理性との戦い



「今日はね、蓮くんにプレゼントがあるの」
「俺に?」


森の広場を駆け抜けてきた香穂子は、俺を見つけるなりそういうと、手の平にすっぽり収まる小さな包みを託してきた。切らせた息を肩で整えながら立ち竦む彼女へ、隣へ座らないか?・・・と。読んでいた本を閉じ少しの勇気を持ってそう声をかければ、ピンク色に頬を染め小さく頷き、隣へポスンと腰掛ける。ちらりと交わす視線が絡めばどちらともなくくすぐったい微笑に変わり、もじもじと照れ臭そうに組んだ手を弄り出した。

広い海を思わせるブルーのラッピングに赤いリボン。君がくれる贈り物はいつだって特別だ。俺の為にと選んでくれた気持が、優しい心の欠片となって散りばめられているから、見ているだけで元気になり、手に取ればふわりと温かさが広がるんだ。


「ありがとう、香穂子。中身を開けてもいいだろうか?」


喜びに踊る心を落ち着けながら瞳を緩めると、嬉しそうに振り仰ぐ微笑が心を震わす。綺麗に結わえられたリボンをもどかしげに解けば、中から現われたのは二本足で立つうさぎの形をしたチョコレート。手の平に乗る小さなウサギは、どの角度からみても精巧に作られ、木彫りの置物のように見える。

自分も同じ物を買ったのだとそう言って、いそいそと鞄の中から取り出したウサギのチョコレートを、手の平に乗せて俺へ披露してくれた。今にも動き出しそうな元気さと、見るものを和ませる愛らしさは、まるで君のようだな。可愛いねと頬を綻ばせながら、指先でウサギの耳や顔を突付いている、そんな君の方が可愛らしいと俺は思う。


「うさぎ・・・のチョコレート?」
「うん! 本物みたいに可愛いよね。買い物に行ったお店でヨーロッパのお菓子フェアーをやっていて、この子を見つけたの。ウサギさんは春の象徴なんだって、ウサギさんが春を運んでくれるなんて素敵だよね、抱き締めたら柔らかくてほわほわしているんだろうな〜」
「今にも飛び跳ねそうな元気さは、香穂子のようだな」
「一目惚れしたのもあるんだけど、蓮くんと一緒に食べたら私たちに早く春が来るかなって思ったの。それにね、このウサギさんを大好きな人と一緒に食べると、幸せになれるっていう、恋のおまじないが最近人気なんだよ」
「おまじない? 二人で一緒に食べればよいのか?」


小さなウサギは胸に丸い物を抱えているから、恐らく復活祭が近くなると店先に並ぶイースターのウサギなのだろう。実際は親が隠すのだが、ウサギが庭や家の中に隠した卵を探すのは子供たちの楽しみになっている。卵もウサギも、確かに春を呼ぶのだが・・・無邪気に喜ぶ君に伝えてよいものか迷ってしまう。

木々が芽を吹く新しい春の訪れに相応しいマスコットなのは、どちらも新しい命と豊かさ・・・つまり生殖力のシンボルだからなのだと。深い意味は無いのだろうが、新しい命を生み出しましょうと言われているようで、何だか妙に照れ臭い。恋のおまじないというから、きっと俺が深く考えすぎているのだろう。香穂子は俺たちの幸せと春をウサギに託し、純粋に願っているのだから。


だが雲に陰る太陽のように笑みを消し、しゅんと肩を落としてしまった。


「あ・・・でも蓮くんは甘いものが苦手だからいらないって思うかな・・・ごめんね」
「君が心を込めて選んでくれたんだ、とても嬉しい。ありがとう、大切に頂こう」
「気に入ってもらえてよかった。私だと思って大切にしてくれたら嬉しいな。そうだ、二人でこの子たちに名前をつけようよ」
「名前?」
「ほら、名前をつけると愛着が湧くでしょう? きっと美味しく食べられるって思うの。私はね、このウサギさんに蓮くんの名前をつけようかな。ねぇ蓮くんはどんな名前をつけるの?」
「いや・・・俺は、そのまま食べたいんだが・・・駄目だろうか」
「どうして? 香穂子うさぎさんじゃ嫌?」


いつの間に名前が決まってしまったのだろうか、しかも俺が想ったとおり君の名前に。
腹話術の人形を操るように、手の平へ乗せたウサギと一緒に小首を傾げる君は、心の底から不思議そうだ。
なぜ? どうして君こそ気づかないのだろうか。ふいと顔を逸らし口元を手で覆いながら、気づかれないうに小さく溜息を吐いた。心臓が急速に踊り出し、顔に集まりだす熱さに眩暈がしそうだ。

