接触時には深呼吸



香穂子と一緒に過ごす時間はとても幸せなのに、心が平静でいられない自分に気付いたのは、いつだろうか。会いたくて会いたくて・・・この腕に抱きしめたい、笑顔を俺だけのものにしたいとまで思うのに、いざ目の前に大きな瞳が俺を映すと、息も出来ないほど熱く苦しくなってしまう。恋の発電機が白い煙を噴いて燃え上がらないように・・・その熱い炎で君を想いの限り強く抱きしめ、唇を塞いでしまわないように。伸ばした俺の腕が届く前に深呼吸をして、早く駆ける鼓動を宥めるのが、いつしか癖になってしまっていた。


合奏する時に呼吸や視線を合わせるように、会話にもスキンシップが大切でしょう?と、ふいに触れながら真っ直ぐ見上げるその大きな瞳に俺は弱いんだ。無邪気に触れる柔らかさが脆く薄い理性の壁を、いともたやすく壊すから、冷静を保つのに必死だと君は知らないだろうな。

恋というのは発電機に似ているかも知れない。一度スイッチが灯れば笑顔で心とお互いを明るく照らし、心地良さで満たしてくれる。相手のために何かしたい気持や信じる想いが、ひたむきな強さとなって自分を動かす。時には無邪気な甘い刺激でいとも簡単に、恋の熱は激しく燃え上がりオーバーヒートしてしまうんだ。


「ん〜もう少し。あともうちょっとなんだけどな・・・」
「香穂子、何をしているんだ?」
「・・・えっ月森くん、わわっ!」


放課後にはほんのりオレンジ色を滲ませていた空も、いつしか穏やかな夜色に染まっている。空気を入れ換えようと練習室の窓を開けた香穂子は素敵なものを見つけたらしく、鈴の音色を響かせる凜と輝く冬の星と同じくらい、きらきら輝く真っ直ぐな瞳でじっと空を見上げていた。両手を天に差し伸べながら、君は一体何を見つけたんだろうか、俺にも教えてくれないか? もっと・・・あともうちょっで届くのにと高みを求め、つま先出しで背伸びをしているとほら、そんなに身を乗り出したら、窓から落ちてしまうぞ。


声をかけたが夢中で空へ腕を伸ばす彼女は、隣にいる俺に気付く様子もない。ならばと顔を間近に寄せ耳元に名前を呼びかけると、何気なく振り向いた微笑みが驚きに見開き、ぼっと火を噴き出し茹で蛸に染まる頬。俺の名前を呼んだその直後、バランスを崩しかけ小さな悲鳴が上がる。危ないと考えるよりも早く身体が動き、後に倒れ込む身体を背後からしっかり抱き留めれば、安堵感にほっと零れた溜息が香穂子の耳元を掠めたらしく、腕の中の身体がぴくりと小さく飛び跳ねた。


ごめんねと肩越しに振り返り、すまなそうに瞳を潤ませる頬が、薄闇にも分かるほど真っ赤に染まっている。すまない、俺こそ驚かせてしまったようだな。だが耳まで赤く染めて小さく肩を丸めているというのに、抱きしめた腕をすぐに離す事が出来なかった。いつも真っ直ぐひたむきで、どんな困難にも負けない強さと明るさを秘めた君に感じた、華奢で細い身体と柔らかさ・・・。頭では分かっていても、予想もしていなかった異性としての感触に驚き戸惑い、もっと知りたくて。そんな想いが激しく渦巻き葛藤する苦しさに、胸が焼け焦げそうだ。


トクトクトク・・・と忙しない鼓動が抱きしめた香穂子へ伝わらないように、落ち着けと必死に言い聞かせるものの、次第に赤みを増す、腕の中の耳や首筋に心のざわめきが止まらない。無意識に酸素を欲して深呼吸すれば、冷たい空気が身体の火照りを静めてくれて心地良い。少しだけ収まる鼓動の波に背を預ける香穂子が、泣きそうに潤む眼差しで振り仰いだ。

