恋愛ドリル
シャワーを浴び終わって寝室のドアを開けると、先に休んでいた蓮がベッドの上で上半身を起こして、枕を背もたれに寄り掛かりながら本を読んでいた。寝る前だから彼はパジャマ姿で、眼鏡をかけていて・・・洗いたての髪がサラサラしているのが、離れていても分かる。
やっぱり、素敵だな・・・。
毎日見ていても一緒に暮らしていても、初めて恋に気づいたように、ふと心がときめく瞬間が何度もある。
きゅんと締め付けけられるような、甘く切ない疼きを心に覚えるような・・・私は何度でもあたなに恋をするの。
うぅん、毎日だからこそ余計にそう思うのかもしれない。
昨日より今日、今日より明日のあなたがもっと素敵だと感じるから。
思わずじっと見つめてしまい、首にかけていたタオルで髪を拭いていた手もいつしか止まってしまった。
ドアの前に佇んだままの私に気が付いた彼が、ふと本から視線を上げて、優しい琥珀の瞳で微笑んでくる。
「お帰り、香穂子。どうした?ドアの前に立ったままで」
「あっ・・・ごめんね。ちょっと考え事してたの」
「すまないな、先に休ませて貰っていた。本当は一緒に入れれば良かったんだが・・・君を待つ時間が、とても長かった」
「待たせて・・・その、ごめんね。だっ、だって・・・。一緒にお風呂に入ると、すぐ蓮の思うままになって動けなくなっちゃうから、ダメなの。のぼせちゃうよ・・・・」
お風呂の熱さに、というよりあなたに。
初めのうちは泡とシャボン玉に戯れる私を、手の届く範囲で見守っていてくれるんだけど・・・ね。
自由に遊ばせてくれたと思いきやそのうち、もう満足しただろう?って・・・今度は俺と一緒にって・・・。
身体の力が抜けて立ち上がれなくなった私は、いつもバスタオルごと優しく包まれて抱きかかえられ。
行く先は真っ直ぐ寝室のベッドの上、結局朝まで離してもらえずに翻弄されてしまうんだから。
幸せだけども・・・毎日はとても無理、本当に身体が動かなくなっちゃうよ。
もう〜どうして蓮は、そんなに元気なの?
思い出したら恨めしいやら恥ずかしいやらで身体中に熱さが噴出し、真っ直ぐ見つめる視線に射抜かれて、鼓動が大きく飛び跳ね踊り出す。きっと赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、髪を拭いていたタオルをかき寄せながら覆い隠すと、クスクス楽しそうな笑いが小さく漏れ聞こえてきた。
「香穂子、こちらへ・・・こないか? お互いに、湯冷めをしないうちに」
「うん!」
かき寄せてたタオルを解いて蓮をみると、いつの間にかに眼鏡を外して本も閉じ、蕩けるような微笑でおいでと手を差し伸べていた。それだけで私は、しょうがないな〜もういいやって思えてしまう。
さっきまでの背を向けたい恥ずかしさは、一瞬で何処かへ吹き飛んでしまったみたい。
でもね毎日の事だけど、この瞬間が一日の中で一番緊張するの。
私たちのベッドは日立つだけ、しかも普通のダブルよりも大きめなキングサイズのダブルベット。
部屋もゆとりがあるからあまり大きさを感じないんだけど、初めの頃はホテルのスイートルームみたいに豪華に思えて、恥ずかしくてなかなかベッドに上がれなかったっけ。これがいいって、二人で決めたのにね。
懐かしさにクスリと緩む頬を止められないまま、力いっぱい頷くと、私は蓮が手を差し伸べて待つベッドへ向けて思いっきり駆け出した。
照れくささを押さえ込んで、どうしようもなく嬉しさが込み上げるのは、明日から蓮が夏のバカンスに入るから。
事務所やコンサート、レーベルのスタッフさん含めて皆のお仕事が夏休みなの。
蓮の夏休みは、私にとっても夏休み。年に一度の待ち遠しかった日々の始まりが、やっと来たんだもの。
一日だけでも嬉しいのに、日本と違って一ヶ月近くもまとまった休みがもらえるから、何処へ行こう・・・何をしようかって考えただけで、心がはちきれてしまいそう。
だから今夜は一緒に、お風呂へ入らなかったの。
だって、こんなにわくわくする休日前の素敵な夜を満喫できないなんて、もったいないじゃない?
