Innocent Orange



10月の最終土曜日になるとヨーロッパは夏時間が終わり、長い夜と冬の始まりである冬時間に切り替わる。夏は夜9時頃まで明るいが、冬になれば朝は9時前まで暗く、午後は早いうちから太陽の力が弱まってしまう。大陸性の気候であるウイーンの天気は気まぐれで、夏でも冬のように寒くなるときがあれば、冬でも夏のように暖かい日になるときもある。雪はめったに降らないから積雪も数センチ積もれば多い方だが、雨は凍えるほど冷たく寒さは厳しい。閉ざされた家の中で過ごすしかできない、長く暗い冬というイメージそのものだと言っても良いだろう。


ヨーロッパの冬が厳しいものであるほど、暮らす人々にとって暖かい光をもたらしてくれるのが、この先にやってくる楽しいイベントの数々。10月の終わりに冬時間に代わり、すぐにやってくるのがハロウィンだ。

元はケルト人の風習である収穫祭と、死者の霊が戻る年末の信仰が由来だったな。広くヨーロッパで行われている訳ではないが、アメリカの文化が流れ込むこちらのハロウィンの楽しみ方は、日本と変わりはない。
顔が描かれたカボチャもあるし、仮装した子供達がお菓子を求めて家を訪ね歩く。


日本にいる時からハロウィンが大好きだった香穂子は、生活の拠点を移したウイーンや隣国ドイツでもハロウィンがある事に喜び、オレンジ色とカボチャに目を輝かせている。もっとも彼女の場合は、みんなで楽しく仮装が出来てお菓子が食べられるから・・・というのが好きな理由らしいが。愛嬌たっぷりな表情をしたカボチャや花を部屋の中へ飾ったり、家を訪ねてくる子供達の為に配る菓子を焼いたりと、特別な一日に向けての準備を楽しんでいた。


「じゃぁ行ってきます! 蓮にお留守番お願いしてごめんね。いつもお邪魔するご近所だし、すぐ戻るから心配しないでね。あ! 私が出かけている間にもしも仮装した子供達が来たら、この籠に入っているかぼちゃのクッキーを渡して欲しいな。蓮の分もあるから、帰ったら一緒に食べようね」
「俺の分もあるのか、ありがとう。これを一人に一包みを渡せばいいんだな。だが香穂子・・・本当に行くのか?」
「もちろんだよ、だって凄く楽しみにしてたんだもの。いつもお茶に招いてくれるご近所の奥様がね、ハロウィンのパーティーに招待してくれたの。みんなで手作りのお菓子を持ち寄って、仮装しましょうって事になったんだよ」
「気分が高揚する仮装パーティーに、香穂子が一人なのが心配なんだ・・・」
「大丈夫だよ、今日は女性だけの集まりだから心配しないでね。蓮と一緒が良いけれど、男性が蓮一人だと、逆に私が焼きもちで心配になっちゃうよ。基本はみんなで楽しむお茶とおしゃべりだから、アルコールは無いと思うの」
「なら、いいんだが・・・。何かあったら連絡してくれ、すぐ迎えに行くから」


大きな荷物を抱えた香穂子を玄関で見送ると、これをお願いねと籐の籠に入った色とりどりの包みを託された。デフォルメされた可愛らしいカボチャ柄セロファン紙と、艶やかな黒のリボン。ラッピングされた甘い焼きたての香りは、先ほどまで作っていたカボチャのクッキーだ。抱き締める籠から伝わる温もりが、大切な子供のように愛しいのは、手先が不器用な俺も手伝った二人の共同作品だからだろうな。


異国で出来た友人たちに誘われた香穂子は、親しい友人達とハロウィンの仮装パーティーをする為に、近くの家に出かけてゆく所だ。張り切って衣装や小物の準備をしていたが、当日までのお楽しみだと内緒にするから、香穂子がどんな格好をするのか俺は知らない。だが肩へ下げていた大きなショッピングバックから、黒い三角帽子やコウモリのステッキが見えていたから、何となく想像は付くけれど。気になって視線を送る俺に気付き、慌てて袋を隠し見ては駄目だと頬を膨らませてしまった。


作業や衣装合わせをする間は、いつも俺は部屋から追い出されてしまったんだ。見ては駄目だと言われると、余計に見たくなるのが人間の心理というものだろう? それに仮装をした君は可愛いだろうから、きっと男性女性を問わず視線を引き寄せると思うから。どうしても行くのかと・・・不安に眉を寄せて見送る俺の頬を優しく包む君が、背伸びをしながら唇へ届けてくれたのは、行ってきますの甘く優しいキス。帰ったら二人だけでパーティーをしようねと、微笑む君を今は信じよう。