ごめんねとひたむきに謝るのは、背中で受け止めた俺の深呼吸が、溜息と勘違いさせてしまったのだろう。


「驚かせてすまない。香穂子、怪我はないか?」
「月森くんが受け止めてくれたから大丈夫だよ。助けてくれてありがとう。受け止めてくれなかったら、きっとひっくり返っていたと思うの。は〜びっくりした。振り向いたらもう少しでキスしちゃいそうなくらい、近くにいるんだもん。それに耳元で香穂子って・・・いろいろ重なるとドキドキして心臓が弾けちゃいそうだから、心の準備が必要なんだからね」
「いくらここが一階だからとはいえ、もしも身を乗り出して落ちたら危ないぞ。一体何をしていたんだ?」
「あのね、冬は星が綺麗だなって思ったの。日が暮れるのは早いけど、キラキラしたお星様がたくさん見られるのは嬉しいよね。ほら見て? 金色に光る一番星が取っても綺麗。降ってきそうに近く見えたから、手を伸ばせば届くかなって思ったの。・・・あ、月森くん笑ってる! ひょっとして子供っぽいって呆れてるでしょう?」


ぷぅと真っ赤に膨れる頬の果実が愛しくて瞳を緩めると、どうせお子様ですよと拗ねてしまい、顔を逸らしてしまった。そして今度は俺が慌てる番。すまない、笑みが浮かんだのは呆れた訳ではないんだ。腕の中に収まったまま、身動がずに大人しくしているから、本当の拒否では無いと分かる。赤く染まったうなじに唇を寄せてキスをすると、甘い吐息が零れ小さく震る仕草がたまらなく愛おしい。身体の芯から蕩ける、目眩に襲われそうだ。


ほら、もしも子供っぽいと呆れたのなら、こんな事はしない。君の全てが愛しくてたまらないから、自然と笑顔が綻んでしまうんだ。この一瞬を瞳と心に刻みつけておきたいから。


「この前月森くんが教えてくれたお星様だから、ずっと眺めているうちに私だけの大切な宝物に思えてきたの。星はみんなのものなのに、不思議だよね。近くにいる感じがしたから、手を伸ばせば届く気がしたんだけど・・・やっぱり届かないんだね、残念。一緒に出かけた海で見つけた綺麗な桜貝みたいに、あれが私たちの星だよって、一緒に眺められたらいいなぁ」
「そういえば、夜空の星に名前を付けることが出来ると聞いたことがある。名前があるのは一等星など明るい星の一部だで、まだ名前が付いていない星がたくさんあるらしい。学術的な正式な所有権ではなく、天文台独自のライセンスだが、肉眼で見える星に好きな名前がられるそうだ」
「お星様に名前を付けられるなんて凄いね! 例えば私や月森くんの名前も付けられるの?」
「あぁ、見たい日付や場所を指定する事も出来る。遠く輝く星さえも名前を付ければ自分のものになる・・・この手に掴むことが出来るんだ。その小さな輝きは、一等星よりも大切で大きな存在になるんだろうな」


星か・・・冬は星や月の光が強くなるから、天体観測にはちょうど良いと話ながら、帰り道に一番星を見上げたのは確か数日前だったな。君と一緒に本物の星空を眺められるのは嬉しい。星の輝きをこの手に掴めたら・・・小箱に閉じ込めて君へ贈る事が出来たら、素敵だろうなと俺も思うが、手にするのは難しそうだな。空に輝くから美しいと思うし、目指したい高みを求めたくなる。


ふふっと微笑んだ香穂子が腕を伸ばし、夜空に輝く一番星を掴み取ろうと再び背伸びを始めた。小さく背伸びをする身体ごとすっぽり包み込むように、俺も腕を伸ばして白い手の平の蝶を捕まえると、優しく握り締めて引き寄せた。お星様よりも私が捕まっちゃったと、無無邪気に頬を綻ばす可愛らしさに、収まりかけた恋の発電機にスイッチが入るのを感じた。心地良い温かさが熱さに変わり、見えない白い湯気を噴き出し燃え上がるまで、あともう少し。


「名前って大事だと思うの、その人にとって特別な存在の証でしょう? 名前を呼びかけると大好きな気持が膨らんで、大切なたった一つの存在が私の中で大きくなるよね。私も、宝物にしている熊の縫いぐるみや、育てている鉢植えの花には名前をつけているんだよ。話しかけたりヴァイオリンを聴かせると、楽しそうに笑っているのが見えない心の言葉で分かるの。私ね、それが嬉しくて元気をもらっているの」
「空に輝く遠い星も、たった一つの名前を付ければ、この胸に抱きしめることができる。俺も名前を呼びたい大切な存在があるんだ、いつでもこうして腕の中に抱きしめていられるように」
「月森くんの大切なものって、なぁに? ヴァイオリンかな?」
「そうだな・・・君が奏でる優しいヴァイオリンの音色や、俺を照らす温かい笑顔。君だ、香穂子」