ベッドへ勢い良く飛び乗り、蓮が休んでいる枕元とは正反対の足側にちょこんと座ると、スプリングが大きく飛び跳ねて波を打つ。ふわふわ漂う私の心を伝えるように、想いの波動となって、私からあなたへと伝わるの。
「こら、香穂子っ! 」
突然飛び跳ねたベットの波に身を任せながら、一緒にふわふわ飛び跳ねている彼は、驚きに目を大きく見開きながら私を諌めている。ふふっ・・・ごめんね。でも驚くのはまだ早いんだよ。
小さく肩を竦めて笑いかけると、膝をすって歩くのがもどかしくなった私は、早く彼の元へ辿り着きたくて、ころんとでんぐり返しをした。この方が、歩くより早くあなたのところに辿り着けるって、知ってた?
ころりと一回転・・・でもまだベッドの半分くらいで、蓮にはまだ少し遠い。よし、じゃぁもう一回転。
今度は勢い良く転がったものの、シーツの下に伸ばしていた彼の足に躓いたようで、体勢が崩れてしまった。
「あ、あれ・・・?」
「危ないっ!」
転びかけたところでしっかりと抱き止められ、温かい腕に包まれた。だいぶ脇へ進路が反れてしまったらしく、首を巡らせて肩越しに振り返れば、もう少しでベッドから転がり落ちるところだったらしい。
「香穂子・・・。飛び込むのはまだしも、いくらベッドが大きいとはいえ、でんぐり返しは危ないだろう? ベッドから転がり落ちて怪我でもしたらどうするんだ」
私を抱き締めるこの腕が無かったら、危なかったかも・・・。
でもちゃんと、彼の元には無事に辿り着いたみたいで良かったと、私は安堵と喜びに胸をホッと撫で下ろした。
くるりと視界が回転して、そのまま抱えられながら優しくベッドへ横たえられると、耳元にくすぐったい小さな溜息が吹きかけらる。僅かに身を捩って上を向くと唇が触れるほどすぐ目の前には、困ったように眉を寄せて微笑む蓮がいて、そっと私の額にかかった髪を払いのけてくれた。
「大丈夫だよ、だってちゃんと蓮がこうして受け止めてくれるじゃない。あ・・・でも、子供っぽいって、呆れた?」
「もちろん何があっても君を離さないし、落ちないように受け止めてみせる。それに、呆れてなんていないから、心配しないでくれ。無邪気で少女のように変わらない君が、俺は大好きだよ。どうか君はそのままでいて欲しい・・・いつまでもずっと」
「ごめんね、すっごく嬉しくて気持が止められなかったの。明日から蓮が夏休みでしょう? 私、お休みの日って大好き! 蓮と二人で楽しい時間を過ごしたり、ゆったり寛いだりできるから。毎日が休日だったらいいのにな」
「休日が嬉しく感じるのは、平日に仕事やお互いの役割を頑張ったご褒美なのかも知れないな。次の休日に、君と何をしようか・・・その為に俺は頑張れるんだ」
待ち遠しい思いは結婚した今でも、まだお互いに付き合っていたあの頃と同じように変わる事は無い。
うぅん・・・同じじゃないかな?
