幼子のように



石作りのアパルトマンが青空に向かって整然と並ぶ街並みは、中世の面影を留める歴史と新しい流れが、緑豊かな自然と音楽が溢れる中で同居する。留学中から暮らすヨーロッパの街中を香穂子と手を繋いで歩けば、石畳から靴底に伝わる軽快なリズムが身体に伝わり、心も楽しい音楽を奏るんだ。

結婚しても恋人同士の頃と同じようにデートを忘れない、というのが香穂子と俺が二人で決めた約束だから。休日を迎えた今日は、買い物を兼ねてのんびり街を散策しようか。建物の隙間に広がる青空にご機嫌な笑顔を綻ばせる香穂子は、建物に面した大きな扉の前で立ち止まり、ちょっとだけ遠回りをしよう?と、繋いだ手を軽く揺さぶりながらふり仰ぐ。


「ねぇ蓮、あれはなぁに? この通りは静かで落ち着いているのに、建物の入り口の奥には広い中庭と賑わう人の流れが見えるよ。外側からだと分からないけど中にお店があるのかな、ショッピングバックを持った人がたくさん出てくるの」
「あぁ、ホーフという中庭のショッピングモールだ。通りに面した建物を入ると中庭へ通り抜けられるようになっている。ヨーロッパ都心部の建物には共通した形があるんだが、中庭を囲むように“ロや“コ”の字形をしている場合が多いんだ。今では綺麗に改装され、一階がショッピングモールになっている」
「知らなかった! どんなお店があるんだろう、カフェや可愛い雑貨屋さんを探したいな」


ホーフとは中庭のある建物を全体を示すが、この場そのものはドイツ語で中庭を意味する。以前は住宅地だったのをお洒落に改装し、現在はカフェやショップはもちろん映画館やコンサートホールまで幅広く揃い、観光客にも人気らしい。 興味津々に覗き込む香穂子に、行ってみるかと微笑みかけながら手を握り締め直せば、大好きな満面の笑顔でうん!と大きく頷いた。

ようやく慣れ親しんだ異国の街でも、まだ歩いたことのない道があるから、きっと素敵な景色に出会えるはず。俺と一緒だから楽しいし、どこでも安心なのだと朗らかな笑顔に叶うわけもなく、新しい景色に目を輝かせる香穂子の願いを叶えるべく進路変更だ。本当はバスルームで使う二人のバスタオルを買うために、少し先の繁華街へ行く筈だったのだが・・・。そうだな、 いつも歩く道の角を一歩曲がるだけで新しい景色が開け、そこから旅が始まる。





通りから奥へ入ると再び青空が現れ、石造りの建物に囲まれた中庭が現れた。緑溢れる中庭には噴水やベンチが置かれ流行の発信基地でありながらも、品良く落ち着いた雰囲気が漂っている。例えるならば街中なのに、運河沿いの公園を散策するときと同じような穏やかさがだろうか。溢れた光にわぁ!と歓声を上げた香穂子は、小さな街だねと嬉しそうにきょろきょろ周囲を見渡し、さっそくウインドーショッピングに夢中だ。

普通に握り合う繋いだ手から、するりと抜け出しかけた香穂子を慌てて引き寄せ、小さく零れた溜息など無邪気にはしゃぐ君は気づきもしないだろう。指先一本一本からしっかり絡めるように繋ぎ直したのは、すぐ君がはぐれて迷子になってしまうから。結婚後に渡欧した香穂子は、まだまだ地図が手放せないながらも、目を離せば興味を示すままに街へを駆け回ってしまう。


ヨーロッパ独特の優れたデザインや機能は職人達の、物に対する愛着の現れ。こだわりの雑貨やインテリア家具、生活用品が並ぶ店の窓を熱心に眺めれば、子供のように駆けだし扉の中へ引き込まれる君を追うのに、ひとときも目が離せない。だが離すことの出来ない視線は、やがて楽しそうな笑顔を見るだけで幸せな気持へと変わるんだ。そう・・・君が見つけた新しい道の先に待っていたのは、一人で散策したときには決して感じることの無かった浮き立つ気持。