俺には何度目かの冬が始まるが、香穂子にとっては初めて長期で経験する冬の始まり。やってくる冬の憂鬱さよりも、今年は楽しみの方が遙かに大きいのは、君がいるからだろうな。厚い鈍色の雲の彼方に隠れてしまった太陽は、君という大切な人へ姿を変えて俺の傍にいる・・・。僅かな日だまりに香穂子の微笑みを求めていた、留学中の寒さが身体に染みついているからこそ、いつも傍にある俺だけの太陽に感謝せずにはいられない。







読書の合間に玄関のチャイムが鳴り響けば、出かけた香穂子が帰ってきたのではと、期待を膨らませながら出迎える足取りも自然と速くなる。しかしドアの覗き窓から外を伺うと、待っていたのは手作りの仮装で菓子をねだりに来た、小さなお化けや魔女たち。驚きと苦笑を押さえてから玄関の扉を開けて、近所の子供たちに香穂子が作ったクッキーの小袋を手渡した。待ちきれない想いを押さえきれないこの数時間で、同じ事をもう何度繰り返しただろうか。


ありがとうの言葉と心からの笑顔を残して去ってゆく、小さなお化けや魔女たちを見送ると、閉めた玄関ドアに背を預けて瞳を閉じた。見守る俺まで頬の緩む無垢な笑顔は、香穂子の手作り菓子に込められた想いが生んだもの。
だが嬉しさが温かさに変わる反面、水槽から溢れる寂しさが溜息となって溢れ、静かに冷えた空間へ吸い込まれてゆく。そうか・・・一人だから、君と一緒に楽しめないのが寂しいのかも知れないな。


早く帰ってきて欲しい、俺の元へ・・・。迎えに行こうと思ったが、ほんの数軒先にある顔馴染みの家だから、心配性とか過保護だと笑われてしまうだろうか。それでも構わない、君に一刻も早く会えるのなら。香穂子を思い浮かべながら唇に指先を這わせ、残してくれたキスの温もりを感じ取っていると、今日何度目かのチャイムが背中で鳴り響いた。もう菓子はないが、仮装した子供たちが訪ねてきたのだろうか? 


ドアに預けた背を起こし、覗き窓から何気なく確認した俺が、どれだけ驚いたか君は知らないだろうな。
扉越しでも俺が見つめていると分かっているように、視線を合わせる香穂子が、小さな覗き窓いっぱいに大きく飛び込んできたから。声は届かないが唇の動きで「ただいま」と、見えない言葉を伝えながら笑顔で手を振っている。


ドアの鍵が開く金属音は玄関のドアだけでなく、君を迎えるために開いた俺の心の鍵の音でもあるんだ。重厚な木の扉を開く僅かな間も互いにもどかしく、待ちきれない香穂子が隙間からひょいと顔を覗かせた。不思議だな、先ほどまでは黒に包まれていた心が、いつの間にか明るいオレンジ色に包まれている。真っ直ぐ見つめる君の瞳に、笑顔の俺が映っているんだ。

心に映るオレンジ色が、今目の前に広がり君を鮮やかに彩っている・・・オレンジ色!?


「蓮、ただいま〜! ハッピーハロウィン!」
「かっ・・・香穂子、その格好はどうしたんだ。まさか、仮装のドレスを着たまま帰ってきたのか!?」
「うん! 蓮をびっくりさせようと思って、そのまま帰って着ちゃった。でも心配しないでね、玄関まではロングのコートを上に羽織ってきたから。脱いだコートは着替えと一緒に、手提げ鞄の中にしまってあるの。玄関のチャイムを鳴らす前にね、三角帽子を被ったりちょっと支度したんだよ。どう?可愛い? 今日の私は魔女っ子香穂ちゃんなの」
「魔女っ子・・・香穂ちゃん?」


ただいまと、そういって微笑んだ君が瞳を閉じて上を向くのは、俺たちに欠かせない毎日の挨拶であり、密かなおねだり。差し出された赤い花の唇に、お帰りのキスを届けよう・・・愛しい想いを込めて。


驚きに目を見開く俺は彼女の予想通りだったのか、それともパーティーの興奮が冷めやらないのか。うん!と元気良く頷くと、すっかり魔女になりきる香穂子は、コウモリの羽が付いた黒のステッキをくるりと振り回しご機嫌だ。
黒の三角帽子にはオレンジ色の羽が飾られ、大きくデコルテを出した黒とオレンジ色のミニワンピース。オレンジの生地に黒糸で編み込まれた胸元が視線を引き寄せるから、綺麗に浮き出た鎖骨や、ちらりと覗く胸の膨らみが気になって仕方がない。


