しかたのない人
会うことを重ねるうちにそれが習慣みたくなっていて、隣に香穂子がいることが自然になっていたと思う。 放課後や休日に約束していなくても、香穂子がわざわざ海岸通りに来てくれたり、俺があんたの所へ会いに行ったり・・・。名残惜しそうに何度も振り返りながら、また会おうねと手を振る笑顔を会うたび心に焼き付けて、恋しく求めるようになったのはいつからだろう。弓とヴァイオリンみたく二つ揃う事が当たり前のように、あんたと過ごす空気が心地良く響くんだ。
ヴァイオリンや楽譜を片付け終えると両腕を空に伸ばし、身体を思いっきり伸ばしながら、青く澄み渡る空をふり仰ぐ。海から向かう優しい潮の香りをゆっくり吸い込んでいると、小さく笑いかける香穂子がすぐ隣にいて、海を見つめる桐也はすごくイイ顔するよねと嬉しそうだ。
イイ顔って、どんな顔だよ・・・まったく。
ん〜気持ち良さそうな感じかなと、小首を傾げながら言葉を探す香穂子に、ますます顔に込み上げる熱さは受け止めた潮風で冷ます。こっち見るなと威嚇するのに、それが可愛いと不思議なことを言うあんたには逆効果みたいだな。可愛いっていうのは、俺があんたに言う台詞だぜ。無防備に気を抜いた瞬間を、じっと見られていたなんて恥ずかしいじゃん。香穂子と一緒にいるから自然と俺の頬や心が緩むこと、そろそろ気付いてくれよな。
「どうしたの桐也、顔赤いよ? お熱あるの?」
「ち、違うって・・・おい香穂子! 熱じゃないから、おでこくっつけてくるなっ。ホントにあんたって、肝心な所が鈍いな」
「む〜っ、鈍くないもん。桐也が急に黙っちゃったから、具合が悪いのかなって心配したのに」
ふいに二の腕を掴まれると、柔らかな熱さに力が籠もり頭一つ分低かったはずの大きな瞳が、すぐ目の前に現れた。背伸びをしたんだと気付いた時には、キスをするようにこつんと額が触れていて、ひんやりした二つの感触は次第に熱く溶け合い一つになる。あんたって、ときどき大胆だよな。
照れ隠しに慌てて身体を押し返すと、しゅんと悲しそうに潤む瞳に慌てるのはいつも俺の方なんだ。
いつどんな時でも俺の事を気遣ってくれる、あんたの気持ちがすごく嬉しい・・・本当だよ。今つけてる新しく買ったリップグロスも、お気に入りなんだろ? 唇をへの字に曲げていたら、せっかく可愛いのにもったいないじゃん・・・って俺、何言ってるんだろうな。ほらっ、だから拗ねてないで顔あげろよ、笑ってる方が好きだからさ。
「悪かった、謝るよ。俺が嬉しそうな顔してたのは、香穂子も俺も、今日は上手くヴァイオリン弾けたから・・・」
「本当!? じゃぁ、あれ・・・食べてもいい?」
「あれ? あぁ、いつものヤツか。いいぜ、今日は上手く弾けてたからな。頑張ったご褒美に食べていいよ」
「やったー! ありがとう。練習後にね、桐也からもらったジェリービーンズ食べるのが楽しみなの!」
言葉が言い終わらないうちに、潤んだ瞳をぱっと煌めかせた香穂子は、ヴァイオリンケースが置いてあるベンチに駆け戻ってしまう。ベンチに座りながらいそいそと鞄から取り出したのは、俺が香穂子に贈ったチョコレート味のジェリービーンズ。新しく渡した菓子の箱を握り締めながら、甘く見つめる上目遣いに、鼓動が高鳴り熱い予感を伝えてくれる。
最初に贈ったものは、空箱になった今でも大切に保管してあるなんて、あんた・・・可愛いこと言うじゃん。無くなるたびに俺が買い込んだ物を香穂子へ渡しているけど、もう何箱目になったんだろう。え?食べた箱の数は、二人で一緒に過ごした日を重ねた証・・・か、そうかもね。香穂子は練習した後に食べる菓子だと決めているから、それだけあんたが練習した証なんだよな。
箱から取り出した一粒を指先に摘み、ぽいと口の中へ放り込めば、美味しいねと幸せそうに綻ぶ笑顔が咲く。手を出して?と言われるままに差し出すと、俺の手の平にも茶色のジェリービーンズが、ころりと数粒やってきた。弟と食べていた頃は甘い一粒が楽しみだったけど今は・・・。ジェリービーンズと同じくらいに甘い、無邪気な香穂子の笑顔が楽しみなんだぜ。
「桐也がくれた同じチョコレート味のジェリービーンズを、お店で探したんだけどなかなか見つからないの。どこに売ってるのかなぁ・・・ねぇ、教えて?」
「それは秘密。教えたら、俺がプレゼントする意味無くなるだろ? なかなか売ってないから、特別なご褒美なんだぜ」