伝えるべきだろうか・・・。いくらチョコレートのウサギとはいえ、名前をつけてしまったら、食べてくれと君が甘くねだっているように思えてしまうのだと。

いや、一度そう見えてしまった脳裏からは消す事は難しい。もう既に君がくれたウサギの形をしたチョコレートは、君の分身になっていて、俺に食べられるのを今かまだかと待っているんだ・・・甘く蕩けるために。食べたくても食べられなくなってしまうじゃないか、そうして君の事も食べたくなってしまう。


「嫌・・・ではないが・・・」
「じゃぁ蓮くんのは、香穂子うさぎさんに決定!」
「・・・・・・・・・・・」


満面の笑みで俺のチョコレートに自分の名前をつけると、隙間を埋めるように、いそいそと座る距離を詰めてくる。手の平に乗せたウサギも互いに寄り添うと、まるで人形遊びをするように、こんにちは蓮くんと小さくお辞儀をさせて挨拶してきた。一度決めたら頑として譲らないから、こうなったら最後まで君に付き合うしかない。それでも逆らえないのは、君に惚れた弱みなのだろう。


こんにちは、香穂子・・・と、チョコレートのウサギで挨拶を返せば、嬉しそうに頬を綻ばせてはしゃぎ出す。君が嬉しいと俺も嬉しくなる。それが幸せだと思える俺の想いを受け取った君と分かち合うから、さらに大きく膨らむんだ。このまま心地良い温かさに包まれたままで済めば良いのだが、やがて熱さに変わるのも時間の問題だろうな。


「たいやきとか、ひよこのお饅頭とか、このウサギのチョコとか。動物の形をしたお菓子を食べるときって勇気がいるよね。私はね、痛いかな・・・ごめんねってお話しながら目を瞑って、一気にパクリと食べるの。蓮くんはいつもどこから食べる?」
「あまり考えた事はなかったな。気にせずそのまま食べているから、恐らく頭からだと思うが。彼らを気遣うとは優しい香穂子らしいな」
「今日のウサギさんはチョコレートだから、口の中でポッキリ折るのがかわいそう。だからね、蓮くんが痛くないように噛まずにペロリと舐めながらチョコを溶かしていこうと思うの」


いくらチョコレートとはいえ、俺の名前をつけた分身を大切に想ってくれる気持ちが嬉しい。手の平サイズとはいえ、けっこうな大きさだがどうやって溶かしてゆくのだろうか? 視線で問う俺ににっこり微笑むと、目の高さに掲げたウサギのチョコレートへ蓮くんと呼びかけ、そっとキスをした。小さなウサギの顔へ、愛らしくすぼめた唇を届けるように。すると差し出された赤い舌が、ペロペロと美味しそうにチョコレートを舐め始めた。


「・・・・・・・・っ!」


美味しそうに頬を綻ばせ、ピンと立ったチョコレートの耳を柔らかい口の中へ含んだとき、ドクンと鼓動が大きく飛び跳ねた。まるで俺の耳朶を甘く噛まれているような熱い疼きが蘇り、柔らかさと熱が耳に集まる。思わず零れそうになった吐息を咄嗟に手で塞ぎ、口元を覆い隠した。自分が君に食べられているのを見ているようで、照れ臭い。香穂子が俺の名前で呼びかけるから、ウサギの形をしたチョコレートに自分を重ねてしまったなど、君に知られたら恥し過ぎる。


美味しいね蓮くんと呼びかけたのは俺だろうか、それとも手の平にちょこんと座る、俺の名前をつけたウサギのチョコレートなのか・・・もうどちらでも構わない。俺は君が食べ終わるまで、果たして耐えられるのだろうか。ぎりぎりの忍耐と理性を、うさぎと香穂子に試されているような気がしてならない。


「蓮くんは食べないの? 香穂子うさぎさん」
「あ、そうだな・・・俺も頂くとしよう。美味しそうに食べる君の笑顔に、つい魅入ってしまった」
「やだもう〜すぐ側でじっと見られていたなんて恥ずかしいよ・・・」


ほんのり赤く頬を染めて俯く香穂子へ微笑みかけると、愛らしいつぶらな瞳で見つめるウサギと、自分自身へ言い聞かせた。香穂子の名前が付いているが、これはチョコレートなのだ・・・と。彫りや作りが精巧なだけに、齧ったら本当に痛いと泣かれそうで困ってしまう。正面からはウサギが、隣からは香穂子の瞳が俺をじっと見つめていた。