「うわ〜可愛いお店だね。ねぇ蓮、ここ入ってみてもいい?」
「どうやら、バスグッズの店のようだな。ちょうど良いかも知れないな」
「寄り道させちゃってごめんね。本来の買い物目的目的だった私たちのバスタオルも、きっと素敵なものが見つかるかも。楽しすぎていろんな物を買い込んじゃいそうだから、気をつけなくちゃ」


店の窓に張り付き熱心に眺めていた香穂子は、俺の手を引くように小走りに駆け出してゆく。ほら・・・怪我をするから急かなくてもいい、ゆっくりで。そう宥める俺を越しに振り返り、ごめんねと小さく赤い舌を出すと隣に並び、早く行こうよと笑顔の眼差しで愛らしくねだりながら、待ちきれない嬉しさを現した瞳に真っ直ぐ俺を映した。


まずはカウンターに立つ店員に挨拶して、店内を見せて欲しい旨をドイツ語で伝えるのを忘れずに。鉄の扉のように堅いと言われるこの国も人々だが、だれもが礼儀正しく、マナーがきちんとしていればとても親切に対応してくれるだろう。




大好きなバスタイムでの幸せを逃がさないために、風呂から上がった身体を包むバスタオルにも、肌触りが良いふかふかなものをと言うのが香穂子のこだわりだった。肌に触れる毎日使うものだからこそ大切にしたい・・・彼女の想いの数々から揃えたアイテムたちが生み出すのは、快適さだけでなく甘く熱い幸福な夜。

さっそくお気に入りを見つけたらしく、手に取った二色のバスタオルとお揃いのフェイスタオルも選び、ピンクは君でブルーが俺用なのだとそれぞれを掲げながら披露してくれる。ふかふかのバスタオルに包まれると心まで笑顔になれるよねと、パイル地の手触りを確かめたり、頬をすり寄せるだけでご機嫌なのだから、風呂上がりに濡れた身体を包んだら、もっと幸せな気分に違いない。


きっと手放したく無くなるよねと君は言うけれど、それは困ってしまうな。風呂上がりの身体を包むのは、君が大好きなバスタオルではなく、本当は俺であって欲しいから。手放せないのはバスタオルではなく、君になる自分が予想できるだけに、鼓動が小さな熱さを伝え始めだす。今夜のバスタイムが待ち遠しいと心のままに伝え見つめれば、受け止める顔が照れて茹で蛸に染まり、選んだタオルをきゅっと抱きしめ小さく俯いてしまった。


君の熱は俺にも移り、滴が波紋を描くように内側からじんわりと広がってゆく。二人揃って見えない湯気を噴き出し、固まったままの俺たちを包むのは、長いようで短い甘さの沈黙。恋する感覚や甘酸っぱいくすぐったさは、音楽の道と想いを寄り添わせ結婚しても変わることはない。目まぐるしく変わり続ける毎日の中で、変わらずにある大切な物や気持に、嬉しさと誇らしさを感じながら。真っ赤に固まる香穂子の手から、そっとタオルを受け取り視線で会計を促す。

はっと我に返りはにかむ微笑みで寄りそう香穂子も一緒に歩き出す・・・ここまでは良かったのに。
会計のレジまであともうすぐというところで、興味を捕らえる何か楽しい物を見つけた君が、ぴたりと足を止めてしまったんだ。


大きな瞳をきらきらと輝かせながら、子供と同じ目線にかがみ込んで熱心に見つめる先は、商品サンプルの為に設置された本物のバスタブ。爽やかなブルーの湯船に浮かべぶのは、バスタブに浮かべて楽しむ玩具が揃っているらしい。

入浴剤やバスグッズには目がない香穂子の心を、バスタオル以上に捕らえたもの、それは一瞬で恋に落ちた一目惚れに似ているかも知れない。もしこのまま彼らがバスルームにやって来たら、俺など見向きもされなくなってしまうのでは? 喜ぶ顔が見たい一方で、雨雲のように沸き上がる危機感を押さえることに俺は必死。


湯の中へ落ちてしまうのではというくらいに覗き込む香穂子を、この場から動かす難しさは経験上良く知っている。いつもは素直なのに、時には諦めきれない子供みたく頑固になってしまうから.。それ以上に、甘くねだられたら嫌と言えない俺がいるんだ。見知らぬ子供と一緒にディスプレイの湯船へ手を伸ばす、無邪気さに愛しく想いながらも、一度決めたら折れることのない意志に火が付いたことを、背後で苦笑しているなんて君は知らないだろうな。だがここは、何が来ても厳しく接しなければ。