肩越しに振り返り、驚きに見開かれた瞳が真っ赤に染まると、緩む瞳がじんわり潤みだし光を放つ。背を預けていた上半身をひねり腕の中で向き合うと、はにかみながらコクンと頷いた。堅く張り詰めた緊張が緩み、ほっと安堵の吐息が零れると、君だけを見つめる微笑みに変わる。心の底を熱く震わす、愛しさという桃色の霞がい一つに集まれば、愛しさに動かされるまま素直な気持ちで今、大切な名前を呼ぼう。ずっと呼びたいと願っていた、君の名前を。

熱く高鳴る鼓動を押さえながら、香穂子とそう微笑みながら呼びかければ、花の笑顔が愛嬌たっぷりの彩りを咲かせてくれる。きらりと輝く姿は春の野原のように、これから始まる新しい何かを秘めているように思えた。


「香穂子・・・良い名前だな、俺は好きだ。まだ人が多くいる所では照れ臭いが、心の中ではずっと何度でも呼びかけていたんだ。香穂子、その・・・頼みがあるんだが、良いだろうか?」
「ん? なぁに、月森くん」
「その・・・ここは練習室だから、俺たち二人だけしかいない。俺の事も蓮と、名前で呼んで欲しいと思うんだが、駄目だろうか?」


学院の中ではお互い苗字で呼び合うが、香穂子の場合は恥ずかしさにまだ慣れなくて、二人きりになれる屋上や練習室では名前で呼んでくれるようになった。大人になるほど周りは皆、恋を急ぎたがるような気がするが、ようやく手を繋げたり名前で呼び合えるようになった俺たちは、そんな周りから見たら、もどかしくじれったいのかも知れない。だが俺たちはゆっくりお互いを知り、自分たちのペースで歩めれば良いと思う。


本当は香穂子と、君の事をいつでも名前で呼びたいし、俺も君から名前で呼ばれたい。だがお互いまだ照れ臭くて、呼びかけただけで君も俺も頬に熱を募らせ、くすぐったさに視線を逸らしてしまうんだ。自分を落ち着かせるために深呼吸が欠かせなかったのだから、名前で呼び合いながら自然に会話が出来るようになったのは、大きな進歩だと思う。


「えっと、その・・・・・・れ、蓮・・・くん」
「ありがとう、香穂子」
「へへっ、蓮くん。蓮くん・・・呼びかける度に心がポカポカになるね。大好きの気持がどんどん大きく膨らむの。でもね、まだみんながいる前ではちょっぴり照れ臭いのと、そのね。お星様みたいに私だけの蓮くんだって想いが強くなったら、きっと蓮くんだけしか見えなくなりそうで怖いの。手を伸ばしていつでも抱きしめずにはいられなくて。今も熱くて蕩けちゃいそうなんだもの」


君が俺の名前を呼ぶ度に、耳や首筋まで真っ赤に照れているのは、好きだという気持の言葉だから、こんなに嬉しいことはない。困らせたいわけではないが、胸に沸く愛しさをもっと感じたくて・・・伝えたくて、何度でも呼びたくなってしまうんだ。月森くんから蓮くんに名前の呼び方が変わるのは、香穂子の中で恋愛のスイッチが入った証。手を繋ぐ距離は変わらないのに、呼び方が変わっただけで抱きしめた時よりも近く、存在を感じるようになる。

自分だけでなく香穂子の名前や存在が・・・こんなにも愛しいと感じたのは初めてだ。
真っ直ぐ向けられる香穂子の笑顔と同じように、想いが込められた名前には、不思議な力があるんだな。


抱きしめた腕の中にある柔らかさに熱が灯ったのは、君も恋の発電機が燃えているからだろうか? 大きく深呼吸をしたところであっ!と驚きの声を上げて、手の平で口を押さえるとくすぐったそうに笑みを浮かべた。私もつい深呼吸をしちゃうの・・・と。この先もずっと君に恋する心は変わらないから、胸のどきどきと甘く苦しい深呼吸は変わらないのだろうな。


そうだな、急がずゆっくり慣れればいいと思う。名前を呼ぶ度に大きくなる愛しさと、重なる心と音色が俺たちの距離をを近づけてくれる、一つに溶け合うんだ。空の星は触れることは出来ないが、君は違う。奏でる音色も笑顔も心も身体も・・・全てを俺のものにしたいと、燃え上がる想いのまま君を抱きしめたくなってしまうから、落ち着く時間が必要かもしれない。