桜・ひらり

練習室の窓から見える桜吹雪に誘われて、香穂子と一緒に音楽科校舎の裏手に出てみれば、桜館という名前の由来でもある桜たちが今を盛りと咲き誇っていた。しかし満開になるまでは、どんな強い風に吹かれても決して散る事の無かった桜が、春の盛りを過ぎるとほんの僅かなそよ風にも、その身を任せて散っていく。




「蓮くん、一緒に花びらを捕まえよう!」
「花びら?」
「うん! ひらひら舞い散る桜の花びらを地面に着く前に捕まえると、幸せになれるって言われているんだよ。今日は私も蓮くんも、二人分の花びら捕まえるまでは帰ないから、そのつもりでね」
「二人分?」
「だって、どっちか一人分だけだと寂しいじゃない。一緒に捕まえて、二人で幸せにならなくちゃ」
「あっ・・・香穂子!」


俺の返事を待たずに彼女は弾けるように元気良く、桜霞の中へと駆け出して行った。
呆然と立ち尽くし、引きとめようと伸ばした手だけが行き場を無くして、空を虚しく掴んだままで・・・。
そんな俺に物言いた気な桜の花びらが一枚、ゆらりとのんびり漂い降りてくる。


これを、捕まえるのか?


元より彼女の中で既に決定事項なら、俺に異論は無いけれど・・・。
手を引き戻しざまに手の平で掴むものの、拳を開けば花びらの影も形も何も無く。ふと見た俺の足元に舞い降りたそれを見ながら、先は長そうだと苦笑しつつ、心の中で諦めとも言える小さな溜息を吐いた。






俺の少し先に佇む彼女は、花びらをその身に浴びるように両手を天に差し伸べていて。春の光をスポットライトのように独り占めしながらも、誇らしげに輝いているように見える。眩しい笑顔を向けてくるりと軽やかに回れば、制服の白いスカートが花のようにふわりと広がり、天に伸びていた手が俺へと差し出された。


「うわ〜凄い! 蓮くん見て、桜吹雪だよ!」
「綺麗だな・・・・」


桜吹雪が・・・というより、その中に笑顔で佇む君が。


あえて口には出さなかったけれども、降り注ぐ桜の花びらと光を背負う香穂子の輝きが・・・溢れる愛しさが・・・全てが眩しくて、目を細めつつ頬を緩ませる。しかし心で語りかけた俺の言葉が伝わったのか、僅かに頬を赤く染めながらも、返事のように満面の笑みを向けてきた。


香穂子は舞い散る花びらを追ってあちらへ飛び、そうかと思えばひらりと身をかわしてこちらへ飛びながら、楽しそうにくるくると駆け回っている。期待と喜びに大きな瞳を輝かせて、合わせた手をそっと開いたと思えば、一瞬のうちにシュンと悲しそうにしぼんでしまい・・・。再び花を追って駆け回る、それの繰り返し。
花を追い戯れ、いろんな表情を次々に見せる君が楽しくてつい魅入ってしまい、自分も動かなければならない事など忘れてしまう。


春と温かさの象徴・・・まるで彼女こそが、花びらのようだと思う。
自由で天真爛漫な彼女は、するりと俺の腕からすリ抜けて、捕まえてごらんと楽しげに耳元で囁くのだから。






まどろんでしまいたくなる麗らかな日差しの中を、優しく柔らかい春風が佇む俺たちの身体を通り抜けるようにそよげば、風の歌に乗って桜の花びが一斉に宙へを舞い踊り出す。
目の前に薄紅色のヴェールが辺り一面に広がり、止まることなく降り注ぎ続ける桜のシャワー。


人は、桜の散り際を潔いと言うようだ。確かに、美しい光景だと思う。
ただし花びらの一枚一枚に目を向ければ、健気にも枝に踏み止まろうと最後の力を振り絞るものも入れば、ゆらゆらと揺れ動き、躊躇うようになかなか前へ進まないものもいて・・・。
俺は潔さというより、どこかもどかしさや孤独を感じずにはいられない。


それは、決心がつかず躊躇したり、今にしがみ付こうとしていたり。
やがてこの花びらのように大空へ彷徨い旅立たねばならない、自分の心に重ねているからなのだろうか。
いっそ花のように潔く散れたら、俺もまだ何も知らない君も、苦しまずに済むのだろうかと・・・。