毎日一緒に過ごしている筈なのに、離れていた時よりも強くそう思うようになったのは何故だろう。
もっと一緒にいたい・・・離れたくないって思うのは、きっとあなたの事が大好きになっている証なんだね。
「今夜は、このまま寝るのがもったい感じ」
「嬉しいのは、俺も同じだ。眠れないのなら、ずっと起きていようか。朝まで・・・共に」
私が背中にしがみ付くと、首元に顔を埋めながら耳朶に甘い囁きが吹き込まれる。
くすぐったさに身を捩ると、逃がさないといわんばかりに深く腕の中に抱き込まれ、強く閉じ込められた。
心の中までしっかり彼の腕に捕らえられながら・・・私を逃がさないでねって、彼だけに聞こえるように耳元で囁くと、そのまま唇をそっと押し当てた。覆い被さる体が一瞬ピクリと跳ねて、視界に映る横顔がほんのり赤く染まっているのが分かる。ふふっ・・・私だけじゃなくて、蓮も照れいるみたい。
「大人の夏休みは宿題が無いから幸せだよね。今暮らしているドイツの子供たちも、宿題が無いなんて、羨ましいな私もドイツに生まれたかったよ」
「学年の変わり目や法律で決まっているからというのもあるからな。だが、楽しい事ばかりじゃない。成績が悪ければ落第だってあるんだぞ。彼らなりに大変なところはある」
「でも宿題の無さは魅力だな、だって夏休みは遊びたいじゃない? 私子供の頃、夏休みの宿題が大嫌いで、いつもぎりぎりになってから慌ててたんだよ。でも蓮はそんな事無さそうだよね。絵日記をまとめて一週間分書くなんて、絶対に無かったでしょう?」
広い胸の温もりにすっぽり包まれながら、枕にしている腕の肩先へ擦り寄れば、ヴァイオリンを奏でる長い指先が愛の言葉のように優しく髪を梳いて、私の心地良さを奏でてくれる。
引寄せられるように頬へ手を伸ばして包みむと、私が映る琥珀の緩んだ瞳と視線が甘く絡まった。
「俺たちも、夏休みの宿題を作ろうか?」
「夏休みの宿題!? 宿題が嫌いだったって、今さっき話したばかりでしょう? 私の話、ちゃんと聞いてた?」
せっかくの夏休みなのに、大人になってまで宿題なんて嫌っ!
ヴァイオリンの曲かな、それともお料理かな・・・一体なんだろう。
むうっと頬を膨らませて蓮の顔を間近で睨むと、彼は可笑しさを堪らえつつも肩を揺らして小さく笑い出した。
その振動が直接私にまで伝わってくすぐったいから、一緒に笑ってしまいたいんだけれども、益々分からなくて。
もう、蓮ってば何がそんなに可笑しいの!
「すまない、別に難しい事じゃないんだ。俺たちに出来る事を毎日少しずつ、こなせるものでいいと思う。高校生の頃みたいに、君と過ごす夏の思い出のようなものが欲しかったんだ」
「うわー夏の思い出作りだなんて素敵! なのに、早とちりしてごめんね。私たちの宿題って一体何をやるの?」
「俺も香穂子も毎日飽きずに長続きできるもの。それでいて楽しいもの」
「謎なぞみたいで分かんないよ、もう降参。ねぇ蓮、答え教えて!」
お願いだから教えてと軽く肩を揺すって答えをねだると、口元を緩めつつ私の頬を開いた片手で包んだ彼は、じゃぁ答えを教えよう・・・そう言って唇に触れるだけのキスを降らせた。
柔らかさと温かさの残る唇に指で触れつつ、分かっただろうかと私に微笑む彼の瞳をじっと見つめる。
えっと・・・もしかして私たちの宿題って?
