俺様でもキスは優しい
休日デートの待ち合わせである駅前に香穂子が着くと、まだ待ち合わせの相手である衛藤の姿が無かった。約束の時間に間に合ったよね? 少し息を切らしながら腕時計を確認すると、約束にはまだ早い時間にほっと安堵の吐息が零れた。いつもは支度に手間取って、約束の時間ぎりぎりか、少し遅れた頃に慌てて走ってくる事が多い。遅い!と毎回のように怒られているから、今日こそは先に来て衛藤くんを「遅いぞ」って、胸を張りながら出迎えようと思うの。
リボンつきのハンドバックからハンカチを取り出すと、夏の暑さで額や首筋にじんわり滲んだ汗を拭う。ハンカチを鞄にしまうと、続いて取り出した手鏡に顔を映し、衛藤の来ない今のうちにお洒落の最終チェックをしなくては。まずは急ぐあまり乱れかけた前髪やサイドを手櫛で整えて、ビューラーで持ち上げたぱっちり睫毛の仕上がりも鏡に映す。
笑ったり、むぅっと怒ってみたり笑顔の準備運動。くるくる表情を変えながら、鏡の中にいる自分に笑顔の瞳で語りかけている。可愛くなった小さな変化に気付いてくれるかな・・・そんな期待を込めながら唇もチェック。伸ばした小指で艶めきを放つ潤んだ唇にもそっと触れて、新しく買ったリップグロスの色づきを確認しながら、手鏡に向かってにっこり微笑んでみる。楽しい気持を育てる心のまま、ちょっとだけ唇をすぼませ、キスをする練習も忘れない。
嬉しい気持や待ち遠しさが、そのまま身体に染み込むと表情がキラキラしてくるのが自分でも分かる。友達からは褒められて、家族からはからかわれて・・・。恋して変わる自分はちょっぴり照れ臭いけど、誇らしくて好きだなと思う。
足元を覆った影に衛藤が来たのかと期待に胸を弾ませ、満面の笑顔でふり仰ぐ。目の前に立った人が衛藤ではなく人違いだと分かり、間違えた自分に溜息をつきながら肩を落としたのもつかの間。ずいぶんと馴れ馴れしく声をかけてきた男性二人組相手に、香穂子の表情が一瞬で険しい鋭さに変わった。
「・・・っ! 何ですか、あなたたち!」
「カノジョ〜誰かと待ち合わせ? 女の子だったらさ、俺たちちょうど二人いるから一緒にカラオケでもどう?」
「残念でした、待ち合わせは男の人ですっ! だからあっち行って下さい!」
「へ〜ひょっとしてカレシとか? でもまだ来てないじゃん。だったら俺たちと、楽しい事して遊ぼうぜ〜」
「きゃっ・・・やめて下さい、腕を離して! 大声出して警察呼びますよ」
いかにも遊んでいそうなナンパな男二人組へ、あっちへ行けと強く睨み付ける香穂子は、ツンと顔を背け知らぬ振りですり抜けようとする。だが一人が前に立ちふさがって進路を阻み、もう一人が腕を掴み動きを封じられてしまった。弱さを見せたら負けだ・・・。震えそうな心を叱咤しながら、香穂子が尚も強く睨み付けたその時、聞き慣れた声が男達の背後からかかった。香穂子と、真っ直ぐ呼びかけるその声は・・・間違いない、今度こそ彼だ!
