プライバシー




ヴァイオリンの練習を終えた午後からは、柔らかな日差しがさしこむ窓辺に椅子を運び、静けさの中で読書の時間。午前中は家の仕事で元気良く家の中を走り回っていた香穂子も、ほっと一息落ちついている頃だろう。窓の外に見える花も水を得て光り輝き、そよ風に吹かれる白いシーツが心地良さそうに泳いでいた。

手の中にある小さな写真集には、果てしなく広がる空の青、そして空のを映す海の青。眺めるだけで癒される透明な青い海と、そこで暮らす二頭のイルカたちが仲良く寄り添う景色が描かれている。本屋で見つけたときについ懐かしい気持になり、ヨーロッパでは見ることの出来ない大好きな海や、海を泳ぐイルカが香穂子と一緒に出かけた水族館を思い出させてくれた。最初は立ち読みですませたけれど、香穂子と一緒に読みたいと思い、昨日買ったばかりの本だ。


共に泳ぎ、キスをするように頭を触れ合わせていて・・・どんな会話をしているのだろう。広い海を自由に動き回れるのは気持ち良いのだろうなと、ページを捲りながらいつしか、心の中で彼らに語りかけている自分に気付き、つい頬が緩んでしまうんだ。俺も香穂子に似てきたかも知れないな。


海は空の青さを映し、空と海は一つになる・・・。一人穏やかな心地に包まれながら、どこまでも青い写真のページを捲ってゆけば、空と海の青は同じようで少し違うのだという事に気が付く。澄み切った明るい空の色は、季節で言えば春のイメージで、清涼感と共に笑顔溢れる温かさが漂う。あるいは明るい日差しにキラキラ輝く水の色にも似ているな。どこまでも広がる自然の世界は、香穂子の音楽や優しく爽やかな彼女のイメージにぴったりだ。

ならばこの空を映す青は、俺なのだろう。海の方が濃い青色をしているのは、映した空への恋心がさらに色を重ねていると、君もそう想わないか? まるで香穂子を愛しく想う、俺の心のようで照れ臭い。心に満ちた青と愛しい想いを、二人で過ごす時間がやって来たら君に語ろう。約束の時間まであともう少し、一緒にこの本を眺めるのが楽しみだな。


空を見たり海を眺めたり、夢を見たり。時々遠くを見るのは大切なことだと思う。慌ただしい現実に追われ気付かないうちに弱ってしまった心の視力を取り戻そう。ゆったり寛ぐ時間が、俺たちを生き生きとしてさせてくれるから。

そうだ、夏のバカンスに長い休暇が取れたら、いつかこの写真のようにイルカが泳ぐ海へ行き、俺たちもイルカになろうか。あるいは日本へ帰り、思い出の水族館を訪ねるのも悪くないな。水族館で二人で一緒に眺めた夫婦の白イルカが、新しい命を生み出したのだと、今朝インターネットで見つけた日本のニュースを知らせたら、どんな顔して喜ぶだろう。想いを馳せただけで、頬が緩み気が逸ってしまいそうだ。あぁ・・・ほら、待ちきれずに香穂子を訪ねたら、きっと頬を膨らませてしまうから、もう少し我慢しなくては。




壁の時計を見れば、先程確認してからまだ、五分も進んでいない事に苦笑してしまう。一緒に過ごすのと一人で過ごすのでは、絶対に一分の長さが私たちだけの空間だけ違うんだよと。拳を握り締めて熱く時間の理論を語る、香穂子の気持が俺もよく分かる。本当は今すぐに香穂子の元へ行きたいけれど、お茶の支度が調ったと君に呼ばれ、一緒に過ごすまではもう少しの我慢だな。だがこの時間もきっと無駄ではなく、俺たちにとっては、とても大切なものなんだ。

早くこの時計の針が進まないかと願いながらも、読書をしたり音楽を学んだり、趣味や自分磨きにいそしむひととき。
一日の中で少しでも良いから、お互いに一人の時間をつくろう・・・今はそう約束した時間。読んでいた青い写真集を膝の上に置き、目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ笑顔の香穂子が、優しく語りかけてくる・・・瞳の中でも君は真っ直ぐ俺を見つめ温かに。


確かに星奏学院に通っていた頃や俺が留学していた頃は、離れている時間にお互いを磨き高めていたから、何度出会う度に新鮮な驚きや魅力をを感じていた。会えない時間にも愛を育て育み続けたからこそ、今の俺たちがある。結婚していつでも一緒にいられる毎日になっても、積み重ねる一歩一歩を忘れてはいけない・・・俺もそう思う。





コンコン・・・と部屋のドアがノックされると、心の扉もノックされ、浮き立つ春の喜びが溢れてくる。扉へ駆け寄りたい気持だけが先に走り、それを追いかけるように返事をすれば、想い描いた通りに笑顔の香穂子がひょっこり顔を覗かせた。毎日君を見ているというのに、さらりと肩から零れ落ちた髪にどきりと鼓動が高鳴り、久しぶりに会うような感動を覚えてしまう。