「え・・・!? あの、答えって・・・キスの事?」
「毎日二回以上は必ずキスをする事、相手を想う愛の言葉を必ず添えて。それが、俺たちの夏休みの宿題」
「最低ラインが二回って・・・。えっと私たち、毎日それ以上のキスしているように思うんだけど・・・・・」
「だからいいんじゃないか? 今までと同じでももちろんそれ以上でも。無理なく毎日続けることが大事だから」
「宿題・・・成る程! 漢字や計算ドリルとか、英単語の練習を毎日一ページずつやるのと同じだね。小さなものからコツコツ積み重ねれば、いずれキスも言葉も私たちの中で大きくなるんだね」
笑顔を向けると、私を抱き締める腕にも力が込もり更に懐深く抱き寄せられた。ちょこんと首を巡らせて振り仰げ、ば嬉しそうな彼の笑顔が近づいて。愛してるよと、そう言って私のおでこに再びキスを降らせてくれる。
幸せに蕩けそうになりながらもふと我に返って、もうさっそく蓮は二回達成だよって思ってしまう。
いけない、いけない・・・私も頑張らなくちゃ。大好きだって想い、私だっていっぱい伝えるんだもんね!
「ねぇ蓮、質問してもいいかな?」
「どうした?」
「二回以上って言ってたけど、回数の制限は無いの? いっぱいキスしてもいい?」
「あぁ・・・別に決めていないが。その・・・何度でも、お互いに想いの向くままにしたらいいと思う」
「えっと、後はね・・・場所! 唇じゃなくても平気? 例えば蓮のほっぺとかおでことか鼻先とか、顔だけじゃなくて首とか手とかもあるけど、身体のどこへしてもいいの?」
「そうだな・・・俺は香穂子に香穂子は俺に。顔にこだわらず、顔や身体は何処でもいいということにしないか?」
「うん、いいよ。でも私はね、蓮がくれる唇へのチュウが一番うれしいな!」
「俺と香穂子で、夏休みが終るまでにどっちがたくさんキスしたかを、競争だな」
「じゃぁさっそく、私も・・・・・・」
世界で一番大好きだよ。
微笑を乗せてそう言うと、腕の中から背伸びをするようにチュッと音を立ててキスをした・・・これで一回目。
二回目は何処へしようかときょろきょろ探していると、ふと絡み合った蓮の瞳の色がすっと変わった。
その瞬間ころりと視界が回り、真上に覆い被さった彼に驚く暇もなく、押さえ込まれるように強く掻き抱かれる。
琥珀色の奥に灯る熱く静かな炎は揺らめきながら大きくなってゆき、見つめる私の心も熱く焦がしながら。
・・・んっ・・・・・!
先程の優しキスと違い、呼吸まで奪われそうな深い口付け。
翻弄されて意識が朦朧と仕掛けた頃に解放されれば、彼の唇は頬や頬や首筋を辿り、鎖骨を通って手と一緒に私の身体を彷徨い始める。
「ちょっと・・・蓮・・・・・・」
「俺は、宿題は溜め込まない主義なんだ。毎日欠かさずこつこつと進める・・・君の予想通りに。どんな小さなことにも常に全力で挑むから、君もそのつもりで・・・・」
「・・・んっ・・・・」
私たちの夏休みの宿題は、キスと愛の言葉。
そういう甘くて幸せな宿題なら、夏だけといわずに、これからずっと毎日あってもいいな。
約束しなくたって、自然に出来ちゃうんだからこれ以上に無理なく出来る宿題なんて、私たちには無いよね。
普段意識しなくても、宿題って決めたら蓮は几帳面だから毎日欠かさずしてくれそう。
回数とか覚えてたりして・・・恥ずかしいけど、ちょっと楽しみだな。
一冊の単語帳や漢字練習帳をやり遂げたら、自分に凄い力がついていたように。
夏休みを終えたら日々の積み重ねの成果は、私たちの想いと絆になって現れるんだろうね。
繰り返し繰りかえし何度も想いを交わした分だけ、大きく温かく私とあなたを包み込んで。
でも・・・ちょっと待って。
またもや、蓮の思い通りになったのかも知れないっていうのは、この際深く考えないでおこうかな。