「その手を離せ、俺の女に気安く触るな!」
「・・・衛藤くん!」
ゆっくりと歩み寄る衛藤に気づいた香穂子の表情も、ぱっと嬉しそうに輝き瞳を潤ませる。視線で人が切れるくらいの鋭さで、怒りを露わに睨み据えながら、香穂子の腕を掴む男に近付く衛藤。その気迫に一人逃げだし、腕を掴んでいたもう一人も、掴んだ腕を振り切るように離し舌打ちと共に逃げ去っていった。
衛藤と香穂子だけが残され、駅前が再び静けさを取り戻すと、固唾を呑んで遠くから成り行きを見守っていた不土地阿智も、何事も無かったように動き始めた。ほっと安堵の吐息を深く零す衛藤が、腕をさする香穂子に気付くと、心配そうな眼差しを向けてそっと腕を掴んだ。
一瞬掴まれた跡がうっすら赤く残った手首を、癒すように優しく撫でさすれば、手の感触と心に流れ込む温かさに、じっと身を任せる香穂子の頬も赤く染まってゆく。
「怪我ないか? 腕掴まれたところ、平気か?」
「うん、ちょっと赤くなったけど大丈夫。ヴァイオリンには影響ないから安心してね。それと、助けてくれてありがとう。衛藤くんが助けてくれなかったら、ナンパの人に攫われるところだったよ」
「あんた本当に隙だらけだな、もっと警戒心を持てよ。危なっかしくて目が離せないぜ。珍しく待ち合わせに早く着いたと思ったら、ナンパ男に絡まれてるし・・・。」
「ごっ、ごめんなさい・・・。鏡を見ながら身だしなみを整えるのに夢中で、周りが見えなかったの。大好きな人も前では、いつでも可愛くしていたいの。衛藤くんに合う前にね、よーし今日も可愛いぞって、自分に魔法をかけていたんだよ」
「で、遠くから手を振って呼びかけた俺にも、気付かなかったって訳か」
その驚いた顔は今初めて知ったって顔だな、全くあんたは・・・。申し訳なさそうに謝りながら瞳を潤ませる香穂子が、手鏡をきゅっと握り締めていた。いいよもう、無事だったんだし。待ち合わせに遅れなかったといえども、あんたを先に待たせた俺も悪いから・・・。もう少し早く来ていたら、ちゃんと守れていたのにな。撫でさすっていた腕を解き放ち、拳を握り締めながら悔しい思いを吐き出せば、今度は俺の手を優しく包むんだ。
心配させないよう精一杯の笑顔で、ありがとうと甘い吐息で見つめる笑顔。さっき俺が撫でさすった腕は、まだ微かに震えていた。怖かった気持を押さえながら、それでもあんたは俺を心配して元気づけてくれるんだな。
「でも、早く来て俺を待つなんて珍しいじゃん。俺に会いたくて、待ちきれなかったんだろ」
「うん! 今日こそは衛藤くんよりも早く待ち合わせに来て、とびきりの笑顔で迎えようって思ってたのに・・・。びっくり企画は失敗しちゃった、また迷惑かけちゃったもん」
「迷惑だなんて、俺は思ってないぜ。驚かすって事なら成功したんじゃない? 俺、心臓壊れるかと思った」
「驚かす? ナンパな人が絡んできたから?」
「それもあるけど、もっと別の事。今日の香穂子・・・可愛い」
「え? 衛藤くん、今なんて言ったの? 大きなトラックが通り過ぎて聞こえなかったの」
渾身の想いを込めた衛藤の告白も、タイミングが良いのか悪いのか、邪魔が入ってしまい香穂子には届かなかったらしい。きょとんと目を丸くしながら手の平を耳に当て、聞こえなかったからもう一度と愛の言葉をねだってくる。知っててやってる・・・訳ないよな。子供みたく素直な香穂子は、聞こえていたら、恥ずかしさのあまり絶対に真っ赤に染まっているから。
行き場のないもどかしさを押さえるために、瞳を閉じて深呼吸する衛藤に、怒ったの?と戸惑う香穂子が心配そうな眼差しでふり仰いでいる。怒ったんじゃない、あんたが鈍いからじれったいだけ。いや・・・求める気持が先走りすぎて、自分が追いつかないだけなんだ。