黒やオレンジのオーガンジーレースが、花びらのように重ねられたスカートは、動く度にふわふわ舞広がってしまうから・・・その、あまり動かないでもらえると嬉しいんだが。ただでさえ丈が短いのに柔らかな透ける裾が広がれば、惜しげもなく晒された脚やその先に視線が吸い寄せられてしまうじゃないか。

どうかな?と愛らしく小首を傾げながら、太腿の中程までしかない短い裾を、ちょこんと摘む仕草が堪らなく愛らしい。いや・・・可愛らしすぎて反則だ。君は魔女だと言うけれど、俺には甘く誘う小悪魔に思えてならない。



「トリック・オア・トリート!」
「・・・はっ!?」
「ハロウィンには仮装をしてお菓子をもらうんだよ、私が苦手な悪いお化けを追い払うの。私も蓮がくれる甘いお菓子が欲しいな。お菓子をくれなくちゃ悪戯しちゃうぞ〜」
「すまない・・・その、香穂子に渡す菓子が無いんだ。君が作ったカボチャのクッキーは全部、訪ねてきた子供達に全部配ってしまった。カボチャやコウモリ形の手作りクッキーを手にした、嬉しそうな笑顔を君にも見せたかった」
「私だけじゃなくて、蓮が渡してくれたからんだと思うの・・・ありがとう。ヨーロッパのハロウィンは初めてだから緊張したけど、みんなに喜んでもらえてすごく嬉しいよね。私も手渡したかったなぁ・・・でも、そっか、もう無いんだね。じゃぁお菓子が無いのなら、悪戯しなくちゃ。これから魔女っ子香穂ちゃんが、蓮に魔法をかけたいと思います!」
「はっ!? ちょっと待ってくれ、何をするつもりだ」
「く〜るくるりん☆ 蓮が黒猫さんになっちゃえ〜」


魔法と聞くと懐かしい学院にいる、音楽の妖精を思い出す。彼らのように無邪気な香穂子が、本当に魔法を使うのではと一瞬思えてしまい、くるくると楽しげに振り回すステッキを掴み押さえてしまった。魔法を止められてしまいむっと頬を膨らませたが、にこりと悪戯な笑みを瞳に浮かべると、ステッキを手から離してしゃがみ込んだ。


一体何をするのだろうか・・・交錯する期待と不安が鼓動を高鳴らせる。着替えを入れていた手提げ袋から何かを探し出すと後ろ手に隠して忍びより、無防備な懐へぴょんと飛びついてきた。俺を猫にしようとする君も、まるで子猫だな。逃げるまもなく柔らかな身体を抱き締め、よろけそうになる自分を支えながら閉じ込めれば、背伸びをする香穂子が何かを俺の頭にはめてくる。


達成感溢れる爽やかな君が見つめる笑顔に、しまった・・・と思ったときには既に遅く、頭に触れた飾りはカチューシャだと分かった。しかも何かフワフワしたものが二つ付いているぞ。この小さな柔らかい三角は、もしや・・・見たいような見たくないような。勇気を振り絞り、そっと玄関に備え付けてある姿見を見れば、予想通り俺の髪には黒い猫の耳が付いていた。


「きゃ〜蓮が猫さんだよ! 猫の耳がふさふさして可愛いね。黒いマントでドラキュラも良いかなと思ったけど、蓮はやっぱり黒猫さんだなって思ったの。だっていつも私の唇やほっぺを、ぺろって舐めるんだもの」
「・・・っ、香穂子。どういう事だこれは!」
「あっ嫌っ! せっかく似合っているのに、猫のお耳カチューシャを取っちゃ駄目。これからは蓮と二人でハロウィンパーティーが始まりだよ。二人なら楽しさも二倍に膨らむと思うの、だから蓮も何か仮装をしようよ。魔女といえば黒猫さんでしょう? ヴァイオリンや私たちみたいに二つで一つなの」
「魔女になった香穂子は可愛いと思う、とても魅力的だ。だが俺は別に、このままでも良いから」
「そんな事言わないで、せめてお耳だけでも、ね? 黒猫の蓮はとっても可愛い・・・じゃなくて素敵だよ。お膝で抱き締めながら、ペロって舐められたくなるくらいに。クリスマスみたいにハロウィンも、大切な人と過ごすイベントになればいいなって思うの。蓮と過ごす毎日は、特別な日もそうでない日も全部が特別だから」
「・・・・・・・」


