オレンジの陽



薄暗くなり始めた部屋に気づき読んでいた本を閉じると、ほのかに残す明かりを求め脚は自然と窓辺に向かう。
一日の仕事を終えた太陽がオレンジ色に空を包み、街並みは黒いシルエットとなって浮かび上がっている。石造りのゴシック建築も近代的な建物も、迫り来る夜の前では誰もが平等だ。絵の具を溶いて混ぜたような不思議な色合いを音楽に例えたら、空が奏でるアンサンブルのハーモニーだろうか。

星を引き連れた夕闇にゆっくり飲み込まれながら、青からオレンジ、そして星が輝く藍色の帳へ・・・。目まぐるしく変化する空色は、くるくる表情を変える君のようだな。外に広がる空に魅入っていると、小さな温もりが甘えるようにコツンと重みを預けてくる。微笑むむ瞳のまま肩を抱き寄せると、いつの間にか隣に並ぶ香穂子が待ち構えたように、わくわくと瞳を輝かせながら俺を振り仰いでいた。頬が緩んでしまう愛らしい仕草は、出かけようと誘う彼女のおねだりだ。


この街では明るく陽射しが照らす昼間だけでなく、夕陽の赤へに誘われるように、多くの人が散策へと繰り出している。目指す場所は皆同じで湖や大きな運河沿いなど、水のある場所が殆どだ。二人で語らう時間を大切にするために、互いへ向き合うために・・・俺たちも散策は日課になっていた。明るく陽射しが照らす昼間も良いけれど、夕暮れ時の方が愛しさが高まり、お互いを近くに感じる事が出来ると思う。


窓の外に広がる優しい夕陽が、おいでと俺たちを誘っている。
さぁ散歩の時間だ、俺たちも出かけようか。




薄闇のせいで表情が見えにくくなるから、どこにいるのかと不安にならないように、繋ぐ手も指先からしっかり絡めあう。昼間は元気良く駆け回ってしまう香穂子も、夕暮れ時の散策では離れないように、しっかり寄り添ってくれる。
ゆっくりと歩みを揃えながら語り合い、互いに向き合う時間を大切にするひと時・・・。

今日も立ち寄った運河沿いのベンチに香穂子と二人肩を寄せ合いながら、どれくらい時間が過ぎたのだろうか。ヨーロッパの国々を流れる雄大な河が目の前に広がり、遠い対岸の景色が薄闇に溶け込んでいる。見上げる空に歩くオレンジ色の羊雲たちに、どこへ行くのかと語りかけて、数を数える君が楽しそうだ。

沈みかける赤い太陽の輝きを映した水面は金色に染まり、秋の収穫で見かける郊外の田園風景を思わせる。水際に集う誰もが静かに寄り添い合い、空と水面が溶け合う金色の輝きを見つめていた。まさに夕陽から俺たちへの贈り物と言って良いだろう。夕暮れが運ぶ夜風が水面を凪ぐと、どこか懐かしい金色のさざ波を作り出す。


「練習帰りの放課後に君と寄り道をして、海が見える公園に行ったな。あの時もこうして肩を寄せ合いながらベンチに座り、星が瞬くまで金色に染まる海を眺めていたのを思い出す。もっと一緒にいたいと思う離れがたさから、日々の寄り道は日課になっていたな」
「ふふっ、懐かしいね。蓮と一緒にいると、あっという間に時間が過ぎちゃうの。話しに夢中になっていたら、いつの間にか夕陽が沈んで周りが真っ暗だったりしたよね。夕暮れのお散歩が楽しいのは、昔も今も同じだよ」
「香穂子、寒くは無いか? 日が暮れてだいぶ風が冷たくなってきた。もう少し、こちらへこないか?」


コクンと頷きふわりと微笑む香穂子の頬が、夕陽を浴びて赤く染まっていた。いそいそと座る距離を詰めてきた彼女の肩を、そっと包み抱き寄せる。自分の居場所は俺だと伝えるように、安心しきった様子で身体を預ける温もりが愛しい。ちょこんと振り仰ぎ、蓮も暖かい?と訪ねる彼女に礼をいうと、嬉しそうに笑みを浮かべ更に身体を添わせてくる。俺を温めようとしてくれる香穂子の優しさが嬉しくて、心の中からじんわりと広がるようだ。


