女が持つ耳掻き・・・。収まりかけた熱が再び灯ると、鼓動が暴れるように早鐘を打ち出す。

期待しても良いのだろうかと気持が逸る反面、滅多に無い彼女からの誘いに戸惑う自分がいる。
だがまだ、決めつけるのは早いだろう・・・・・・本当かどうかをきちんと確かめるのが先だ。


「・・・それはもしかして、香穂子の膝の上に俺が横になれと・・・膝枕をしていいと、そう言ってるのだろうか?」
「だって・・・蓮くんが私の膝に寝てくれないと、耳掻きが出来ないじゃない・・・」


耳掻きをぎゅっと両手で握り締めた香穂子が、頬を赤く染めながら、拗ねるように甘い吐息と共にポツリと呟いた。照れる君を前にして鼓動に込み上げるのは、甘く蕩けるような・・・切なく締め付けられるような・・・きゅっと腕を掴まれた時と同じような感覚。

愛しいと想う心がそうさせるのか・・それとも見えない君の手が、俺の心を掴んでいるのか。俺は息を詰めて耐えるように眉を潜めた。


これは・・・その・・・つまり。彼女の膝枕で耳掻きをするのだと、そういう事だ。

膝枕だけでも嬉しいのに、なぜ耳掻きが加わるとこんなにもくすぐったくて、照れくさいのだろうか。
珍しく香穂子の方からというのもあるけれど、それはきっと恋人を通り越して、新婚夫婦のようなやり取りに思えてならないから。自分で自分の耳掻きをする訳では無いのだなと、当たり前の事を今更のように思い返した。


君を求めこそすれ、断る理由は一つも無い。
嬉しいと思う心が走り出して、もう自分では止められなくなっていた。



俺もソファーから立ち上がり、床に座り込む香穂子の元に歩み寄った。飛び出しそうに跳ねる鼓動を抑える為に大きく深呼吸すると、静かに膝を折ってしゃがみ込む。視線を上げた彼女に瞳を緩めて微笑むと、俺はそっと身体を横たえて膝に頭を乗せた。寝返りを打って仰向けになり、覆い被さるように覗き込む香穂子の赤く染まった頬を見上げながら、そっと両手を上に伸ばした。


頬を優しく包み込みながらそっと引寄せれば、絡む視線が甘く煌きを放ち、引き込まれて蕩けそうになる。

耳掻きの先端に付いている熊の人形に姿をうつした香穂子が、俺を覗き込みながら鼻先や額・・・頬へと突付くように這い回りだした。くすぐったさを堪えながら君の膝の上で僅かに頭を捩りつつ、捕まえようと片手を伸ばせば、楽しそうに笑いながらするりと俺の手から逃げ出してしまう。


膝から伝わる温かさと柔らかさが俺に安心感をもたらし、優しく包んでくれる。
耳掻きの前に、もう少しこのままでいたいと思う程に・・・。
いつになく幸せそうな笑みを見せる君も、同じように思っていてくれると、空気が教えてくれた。


俺の髪に指を絡めながら梳いてくれる心地良さに浸り、目を細めながら見上げると、前髪を手で払いのける香穂子の手をそっと握り締めた。


「一つ聞いても良いだろうか?」
「どうしたの?」
「・・・どうして、耳掻きをしようと思ったんだ?」
「えっ・・・それは・・・その、えっと〜」
「香穂子?」


眉を寄せてじっと見つめていると、急に語尾を濁らせてごにょごにょと口篭り、瞬く間に顔が赤く染まっていく。湯気が出そうなのでは?というくらいに耳や首筋までも染めながら、握り締める手も急速に温度が上がっていくのが分かった。君が照れると伝わる熱に気持までも感応するのか、なぜか俺までも一緒に恥ずかしくなってしまうんだ。


「あの・・・ね、私・・・本当は膝枕がしたかったの」
「膝枕・・・? 耳掻きではなくて?」
「だって、恥ずかしかったんだもん! 膝枕しようって・・・私の膝に来てって、そのままの言葉で誘うのが。だからね、何かきっかけが欲しかったの。蓮くんからおねだりしたり、私が時折甘えて蓮くんのお膝に丸くなることもあるけど、逆ってあまり無いでしょう? どう言ったらいいのか分からなくて、勇気が出せなかったの」
「ありがとう、香穂子の気持がとても嬉しい。だが・・・俺には膝枕で耳掻きという方が、ただの膝枕よりも照れくさいもののように思えてならないんだが・・・。嫌と言う訳では無いんだ、その・・・落ち着かないというか・・・」
「でもね、耳掻きしたかったのも本当だよ。ちょっと憧れてたんだ・・・ほら、何だか新婚さんみたいじゃない?」


恥ずかしいけど凄く幸せで嬉しいのと、そう言って照れながらも頬を綻ばせる香穂子に、俺の心は君でいっぱいに溢れて弾け飛んだ。伸ばした腕を首に絡めると頭ごと包み込んで俺へと引寄せ、唇にキスをする。
君にとっては不自由な体勢だと承知はしているが、それでも必死に応えてくれるから、募る愛しさが想いの炎となって燃え上がり、更に深く唇を求めてしまう。



名残惜しげに香穂子と唇を解放すると、身体を起こす彼女と横になったままの俺の顔が、視線を絡ませ合ったままゆっくりと離れていった。


「では、お願いできるだろうか」
「うん、任せて! 掻いてる最中がね、特にふわふわして気持が良いんだよ。この耳掻きは、私がいつも使っているお気に入りなの」
「そっ・・・そうなのか・・・・・」


気恥ずかしさを覚えるのは、君と一緒の物を使うのが、身体を触れ合わせるのと同じように思えてしまうから。
横を向けば香穂子の手が頭を押さえるように髪へと絡められ、そっと優しく静かに耳掻きが入っていくのが分かった。自分でやるよりも気持が良く、彼女の言う通りに心も身体も浮き上がって、飛んでいってしまいそうだ。
しっかりと俺を捕まえていて欲しいと、そう思う。

だからつい、横を向きながら君の膝をきゅっと掴んでしまった。
あ・・・と思った時には既に遅く、頭を乗せている膝が一瞬ピクリと飛び跳ねて、香穂子の手元が止まる。


「れ、蓮くん・・・あの・・・耳、痛くない?」
「い・・・いや、平気だ。とても気持がいい・・・このまま君の膝で眠ってしまいそうだ」
「ふふっ、寝ても良いよ〜。痛かったり気持悪かったり、何かあったらすぐに言ってね」
「あぁ・・・」


彼女の手が、優しく響く声音と共に耳にかかった髪を払いのけると、再び心地良く耳掻きが動き出した。




膝枕をしてくれとそう言わなくても、君の膝を求める方法を・・・側にいる口実をまた一つ見つけた。
逆に君を俺の膝へ迎える方法も・・・。
温かい膝と、何時も使っているという君愛用の耳掻き、そして優しい君の手。
夢見心地なひと時が、これからもずっと続けばいいと思う。


俺も耳掻きが大好きになったと言ったら、君は笑顔で喜んでくれるだろうか?
それよりも、爪切りもやはり君の膝枕でするのだろうか?


さて俺が終ったら、今度は君の番だから。
俺の膝の上で・・・俺の手で・・・・。
こんな休日なら晴れなくともいい、むしろずっと雨でもいいと思う。