prologue
成田空港の出発ロビー。
これからドイツへと旅立つ月森を見送りにきたのは、香穂子だけだった。


先日かつてのコンクールメンバーが集まり、ささやかに壮行会が行われたのだが、その際に二人には内緒で、みんながこっそり決めていたのだ。
最後は二人だけにしてあげよう、と。



「蓮くん、いってらっしゃい」
「・・・あぁ。行って来る・・・」


二人とも、それ以上の言葉が続かなかった。
ただじっと見つめ合い、時だけが流れていく。


最初に沈黙を破ったのは、香穂子だった。


「さよならは言わないよ。だってまた会えるって信じてるから」
「香穂子・・・っ」


月森は香穂子を引き寄せ、腕の中に強く閉じこめた。
もう暫くは触れることができない、小さく柔らかな体の感触を愛しさごと刻みつけるように。
端から見ればドラマのワンシーンのようだとは分かっている。
でもそうぜずにはいられなかった。


「蓮くん」


腕の中の香穂子が小さく呟いて身動ぐと、月森の背中に腕をまわして縋り付いてきた。
細い腕に込められた力は、月森の腕に込められたものと同じか、それ以上の強さであったか。


出発の人々で賑わうロビーのざわめきが、どこか遠くのものに聞こえる。


「この手に夢を掴んで、必ず戻ってくる」
「・・・泣かないって決めてたのに、蓮くんずるいよ・・・」


見上げる瞳に涙を一杯ためて、それでも泣かないようにと必死に笑顔を作る香穂子にたまらく愛しさを感じた。不器用な自分はこんな時にも、気の利いた言葉を掛けるすべを知らない。
だから、溢れ出て押さえきれない熱を唇に乗せて、直接想いを伝えることにした。


いつもの優しいキスではなく、全てを奪うような激しいキス。
心に沸き上がる情熱のままに唇を交わす。
互いに舌を絡めて奪い合い、深くなっていく口づけ。


香穂子の想い全てを俺に預けてくれ。そしてきみに俺の想い全てを刻みつけよう。


『ルフトハンザドイツ航空24便に搭乗のお客様、最終手続きのお時間が・・・・』


搭乗手続きの最終時間を知らせる場内アナウンスが、現実へと引き戻した。
遠かったざわめきが再び辺りを包みだす。


離れがたい気持ちを表すかのように銀の糸が二人を繋ぎ、やがてプツリと途切れた。
スローモーションのようにゆっくりと唇が離れていく間も、互いに目をそらすことができない。


いつまでも、このままではいられないんだ・・・。
登場時間を引き延ばすのにも、もう限界がきている。
月森は目を閉じると、身の熱を冷ますように大きく深呼吸した。


「行って来る・・・」


再び開いた月森の瞳には、決意と覚悟を決めた強い光が宿っていた。
もう誰にも止められない・・・自分にも、香穂子にも。


香穂子抱きしめていた腕ををそっと緩め、傍らに置いたヴァイオリンと小さな鞄を手に取ると、くるりと背を向けた。そのまま登場ゲートに向けて、真っすぐ歩き出す。
後ろは振り返らず視線も心も、ただ前だけを見据えて。


今、泣かせてしまっているかもしれない・・・。
鞄を握る手に、自然と力が入ってしまう。
前に向こうとすればする程心に沸き上がるのは、後悔と後ろめたさ。
こんな事ではこの先の4年間、ヴァイオリンを極められるのか!
月森は自分の弱い心を、必死で叱咤した。


ゲートを通る瞬間に、一度だけ後ろを振り返った。
遠くて表情までは見えないが、まだ香穂子はそこにいてくれていた。
その事に少し安堵する自分がいる。
月森が自分を振り返ってくれた事に気付いた香穂子が、小さく手を振っているのが分かった。


「香穂子・・・」


きっと精一杯の笑顔で、手を振っているに違いない。思わず口元がほころんだ。
ヴァイオリンと鞄を片手に持ち直す。


心に渦巻いていた不安と緊張が、雪解けのようにすっと解けていく。
いつも香穂子に救われていたな・・・。出会ったときから、そして今も。
早春の芽吹きのように芽生えた暖かな気持ちをしっかりと胸に抱きしめて、返事の代わりに空いた片手を上げた。


行ってくるよ。


別れは終わりなんかじゃない、新たな出会いの始まりなんだ。
きみと俺とで歩む、新たな物語の1ページ。
その先にあるものが、幸せな結末であることを願って・・・。


搭乗ゲートの奥へと消えゆく月森の背中を、香穂子はいつまでも見送っていた。