「ねぇ蓮、バスタオルと一緒にこれも買っていいでしょ? バスタブに浮かべて使う玩具なんだけど、暗くしたバスルームで使うプラネタリウムと、海の中にいるような気分になれるアクアブルーのライト。それからこのクジラさんは、背中からシャボン玉を作ってくれるんだよ」
「・・・香穂子、君はバスタブに一体いくつ玩具を持ち込む気なんだ。それに家庭用プラネタリムや青い光のライトは、寝室にもあるじゃないか。わざわざ同じ物を買わなくても、良いだろう」
「えっと、その。ベッドで眺めるのと、お風呂で使うのは景色が違うと思うの。例えばほら、青い海のライトとシャボン玉があれば、私たちはバスタブに浸かりながら海の中を泳げるんだよ。蓮と私がイルカになれるの、ね?」


ね?と愛らしく小首を傾けつつ、上目遣いで見上げる香穂子は、俺がこの視線に弱いことを知っているのだろうか。海やイルカの言葉に心が揺らぎ始めた心を察したのか、いそいそと俺の腕を引き、バスタブに浮かぶ白いクジラの良さを必死に語ってくる。シャボン玉と、青い海の光たち・・・そして天井とバスタブの水面に映る満天の星空が、俺たち二人のバスタイムを更に感性させる為に、これらのアイテムが必要不可欠なのだと。

確かに綺麗だろうし興味もある、楽しみたい君の気持ちも分かる。だがわざわざバスルームを暗くして、眠る前の寝室のように仄かな灯りで照らさなくても、良いだろう? せめて、明るい照明のままにする方法は、無いのだろうか。

暗闇になれば、閉ざされた視覚を補うために他の感覚が鋭くなるんだ。無邪気な遊びを楽しむ香穂子を腕に閉じ込めながら、暗闇で不自由な瞳の変わりに君を唇や直接肌で感じるから、お湯だけでなく身の内から更に熱さが募る。やがて互いの理性を焼き焦がし、熱い波へと飲み込まれてしまうのに。

先日も暗闇の湯船で光る、アヒルの玩具を買ったじゃないか・・・青とピンクの二色を。だがお湯に浮かべるのだと張り切っていたのに、たった数日で使わなくなっただろう? 零れる溜息混じりにそういうと顔を赤く火照らせながら、蓮と一緒じゃなくて一人でお風呂入る時に使ってるもんと、強気に見つめ返しながらぷぅと頬を膨らませてしまう。


「何と言おうが、却下だ」
「だったら私のお小遣いで買うもん、おねだりしても使わせてあげないんだから。ねぇどうして駄目なの? お星様も海も・・・綺麗なのに。でも蓮と一緒じゃなくちゃ意味がないの、だから蓮が良いよって言うまで、私ここ動かないんだからねっ!」
「ならば好きにしたらいい。俺は先にタオルの会計を済ませてくる」
「ちょっと待ってよ、蓮ってば!」


俺たちが日本語で会話をしているから、店内にいるスタッフや客達が何を言い争っているのか分からず、遠巻きに見つめる視線に気付く。二人の風呂事情で言い争っていたなんて、照れ臭さが募るこんな時は、俺たちがの会話が聞かれることのない、周りが皆ドイツ語で良かったと心から思う。


踵を返し真っ直ぐレジへ向かったものの、後を付いてくると思ったのに香穂子の気配はなく、立ち止まって振り返ればまだ彼女は同じ場所に立ちすくんだままだ。涙を堪える頬をと唇を噛みしめ、強い視線で睨み据えながら、絶対に動かないという言葉通りに。困ったなと溜息だけが零れてくるが、彼女の隣にいた子供も母親に向かい、同じ商品をねだっているのが、どうにも可笑しくてつい頬が緩んでしまった。全く君は、小さな子供と同じような表情をしているぞ。

いつもは素直な香穂子が、まるで子供のように欲しい物に対して駄々を捏ねる・・・。だが滅多なことでは我が儘を言わない君が、強く意志を通すのは珍しいな。もしかしたら、こだわる何か理由があるのかも知れない。厳しく接するのだという意志はあっという間に崩れ去ってしまうのは、惚れた弱みなのか・・・泣かせるつもりはなかったんだ。そう思うと、いてもたってもいられず駆け寄る俺は、結局君に甘いのかも知れない。