学校帰りに二人で寄り道したときは、夕暮れが運ぶ冷たい夜風を凌ごうと、温かい缶入りの紅茶やココアを買っていたな。最初は熱かったのに、時間が経ちすっかり冷めてしまった缶を手の中に包みながら、これでは意味をなさないなと苦笑したのは毎度の事だ。だが冷くなった缶の紅茶を飲んでも、不思議と心の中は温かいままだったのを覚えている。

明日天気になぁれと楽しげに歌う香穂子は、大きく真っ赤な夕陽を見つめていた。黄金色に輝く夕陽の海が見せる懐かしい思い出と同じように、今確かな存在として腕の中にいる君も変わらぬ笑顔で。


「明日って、お日様が明るいって書くんだよ。夕陽がとっても赤くて大きから、明日は天気だと嬉しいよね。ねぇどうして夕陽は大きいんだろうね。昼間明るく照らしているときには高くて遠いのに、夕方になるとぐっと近くに迫って赤く染まるんだもの。何だかね、こうして蓮の顔を近くで見た時に、ドキドキする私に似ているなって思ったの」
「夕陽が大きいのは諸説いろいろあるようだが、これといった決め手はないようだな。ひと時太陽が隠れても俺たちが寂しくないように・・・また明日会おうと、精一杯想いの言葉を伝えてくれているのだと俺は思う」


互いに言葉も無く、ただ寄り添い合う温もりや呼吸を感じながら、オレンジから夕闇へと変わる空を眺めていた。心の強く焼きつく夕陽の赤い空模様は、時間にするとほんのひと時だ。気を緩め油断をしていると、あっという間に夜の闇へと変わるから、感じた想いごとこの一瞬を逃さず二人で胸に刻もう。


だが重なる沈黙が恋しさを募らせ、隣に座る香穂子を見れば、ほぼ同時に彼女も俺を振り仰ぐ。不安そうに揺らいぐ瞳は、迷子の子供のように泣き出しそうだ。膝の上で重ねた手を握り締めながら微笑めば、瞳を緩ませ安堵の吐息をほっと零した。


「蓮・・・良かった、ここにいたんだね。いなくなったかと思っちゃったよ」
「どうした、香穂子? 大丈夫、俺はここにいるだろう?」
「うん、そうだよね。へへっ・・・心配させてごめんね」


肩を竦ませつつ小さく舌を覗かせる香穂子は、薄闇にも分かるほど、恥しそうに頬を赤く染めていた。
自然のままを残す公園や運河沿いには、派手なネオンサインも無く、ほのかな明かりを点々と灯すだけ。夜でも明るい日本では夜景を眺める事が出来るが、夜は暗いものと割り切るヨーロッパの闇は黒く深い。

さっきまでは隣に座る香穂子の顔がはっきり見えていたのに、薄闇に包まれる今は視界が慣れず、微かに表情が伺えるだけ。確かな存在として側にいるのに、どこか遠くへ行ってしまうような・・・押し寄せる闇に飲み込まれ消えてしまうような込み上げてくる。きっと彼女も感じたのだろう、どこにいるのかと探したくなる程の不安や寂しさを。


「さっきまで明るかったのに、急に日が沈んで暗くなったでしょう? 周りの景色だけじゃなくて、暗闇に包まれてゆく蓮が見えにくくなったから、一人ぽっちになったかと思って不安になったの。蓮はどこ?って駆け出しだかった・・・そんな事無いのにね。夕暮れって暖かいけど、時には何だか寂しくなるの」
「こうして一緒に過ごせる日々が幸せだから、ふとした拍子に留学して離れていた頃を思い出し、不安になるのかも知れないな。だがさっきも言っただろう、俺はここにいる・・・香穂子の目の前に」
「うん、そうだね。ねぇ蓮、あの・・・ね。星が出るまで、もう少しこうして私の手を握っていて欲しいな。蓮が側にいる事を、感じさせて欲しいの」
「あぁ、分かった」


切なげに熱く見つめる瞳に引寄せられ、反らせる事が出来ない。赤く色付き大きな姿を見せる夕陽のように、心にある君への想いも膨らんでゆく。無意識に引寄せ合う顔が近付くと、鼻先を掠めた感触で我に返った。驚きを瞳で語り合うが、身体は離さず吐息を感じる近さのまま。照れ隠しに小さく微笑みを交わすと、そのまま掠めるだけのキスを唇に重ねた。