ゆっくりと口元へ運び、今にも動きそうな耳を口に含むと、甘さを抑えたビターチョコの味わいが広がった。口解けが良くさっぱりしているのに、コクがあって後を引く・・・もっと食べたいと君を求めるように。俺が食べやすいように選んでくれた君の想いが、蕩けたチョコレートと一緒に染み込み、熱さとなって満ち広がってゆく。

甘いものは苦手だが、香穂子からの贈り物なら抵抗無く食べられるのは、君の優しさが染み込んでいるからだろう。君が好きなものを俺も好きになりたいという、恋の力が味覚を変えているのかも知れないな。


「あっ・・・・・・!」


甘い吐息が耳朶をくすぐり、背中を甘い痺れが駆け上る。腕の中に君を抱いたときに聞く吐息と同じ響きに、とっさに口を放し手の中にあるチョコレートを見つめた。ウサギが喋った!?そんなまさか・・・いや違う、確かに聞こえたらから香穂子の声だろう。そう思い隣を向くと口元を慌てて抑えた彼女が、頬を真っ赤に染めている。知らぬふりを装い、すました瞳でどうしたの?と語りかけてくるけれど、嘘がつけないから何があったかすぐ分かるんだ。


「・・・・・・・香穂子?」
「う、ウサギさんが喋ったんだよ。蓮くんにぺろって舐められて、くすぐったいよって。うん、きっとそうだよ!」
「・・・・・・・・・・・」


俺にも思い当たるから、隠そうとするほどに君の熱さや感じる鼓動が移り、俺まで照れ臭くなってしまう・・・。
気を取り直してもう一度口に含むと、再び聞こえてきた押さえ切れない微かな甘い声。間違いなく香穂子だと確信を持って見つめると、ゆで蛸に染まった顔から見えない湯気を昇らせ、恥しそうに俯いてしまった。


空いた方の片手できゅっとスカートを握り締め、必死に耐えているのが痛いほどに伝わってくる。お願いだから顔を上げて欲しい。触れ合う脚と肩先に感じる熱は、言葉にならないもどかしい互いの想いの証。君が愛しいと思うほどに、身体中を駆け巡り焼き焦がす胸の苦しさが甘く募ってゆく。


「香穂子・・・その・・・」
「あの、蓮くん・・・ごめんね。私が食べられているみたいでドキドキしちゃったの。すぐ側にある唇から目が離せなかったら、蓮くんにぺろって舐められる感触を思い出して・・・つい我慢できなくて声が零れちゃった。私ってば変だよね・・・蓮くんが食べ終わるまで、あっち向いてるから気にしないでね」
「いや、このままでいい・・・俺は嬉しかった。俺も香穂子が食べている時に、同じ事を思っていたから」
「蓮くん・・・それだけじゃないの。ウサギさんに焼もちやくもう一人の私がいて、香穂子は私だよ、蓮くんこっちを見てって必死に語りかけていたんだもの。私の名前を付けてなんて言わなきゃ良かった。チョコレートに焼もちなんて、みっともないもの」


背を向けようとする香穂子の肩を慌てて掴みと止めると、一呼吸置いてから優しく名前を呼びかけた。ゆっくり振り仰いだ瞳は潤み、唇や頬が熟した果実のように赤く染まっている・・・今が食べ頃だと知らせるように。


「俺が食べたいのは、香穂子だけだ」
「えっと〜食べるのは、どっちの香穂子さんかな?」
「俺は君の名前を他につけようとは想わない。たった一人の大切な存在だから、他の何物も君の代わりにはならないんだ。俺にとっての香穂子は君だけだ」


そわそわと落ち着き無く肩を揺らしながら、チョコレートのウサギと俺へ交互に視線を送りながら訪ねる君へ、答えの代りにそっと重ねた手を強く握り締める。反らせぬ程に君を捉え、真っ直ぐに瞳の奥を射抜きながら想いを伝えれば、ほぅっと甘い吐息が零れ見つめる瞳が潤み出した。


ようやく綻び始めた陽だまりと、熱さが募る手の平で、ゆっくり蕩け出すチョコレートは俺の理性なのかもしれないな。ほら、君と俺に春を呼ぶウサギの魔法がかかるだろう? だから・・・二人で春を呼ぶウサギになろう。