「香穂子は、会うたびに印象が違うな。同じ表情は一つもなくて、俺の中に新しいあんたが増えていく。俺の為にどんどん可愛くなるあんたを、もっと見せていくれよな。いいだろう?」
「え、衛藤くん・・・・!」
「褒めたんだぜ、真っ赤になって照れるなよ。もう一度聞きたいって言ったの香穂子だろ。つまり俺がさっき言いかけたのは・・・つまり、あんたが好きだって事」
ふわりと揺れる大きなリボンと、インナーのレースキャミソールが胸元を飾る、夏らしいノースリーブのワンピース。白い雲のようにふわふわのシフォン生地は、光に当たると身体のラインまで透けてしまいそうで、目のやり場に困るんだよ。おまけにスカート丈、太腿の真ん中より上って・・・短すぎだっての。落ち着き無くそわそわ身動ぐ度にスカートの裾が揺れるから、しなやかな脚の秘めた内側に視線が吸い寄せられそうになる。
「香穂子、ほら・・・手」
「手? 衛藤くんの手、大きいね。やっぱり男の人の手だなって思うの」
「違う! 手を繋げって言ってんだよ。俺に全部言わせるつもり? 今日の香穂子、なんていうかその・・・可愛い。この前とは口紅変えただろう? あんたに似合ってるって思うぜ、キス・・・したくなるくらいに。一人で歩かせると、他のヤツに攫われそうだから、俺がしっかり繋いでてやる」
「うん、ありがとう衛藤くん! へへっ、嬉しいな」
ほんのり頬を染めた衛藤が差し出す手に、目を丸くする香穂子がふわりと微笑み、そっと重ねて握り締める。指先を絡めれば一度に5回手を繋げるでしょう?と、そう言って手を握り締めるだけではなく、指先の一本一本までをしっかり絡め合わせて。好きだから触れたくなる、気持も一緒に。
少しだけくすぐったい笑顔とと心を一つに重ねた、この手と指先を、離したくはない。
だから・・・俺が、ずっと繋いでてやるよ。
「さっきの衛藤くん、格好良かったなぁ。俺の女に手を出すなって・・・助けに来てくれた瞬間に、ぱぁっと光が差し込んだ気持は、絶対に忘れないよ。心に真っ直ぐ届いた言葉がね、すごく嬉しくてまだ興奮にドキドキしているの」
「俺に惚れ直しただろう? いいぜ、惚れても」
「何度でも衛藤くんに恋しちゃうよ。でね、何度でも大好き!って言うの。ねぇ衛藤くん、胸がキュンとときめくあの台詞、もう一度聞きたいな・・・手を離せ、俺の女に気安く触るなってやつ」
真っ赤に照れて口籠もると思っていたのに、予想もしないところで素直なんだな。あんたって心に素直で純粋で・・・可愛。俺に惚れてもいいぜと言いながら、可愛いと・・・そう惚れ直すのは俺の方じゃん。心と身体の全てであんたを求めているって事。繋いだ手を揺さぶりながら、アンコールを求める香穂子の満面な笑顔に、汗ばみ熱さが募る
勢い素直な気持ちとはいえ、改めて思い返すと、ドラマみたいな自分の台詞が恥ずかしい。この状況でもう一度言えるわけ、無いだろう? でもあんたが聞きたいのなら、何度でも聞かせてやるよ。
歩き始めた駅前を抜けきらないところで立ち止まり、人混みの中で繋いだ香穂子の腕を引き寄せる。反動で胸に飛び込む身体を抱き締めると、胸に鼻を打ち付けた香穂子が、痛い!と涙目になりながらむっとふり仰いだ。ぷぅっと膨らませる頬も、尖らせた唇も拗ねた眼差しも予想通りで。本当、子供みたいに素直で可愛いな・・・あんた。
あんたは俺の女だ、心も音楽もこの身体も・・・他のヤツには誰にも渡さない。
腕の中で囁いた言葉と、ただ一人を映す眼差しに自信が漲っていても、唇は心のままを届けるんだよな。
優しさと愛しさと、まだほんの少しぎこちなさを残した衛藤の唇が、ピンクルージュが艶めく香穂子の唇へそっと重なった。言っておくけど、俺だって恥ずかしいんだぜ。でもこれで、あんたは俺のものだって、みんなに知らせることが出来ただろう?