バスルーム浮かべて使う、星空を映すライトのボール。海の中にいるような青を天井や壁に映し出す、青いボール。そしてシャボン玉を作り出す白いクジラ。一目惚れのお気に入りたちを抱きしめたまま、名残惜しそうに手放せない香穂子に視線を合わせてかがみ込む。隣にいた小さな子供は諦めて帰ったようだぞと優しく示せば、震える吐息を零しながら強く彼らを抱きしめ、ふいと首を背けてしまう。どうしたら、心を開いてくれるだろうか。


「香穂子・・・」
「・・・・・・・・・。バスタイムの寛ぎは、心も癒す大切な時間なの。シャワー浴びたら数分で出ちゃうなんて、もったいないよ」
「何も買うなと言っている訳じゃない。あれもこれも全てを選ぶのではなく、本当に必要なものを冷静に考えて欲しい」
「どれもこれも、全部必要だから選べないよ。夜空も海も大切なの、だって蓮が大好きな景色だから・・・。私の大好きなお風呂と、蓮の大好きな星空や海を一緒に楽しめたら、きっと素敵だと思うの」
「・・・まさか俺の為、なのか?」


目を見開く俺にはにかみながら微笑み、小さくこくんと頷く愛しさに鼓動が弾け、熱く早駆けるリズムを刻み出す。わざわざバスルームを暗くして楽しむのはどうなのか・・・仄かな灯りに照らされ気分が高まったら、きっと自分が抑えきれない。香穂子がバスタブで生み出す泡が好きだし、君さえいれば純分に幸せだ。これ以上俺を熱くさせたら、君がのぼせてしまうことになるんだぞ。

周囲はドイツ語のみを理解するだろうと安心しながらも、つい小声になり二人だけの会話のように、互いが小さく囁いてしまう。逸らすことの出来ない真っ直ぐな輝きの瞳を受け止めれば、それでも良いのだと・・・想いのままに伝えてくれる熱さが、脳裏を甘く霞ませる。落ち着くんだと必死に自分の理性に言い聞かせ、耐えるのに必死なのだと君は気付いているだろうか。


「一緒に楽しめて感じあえたら、とびきり最高なバスタイムと夜になるよね。私ばかりが一人で楽しんでいたら、駄目だと思ったの。だってバスタブの泡を楽しんでいる間、蓮は何もすることが無いからつまらないでしょう? 最初は自由に遊ばせてくれるけど、途中から手や唇が悪戯してきたり、最後には蓮の熱さに蕩けちゃうもの」
「入浴剤の泡に戯れる香穂子の笑顔を眺めているし、俺なりに楽しんでいるから気にしないでくれ。だがその・・・すまない。見守りたいのにどうしても、俺を向いてくれと欲が出てしまうんだ。これらの玩具がバスルームに増えれば、興味は俺に向かないのでは・・・そんな不安もあったんだ。子供のような我が儘を言っていたのは、俺の方だな」
「我が儘言って駄々捏ねてごめんなさい、お店の中なのに恥ずかしいよね。蓮は悪くないよ、私がいけなかったの。やっぱり玩具は止めておくよ、この前に買ったアヒルさんが、放っておかれたら寂しがると思うから・・・」


まだ言ってなかったよね、青い光を放つアヒルさんが蓮でピンクが私なんだよと。頬を染めながら内緒話のように囁くと、目尻に浮かぶ滴を指先で拭い去り、持っていた物を売り場の棚に戻し始めた。バスタブに浮かべて楽しむプラネタリウムと、海を映す青い光のボールを名残惜しそうに見つめる香穂子に、そっとかがみ込みんだ耳元に吐息で囁けば、たちまに頬に可憐な花が咲き綻んだ。


寝室では天井に映し出される星空を眺めながら、いつの間にか君は心地良く眠ってしまうから。きっと湯船の中でも、初めのうちは無邪気にはしゃぎ、いずれ疲れ果てて眠ってしまうかも知れない、それは困ってしまうな。だがいつか叶えると約束しよう。本物の海や星空を眺めながら、君が大好きなバスタイムを過ごせるような・・・・バカンスを二人だけで過ごそう。