「どうしても食べたくなって、この間外国の輸入菓子を扱ってる雑貨やさんを何軒か回ったんだよ。アメリカ製のお菓子もたくさんあったの。桐也からもらったのはチョコ味だったけど、ジェリービーンズはカラフルでたくさんの種類があるんだね、私びっくりしちゃったよ。眺めているうちにに楽しくなっちゃって、一袋買ってみたの。一緒に食べよ?」
たしか同じメーカーだと思うのと記憶を探るように呟きながら、鞄を探る楽しそうな香穂子の横顔は、眺めていて飽きることがない。あったと喜びはしゃぎ、自慢げに目の前に差し出されたのは、懐かしい英語表記と、赤と白のパッケージに豆がプリントされた小さい袋。透明な部分からは、原色鮮やかなビーンズたちが所狭しと顔を覗かせていた。どんな色素を使っているのかと考えていては食べられない、この鮮やかさがアメリカ製なんだよな。
「へ〜懐かしいな。アメリカで有名なメーカなんだけど、ここでは50種類以上のフレーバーが作られているだぜ。俺が気に入ってるチョコレート味もそのうちの一つなんだ」
「ストロベリーやチェリーやレモンとかフルーツ味は知ってたの。でもアイスクリームやチーズケーキ、クリームソーダ、ポップコーン味や綿菓子味もあるなんて楽しいよね。この色は何味だろうって、想像しながら食べるのも面白いの」
「じゃぁ、もっと面白い食べ方を教えてやるよ。いろんな味があるから、幾つか組み合わせてグルメ食いするのが、けっこうハマるんだ」
「うわ〜それ、すごく面白そう!」
「キャラメルアップル味とシナモン味を組み合わせて、アップルパイ。ブルーベリー味とポップコーン味で、ブルベリーマフィン。カプチーノ味とクリームソーダ味とチョコレートプリン味で、ティラミスってのもあるぜ。あんたもやってみなよ」
うん!と満面の笑みで頷く香穂子が、袋から摘み出したのは白い粒。それはミルク味だな、俺が取ったのは赤いからラズベリーかストロベリーのどっちかだろうな。赤い粒はラズベリーだったらしく、甘酸っぱい無邪気な酸味が口の中でふわりと広がる。何となく、香穂子にキスをした時に似ているなと思ったのは秘密だけど。だって言ったらあんた、真っ赤に照れて拗ねるだろうからさ。
「ねっねっ、桐也が食べた赤いのは何味だった?」
「ん?これか。ストロベリーかと思ったけど、ラズベリーだった。けっこう美味いぜ、香穂子が好きそうな味だと思う」
「じゃぁ、これと合うかな。ラズベリーとミルクは、きっと美味しいよね。ふふっ楽しいね、何だかアンサンブルみたい!」
「は? おい・・・まさか。おい、あんた自分で食べるんじゃないのか・・・俺が食べてどうするんだよ」
「こうして食べさせ合うのも、楽しみ方の一つだと思うの。ね? はい、あん〜して?」
衛藤が小さな粒を口に含むと、隣でそわそわと肩を揺らす香穂子が、はいあ〜んして?と、摘んだ指先と一緒に身を乗り出してくる。手ずから食べられる嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合い、はち切れそうに早い鼓動が熱を生むけど。気付けば素直に薄く唇を開けて指先をしっかり含んでいるんだから、恋する身体は心よりも正直だよな。いや、惚れた方の負けってこういう事なのかも。
「・・・っ、きゃっ! ちょっと桐也ってば、私の指まで食べちゃ嫌っ!」
「仕方無いだろ、摘んでるジェリービーンズが小さいんだからさ」
「絶対わざとでしょ、桐也のエッチ! だってさっき、挟んだ唇がいつまでも私の指を離してくれなかったし、ジェリービーンズが無くなっても、ぺろぺろって美味しそうに舐めてたもん」
「でも・・・美味かったぜ、香穂子の指も。こういう楽しみ方も、ありだろ」
「もう知らない! 桐也には、あ〜んしてあげないんだから。いいもん、これは一人で食べるから」
真っ赤に火を噴く顔と蕩ける瞳は、キスをした時の甘さと同じ。本気で怒っている訳じゃないと分かるけれど、一度拗ねてしまったらなかなか機嫌が戻らないのは、身をもって知っている。練習を終えたこれからが、二人で休日デートを楽しむひとときなのに、笑顔だけじゃなく、唇を委ねてくれなくなるのは困るんだ。