星奏学院の制服を着てヴァイオリンケースを持っていた頃の君と俺は、どちらとも無く慌てて身体を離してしまったな。俺は激しく踊る鼓動を抑えながら視線を反らし、紅茶の缶を口に運び一気に飲み干す。両手に缶をきゅっと握り締める君の顔も真っ赤に染まり、同じように唇を寄せていた。二人で冷めてしまった缶の紅茶を、なぜか熱いねとそう言いながら、意識は互いへと向かいちらりと横目で様子を伺って・・・。

君との道はゆっくりと歩めばいい・・・と、照れ臭さが勝っていたあの時の俺たち。本当は触れたくても触れる事が出来なかったもどかしさも、閉じた瞼の裏に映す金色の水面に甘く溶け込んでゆく。触れ合う唇が叶った願いと、君と紡いできた想いの深さを教えてくれた。


ゆっくりと唇を離せば、ほうっと甘い溜息を吐く香穂子の頬が、夕焼けの赤さを映している。ならば込み上げた熱さが頬へ集まる俺の頬も、空の端に沈もうとしている太陽のように染まっているのかも知れない。





香穂子、君が好きだ・・・。
心に生まれた囁きは、小さな輝きになり空へと吸い込まれる。


君の事を考えたり笑顔を思い浮かべたりすると、俺の中へ優しい温かさが満ちてくる。この胸に湧き上がるものが、愛しく大切に思う気持なのだと、そう気づいたのはいつだったろうか。ヴァイオリンの弦に乗せる音色だけではなく、言葉でも伝えたい。真っ直ぐ心へ届く君の音色と同じように、見つめる大きな瞳に俺だけを映す君へ。


「好きだよ、蓮が大好き・・・」


頬を染めはにかむ香穂子も、自分へも言い聞かせるように噛み締め、心にある想いを何度も伝えてくれる。そのたびに言葉は水となって俺へと染み込み、二つのものがゆっくり混ざり合う心地良い感覚に包まれた。熱さは力を生み出し、君の事も俺自身も大切に思えてくる。

言葉ではたった二文字なのに、心の中では何度も唱えているのに。口に出して伝える事はなぜこんなにも難しいのだろう。心の底から込み上げる熱い想いが、唇の堰を切って君へ向かおうとしているのに、あと一歩のところで留まってしまう。温もりに溶け合う甘い痺れを感じながらも、もどかしい葛藤が渦を巻くんだ。


心が揺れる、黄昏時の空模様。
まるで水平線に溶け込むオレンジの太陽のように、熱く優しく。


膝の上で握り締めたままの手に力を込めると、身体を捻って向かい合い、そっと背を攫って抱き締めた。身を屈めて鼻先を寄せると、驚きに目を丸くする香穂子の表情が、夜目にもはっきりと見えた。


「蓮・・・あの、えっと・・・」
「君が不安にならないよう、いつでも瞳に映るところにいようと思ったんだ。これくらいの近さなら、薄闇の中でも俺が見えるだろうか」
「う〜ん、もうちょっとかな? もう少し近い方が嬉しいな」
「これくらいか?」
「うん・・・そう、そのまま。蓮と私の唇が、チュッとくっつくくらいにね」


触れ合う吐息を交し合いながら、ゆっくり少しずつ顔を近づけると、合図のように香穂子が瞳を閉じた。
オレンジの夕陽が街を包むのなら、俺は夕陽ごと君の全てを抱き締め包み込もう・・・この唇に想いを乗せて。


金色に輝きいていた水面や夕陽のオレンジ色は、深さを増してゆく藍色の夜空に溶け込んでゆくけれども。君や俺の心を、温かく鮮やかに染め上げてくれた。想いを重ねて間もなかった俺たちも、道を寄り添わせ共に歩むようになった俺たちも、夕陽は見守ってくれていたんだな。


キスを重ねる視界の端には、優しい横顔の月が浮かんでいる。
最後に残るオレンジ色の一滴が星の煌きとなり、光りを放つまであともう少し・・・俺たちの心にも。