猫の耳が似合うと言われても照れ臭くて、素直に喜べないのが正直な気持ちだ。小さく零れた溜息の行き先は、鏡に映った自分を直視できず、駄目だと君が止めるのも聞かず思わず外してしまった、黒猫の柔らかな耳がついたカチューシャ。黒のステッキを強く握り締めながら唇を噛みしめ、悲しそうな瞳で俺の手の中を見つめる香穂子に胸が痛む。香穂子を傷つけてしまったのは、俺なんだ・・・君は俺を喜ばそうとして、一生懸命だったのに。


食事や散歩、二人だけの小さなパーティーや演奏会まで、君は一緒に楽しめるいろいろな事を用意して、俺に喜びと笑顔をくれる。俺一人では行けなかった、新しい世界に誘い出してくれるんだ。密かに用意をしながら君の中に、いつも俺がいる証だから、嬉しいと喜ぶ俺に浮かべる君の笑顔が一番の贈り物。先ほど耳を付けた後に、可愛いねと浮かべた笑顔と瞳は、邪気のない純粋な輝きだったな。


仮装をして訪ねてくる子供達に菓子を渡し、君を一人待っていた時間を忘れてはいけない。どんな楽しみも美味しい料理も一人では意味がない。大切な君と過ごし思い出を共有するからこそ、特別な日はもっと特別に、ささやかな普段の日も特別に変わるのだと思う。


手の中にある黒いカチューシャをじっと見つめ、大きく息を吸い込もう。香穂子の笑顔が見たいから、猫になるんだと自分に言い聞かせ、視界の隅に映る鏡は極力見ないように。顔に込み上げる熱さを理性で必死に押さえながら、猫の耳を再び付けた俺に、香穂子は驚きと嬉しさの混ざる表情で目を見開いた。


「蓮、黒猫さんのお耳・・・付けてくれるの?」
「今夜はハロウィンパーティーをするんだろう? 君と俺の二人だけで。ただし猫の耳だけで勘弁して欲しい・・・照れ臭いんだ」
「ありがとう、蓮! ふふっ、可愛いな〜後で写真も撮ろうね。さっきお菓子を持っていないって言ったでしょう? 蓮が作って私だけが食べられる、見えないお菓子がちゃんとあるじゃない。あの・・・ね、蓮が食べさせてくれる、口の中も心も身体も全部がふんわり蕩けちゃう、とびっきり甘いお菓子が食べたいな」


頬を桃色に染める香穂子は、もじもじとステッキを弄りながら、上目遣いにじっと見つめてくる。俺が弱いと知っているのか、何かをねだるときに注がれる、甘えるような君の視線は恋の魔法。では共に、オレンジ色の甘い菓子を食べようか。

柔らかな素肌をそっと抱き締めて、むき出した白い首筋に唇を這わせキスを贈ろう。身じろぐ身体を閉じ込めながら唇を添わせた首筋を上へと辿り、小さく出した舌で耳朶を甘く舐めた。魔女の三角帽子にぶつからないように、身を屈めてキスをすると、玄関に佇んだままの香穂子を抱き上げ家の中へ・・・。


「きゃっ! ちょっと蓮ってば何するの、下ろして〜」
「猫の俺は君を舐めても良いのだろう? 魔女になった香穂子の魔法にかかるのも、悪くはないな。今宵一晩は君だけの黒猫になろう」


ミニドレスの裾がまくれ上がらないよう、必死に手で裾を押さえる香穂子に微笑むと、抱き上げたまま軽く触れるだけのキスで言葉を塞ぐ。離れる間際に唇を悪戯に舐めた俺に、頭一つ分高い場所から見下ろす香穂子の顔が、優しい桃色から熟れた林檎の赤へと変わっていった。落ちないように首へ腕を回し、きゅっとしがみついた強さは、君が俺の魔法に掛かかった合図だ。


ハロウィンにはお化けや魔女に仮装した子供達が、菓子をねだりに家を訪ねるが、最後に訪れたのはもう一人・・・待ち望んでいた大切な君。俺だけの愛らしい魔女が、甘い菓子を求めにやってきたようだな。


街を彩る鮮やかなオレンジ色に包まれると、寒さに沈みがちな心が不思議と明るく浮き立ってくる。寒さと暗さを吹き飛ばすように街を染めるオレンジ色は、太陽を求る人々の願いでもあるのだろう。心に栄養を与えてくれるビタミンカラーは、寒さが増した中でふと戻る温かさのような、無邪気な香穂子の笑顔に似ているからだと俺は思う。