春は冬と夏という、両極端に激しい季節に挟まれているだけに、淡い記憶と印象が残ってしまう。あんなにも心から待ち望んでいた穏やかな季節なのに、気が付いた時には潔く・・・慌しく帰り支度を始めていて、惜しむ気持だけが強くなっていくから。そうして季節を過ごすうちに、やがて、あの光景は夢か幻だったのかと、穏やかな季節と光景を懐かしむ時が来るのだ。


俺と君を季節に例えるなら、春。
移ろい行く一刻一秒が惜しまれるのは、花を待ち望み、散り行く桜を惜しむ気持が、君を愛しく想う気持ちに似ているから似ているかも知れない。

君と共に過ごす今が、時を忘れたかのように遅く日が暮れゆく麗らかな春の日と、満開に咲き誇る桜のように温かく幸せに満ちているから。どうか、このまま散らないで欲しいと・・・記憶の中だけに眠らせないでくれと。
俺達の春が永遠のものであればいいのにと・・・祈りよりも強く、願いよりも確かなものを求めて、心の中は狂おしい程にざわめきたってゆく。






名前を呼ばれたような気がしてハッと我に返れば、俺のすぐ目の前で、香穂子が心配そうに表情を曇らせて見上げていた。どうやら、先程から何度も俺を呼んでいたらしい。


「蓮くん、大丈夫? すごく苦しそう・・・辛そうな顔してたよ。ひょっとしてどこか、具合が悪いの?」
「いや・・・平気だ。心配かけて、すまない」
「本当に?」
「あぁ。桜に魅入ってしまってたんだ。散ってしまうなと・・・春が終わってしまうなと・・・」


かなり端折っているけれども、そう思ったのは嘘ではない。俺の事を心から心配してくれる君に、これ以上辛そうな顔させたくないから。安心させるように勤めて明るく微笑みを向けて、気持を伝えるように瞳を見つめれば、ホッと小さく安堵の溜息を吐いて表情を緩ませてくれる。


「でも春の後には夏が来て、秋と冬を越したらまた春が来る。季節が巡るたびに一回りずつ大きくなりながら、綺麗な花をいっぱいに咲かせてくれる・・・ずっと咲き続けてくれるの。終わりじゃないんだよ」


俺は新鮮な驚きに激しく心を打たれ、思わず大きく目を見開いた。

そう言った香穂子の瞳は、どこまでも真っ直ぐひたむきで前を見つめていて、済んだ輝きに溢れていて。
どんな時にも前向きな彼女らしい言葉は、神々が昇る光の梯子のような光芒となって、厚い雲に覆われた心の闇の中を天から差し込み照らしてゆく。


「季節は巡る・・・だから春は何度でもやってくる・・・か。儚そうに見えて、花は逞しいんだな。俺は当たり前の事を忘れていた。ありがとう、香穂子」
「ふふっ。お礼を言われる程じゃないけど、蓮くんに喜んでもらえたから、ちょこっと嬉しいかな。私たちもこの桜に負けないように大きくなって、ヴァイオリンも恋も花を咲かせ続けないとね。それに春の花だけじゃなくて、秋の桜の葉っぱの紅葉も、凄〜く綺麗なんだよ」


香穂子の手が俺の頬を、柔らかさと温かさで優しく包んでくれる。元気出た?と小首を傾げて気遣いの色を見せる瞳に、君のお陰だと、微笑みに乗せた返事をしながら、彼女の髪にかかった花びらを丁寧に手で払う。


「元気になってくれて、良かった! でも感傷に浸っている場合じゃ無いんだからね。花びら捕まえるまでは練習室どころか、お家にも帰れないんだよ。だから、蓮くんも頑張らなきゃ駄目なの」


力強く拳を握り締めて力説する彼女の、きらきらした声が奏でる音色のように真っ直ぐに届き、俺の心に深く染み渡る。やがて生まれる温かさは身も心も焦がす熱さとなり、心から溢れて身体全身へと広がっていった。


そうだな、感傷に浸っている場合では無いのだ。
桜は散るだけではない、次の年にまた花を咲かせる為に、季節を越えてゆくのだから。
春だけではなく夏には夏の、あるいは秋や冬だけにしか育むことの出来ない想いも、きっとある筈なのだと。