椅子から立ち上がった俺が君の元へ駆け寄るよりも早く、そよ風となった香穂子はシフォンのスカートを靡かせ、あっという間に窓辺へ駆け寄ってくる。会えるひとときを待ちわびていたのは、俺だけでなく君も同じだった・・・身体中に駆け巡る熱さと、甘い痺れに酔わされそうになるこの感覚も、小さな幸せなのだろう。


「蓮、お待たせ。お茶の用意が出来たから呼びに来たの」
「ありがとう、香穂子。どうした、やけに嬉しそうだな。後ろ手に何か隠しているのか?」
「うん! 実はね、この間街の本屋さんで綺麗な青色をした、小さい本を見つけたの。蓮が大好きな空や海の写真だけじゃなくて、可愛い二頭の白イルカさんが仲良く幸せそうなんだよ。さっきまで眺めていたんだけど、水族館デートを思い出しちゃった。蓮もきっと気に入ると思うの、早く一緒に見よう?」
「偶然だな、実は俺も同じような本を読んでいたんだ。香穂子と一緒に見たいと思って、これなんだが・・・」
「あっ! それ私が読んでいた本と同じだよ。海と空とイルカさんの、小さな写真集・・・蓮も買ってたんだね」


俺が差し出した本に驚き、目を丸くした香穂子が、後ろ手に隠し持っていた同じ本をそっと差し出した。俺が差し出した表紙には一頭の白イルカが、そして彼女が差し出した同じ本の裏表紙に泳ぐのは、恋人であるもう一頭の白イルカ。二冊が裏表で並べば仲良くキスをする、幸せの偶然に暫く互いに手元を見つめていたが、やがてどちらとも無く瞳を交わし、柔らかな微笑みが生まれた。


それぞれ一人の時間を過ごそうと決めたのに、俺も香穂子も同じ事をしていたんだな。気が合うのはやっぱり夫婦だねと頬を綻ばせる君が、手に持った本のイルカをチュッと音を立てながらキスを触れ合わせてきた・・・もちろん俺の頬にも一緒に。お返しに君を抱きしめ唇へキスを届ければ・・・ほら、本の中で泳ぐイルカたちが奏でる祝福の音楽が聞こえてこないか?


「一人の時間を作ろうと君が真剣に言い出したときには、気に病む事を何かしてしまったのだろうかと本気で慌て、身体中の温度が一気に下がったのを覚えている。その時の俺は相当慌てていたんだろうな、必死に記憶を辿りながらも謝る俺に、丸く見開く大きな瞳を緩め、違うのだとくすくすと笑いを零しながら、ふわりと抱きついた頬へ小さなキスをくれたんだ」
「大勢は一人の集まりだから、一人の時間を楽しめない人は、みんなと一緒にいたとしても心の底から楽しむことが出来ないって思うの。お互いにやらなくちゃいけない仕事や趣味も違うけれど、私たちだからこそ分かり合えるのって嬉しいよね。結婚してからはいつも一緒にいるでしょう? いつでも蓮に恋していたいの、だからこそ初心を忘れずにね」
「一人で幸せを感じる心を持てば、二人一緒に過ごしたとき互いに刺激し合い溶け合う。幸せな今の大切さを感じるだけでなく、二倍以上にも大きく膨らむんだな」



一緒に見る景色、共に描く夢・・・諦めることなく自分を高め互いに励まし合いながら、寄り添わせた二つの道。留学中は海を離れ別々だった二人の生活が今では一つに重なった。目が覚めると隣に君がいて、おはようのキスを交わしたした後に二人揃って温かな朝食を取る。朝から慌ただしくくるくると動き回る香穂子が家事を終えたら、一緒にヴァイオリンを奏でたり、午後になれば手を繋ぎながらデートの気分で街を散策。そして夜眠ってからも、手を伸ばせばすぐ抱きしめられるj距離に君がいるんだ。

少し前までは例え会いたくても、ヴァイオリンの音色が聞きたくても願いが届かず、遠い空から君を想っていたんだな。離れてから初めて気付いた君への想いは、たくさんありすぎて数え切れない。ソリストになるために、一人異国の地でヴァイオリンを学びながら、どれだけ君への愛しさや大切さを感じただろうか。


いつも一緒にいると君が傍にいる事に慣れてしまい、いつしかずっと前から共にいるような・・・当たり前のような気持になってしまいそうになるけれど。幸せは手の平に乗る雪の結晶のようなものだから、なかなか気付くことは出来ないし、自分の中で当たり前になってしまった瞬間から、幸せの輝きが消えてしまう気がするんだ・・・大げさかも知れないが。


そんなときこそ日常に散りばめられた、たくさんの幸せを見失わないようにしよう。変わることのない俺たちの毎日の生活がずっと輝いていられるように、心の整理整頓をしないか? 互いに高め合い、恋する心は道が寄り添った寄り添った今でも変わらない・・・これからもずっと。だからこそ、一人の時間にお互いを見つめ直す事も大切なんだ。二人で拾い集めた幸せの欠片を、心のポケットへ満たすために。