ぷいと顔を背けてた香穂子は、一人でジェリービーンズの袋を抱え込みながら、指先で無造作に数粒摘んではパクパクと食べ始めてしまう。おい、やけ食いかよ・・・という衛藤の呆れたといかけも、拗ねた顔でつんと無視。じれったさに苛立ちを募らせる衛藤に、い〜っと赤い舌を覗かせると、眉を寄せていた衛藤の顔が、驚きに丸く見開かれた。
苛立ちは一瞬で消え去り、変わりに込み上げる可笑しさを堪えるのに必死。声を殺して肩を震わせる衛藤に、もしかして怒っているのかと不安を募らせた香穂子が、背けた顔を戻して心配そうに覗き込んでくる。あんたのそういう素直なところ、可愛いんだよな。ごめんねと心に響く、真っ直ぐ見つめる眼差しに微笑みを返し、手の平でそっと頬を包み込むと、袋から摘んだジェリービーンズの一粒を香穂子の唇へ差し出した。
少し迷った後に薄く唇を開きながら顔を寄せ、指先ごとぱくりと食いつく唇に、嬉しさと心地良さが混ざる甘い痺れが背筋を駆け抜けた。ほら・・・な、あんたも俺の指先を食べただろ? 食べるのも、食べられるのも、これがけっこう嬉しいんだぜ。香穂子の俺もお互い強気で意地っ張りだけど、ここばかりは俺が素直に謝るしかないんだよな。
「美味しいね、何の味だろう。桐也がくれた一粒が混ざったら、口の中で色や味が変わったの。美味く言えないけど、幸せな味だよ。これはきっと、桐也と私の味なんだと思うの。桐也の中でも、私があ〜んした一粒が、新しい味を作っていたんだね」
「香穂子、悪かった。泣きそうに目を潤ませる程、嫌だったのか? 謝るよ、だからさ・・・こっち、向いてくれないか」
「違うよ、嫌じゃないの。恥ずかしくて熱くて蕩けそう、どうにかなっちゃいそうなの・・・」
「俺は、あんたに食べてもらって嬉しかった。何か・・・こういうのって恋人同士っぽいじゃん。それに、いくら美味しくてもジェリービーンズのやけ食いは良くないぜ。これだけカラフルなんだ、食べたら自分の舌がどうなるか、分かるよな?」
「あっ・・・! もしかして!」
慌てて鞄から手鏡を探し出し、背を向けて確認する香穂子が小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。ほらな、いろいろ食べると舌がカラフルに染まるだろ? 無邪気な子供みたいで可愛いぜ、おい拗ねるなよ。可愛いっていうのは心の底から想う本当の気持ちなんだ。ありのままの、飾らない素直なあんたが俺は大好きってこと。
「もう〜どうしよう、恥ずかしくて今日は桐也と喋れないよ」
「ほら、隠してないで手をどけなよ。口を手で覆っていたら、あんたの顔が見られないじゃん」
「ダメだよ、真っ青に染まった舌なんて可愛くないもん・・・」
「しょうがないな、全く。俺だってほら、さっきラズベリー味を食べたから、赤くなってるだろ?」
「桐也はいいよ、赤い舌がちょっと赤く染まっても目立たないじゃない。出かける前に、コンビニで歯ブラシ買おうかな」
「ふ〜ん。ようするに、染まった舌の色が元に戻れば良いんだろ? 色が消える良い方法があるぜ、ちょっと舌出してみなよ」
「本当!? ねっねっ、どんな方法なの?」
座る距離をいそいそと詰めると、口を手で覆ったまま興味津々に身を乗り出してくる。視線を絡めたまま手を優しく掴み、朝日が差し込む窓辺のカーテンを開けるように、そっと開いてゆく。何が起こるのかわらか無いながらも、小さく舌を出す素直さと無防備さに、残された理性で微笑み、トクンと跳ねる鼓動に押されてキスを重ねた。
抱き締めた背中をベンチの背もたれに押しつけながら、香穂子を隠すように覆い被さり、薄く開く上と下の唇に軽く吸い付き輪郭をなぞる。慌てて閉じかけるよりも顎を捕らえ、早く唇を重ねて動きを封じると、奥に逃げる舌を探し自分のと絡めて・・・。せっかく機嫌が直ったのに、あんたはまた羞恥心で拗ねるかも知れないな。染まった色なんて、俺がいつでも落としてやるからさ。
何度も何度も俺を染めるあんたの笑顔や音色は、色褪せることのない想いとなって、濃く鮮やかに俺を染めてくれる。
香穂子、あんたってジェリービーンズみたいだよな。くるくる変わる可愛い表情や俺にくれる気持ちが、ジェリービーンズみたいに色鮮やかだってこと。
食べる度に新しい驚きと愛しさが沸き起こるから、美味しさが後を引いて何度でも食べたくなる・・・。
そう、ずっと手元に欠かさず置いておきたい、大好きなお菓子みたいに。
俺にとってのご褒美はジェリービーンズと、あんたがくれる、とびきり甘いキスかもな。