君に対して恥ずかしく無いように、俺も頑張らなければ・・・。
しっかり前を見据えて、俺自身の花を咲かせ続けよう・・・音楽も、君へ向ける想いも。






「・・・ねぇ蓮くん、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ・・・。花びらを、捕まえるんだろう?」


想いを馳せていた間に、いつの間にか閉じてしまった瞳をゆっくり開けば、少しだけ頬を膨らませて拗ねた表情の彼女がいて。可愛らしさに小さく笑うと、香穂子の背と腰に腕を回して湧き上がる心のままに抱き寄せた。
懐深く閉じ込めると、耳元で熱い吐息と共に囁きかける。


「・・・捕まえた」
「きゃっ・・・ちょっと蓮くん、違うよ! 私じゃなくて、桜の花びらを捕まえるの!」
「捕まえると幸せになれるんだろう? 俺にとってはどちらも同じだ」
「う・・・嬉しいけれど、同じじゃないよ〜。それより離してっ、早くしないと風が止んで花びらが無くなっちゃう」


真っ赤になって俯いているのは恥ずかしさからなのか、花びらを捕まえに駆け出したい為なのか。
離して〜と俺の腕の中でもがく彼女に愛しさ溢れて小さな笑いが込み上げながらも、更に強く抱き締めた。
どうか逃げないでと・・・このまま君の存在を感じていたいのだと、心で呼びかけながら。

しかし暫くもがき続けた後に、突然ピタリと激しい身動きが嘘のように止んでしまった。
身体の力を抜いて身を任せるのではなく、何かを思いついたようにじっと真剣な眼差しで一点を見つめる彼女に、一体どうしたのかと心配と不安が過ぎる。


「香穂子、どうかしたのか?」
「あっ、あのね・・・蓮くん手、離さないでね! 動いちゃ駄目だよ、そのまま私を抱き締めてて!」
「は!?」


閃いたようにパッと瞳を輝かせて勢い良く俺を振り仰ぎ、動いては駄目と、抱き締めてと。
もとより離すつもりは無いが、彼女にしては珍しく積極的な言葉に驚いて動けずにいると、もぞもぞと身動ぎして片腕を出し、重なった身体の隙間に指を差し入れて何かを摘み取った。


「やっぱり・・・。ほら見て、桜の花びらだよ! 凄〜い、しかも二枚いっぺんに!」
「本当だ・・・。先程君を抱き寄せた時に、一緒に身体の隙間に挟まったのだろうな」
「私があれだけ駆け回っても全然捕まらなかったのに、蓮くんが、一度に二枚も捕まえてくれたんだよ!」


この一枚は、蓮くんの分だからねと、腕の中で嬉しそうにはしゃぎながら、俺の目の高さにまで摘んだ花びらを掲げてきた。


しなやかな指に摘まれた薄いピンク色をした綺麗な花びらが二枚、春の日差しを受けて輝きを放ちながら、仲良く寄り添うように重なっている。二枚寄り添ったまま舞い降りてきたのか、受け止めた時に重なったのか。
それとも彼らが俺達に引き寄せられてきたのか・・・。

まるで俺と君のようだと・・・身も心も花びらのように寄り添い重なり合いたいと・・・そう思ったのは俺だけではないようで、掲げた指先を見つめる彼女の瞳も柔らかく、幸せそうに緩められていた。


「幸せ一つ、捕まえたね。二枚だから、幸せ二つかな?」
「いや・・・三つだ」
「えっ、三つ? 二つじゃないの?」
「俺の幸せ・・・三つ目の花びらは、君だから」


花びらを摘んだままきょとんとする香穂子に瞳を緩ませ、全てを包み込むように深く抱き締れば、腕の中から見上げる香穂子の頬もみるみるうちに赤く色づき、この桜よりも愛らしい花が咲いた。




俺達の心の季節も、桜と同じように巡ってゆくのだろうか。
この春が過ぎたとしても、夏、秋、冬を経て再び春がやってくる・・・何度も、何度も永遠に。
少しずつ大きくなりながら、人々に希望と温かさをもたらす優しい花を咲かせ続けるのだ。
俺と君の想いも、俺達自身の音楽も、そうだといいと思う。



腕の中に身を任せて大人しく収まる香穂子と二人で空を見上げれば、俺達の上に覆い広がる桜の木から、花びらの雨が降り注いでゆく。

俺と君の上に舞い降りた彼らは温かな雫となり、優しく心へ染み渡りながら。