俺だから気付くこと



香穂子と俺の癖や習慣だったり、音楽や物事の考え方は似ているようで違う。意識で理解したつもりだったのに、君の中で思っている当たり前と、俺の中にある当たり前が違うのだと、一緒に暮らし始めてから改めて気付くことがたくさんあった。だがどんなに譲れないことがあったとしても、好きな事や欲しいものはお互いに似てくるらしい。それは重なり合う音色と心が溶け合うように、君と俺が一つになった証なのだろう。


心をほどく寛ぎのひとときに、君と俺が欲しいものは同じ。例えば大切な人が心を込めて淹れてくれた紅茶と、穏やかな空間、そして身体を休めることのできる椅子など。お互い離れたソファーに座っていても、いつしか同じ場所へぴったり寄り添い、触れ合う肌から伝わる温もりを分かち合っていて。たった一つの椅子を求め、甘い駆け引きが行われるんだ。どんな家具も敵わない、そう・・・君と俺の膝は、お互いに欠かすことの出来ない大切な居場所だから。


心地良い居場所を見つけるのが得意な猫のように、ふと気付けば、気持ち良さそうな香穂子が俺の膝にいる事が多い。脚の間にすっぽり収まる身体を背後から包み込んだり、時には椅子に座る俺の首へ腕を回し、ちょこんと腰掛けてくる。

俺も香穂子の膝枕が欲しいから狙っているのだが、勝負の行方は彼女の方が優勢だろうか。頑張り屋で人に弱さ見せない君が、俺だけにと甘えてくれるのは嬉しい。それに自分の願いを叶えてもらうよりも、膝に丸くなる笑顔と俺だけの子猫を抱き締めるのが、堪らなく心地良く嬉しいのだと最近気付いたんだ。もちろん後でちゃんと、俺の願いも叶えてもらうけれど。


さぁ香穂子、こちらへおいで・・・俺の元へ。君が窓辺へ飾った花瓶に、二輪の花がキスをしながら寄り添うように。
俺たちも一緒に重なり合い、甘く優しい幸せを束ねよう。




日当たりの良い窓辺の床に出来た、光の泉に浮かぶのは、フローリングの床にペタリと座わり込み、ふわりと円形に広がるスカートの花。蓮の花のように、透明で清らかな光を重ねた花びらの中で、ゆらゆらと眠りの船を漕ぐのは香穂子だった。家の中を探したがどこにも見当たらないと思ったら、こんな所にいたんだな。隠れん坊をしていた彼女を見つけた安堵感、そしてすやすやとあどけない寝顔が俺を照らす日だまりになるから・・・君がくれる温もりについ頬が緩んでしまう。


手を触れたいけれど、このまま見守っていたい・・・。そんな神々しさを感じるのは、リビングの窓から差し込む光を受け止める肌が、透き通る白さを増しているからだろう。彼女が纏う空気や心のように清らかで、熱い想いに満ちた俺が触れたら、露のように消えてしまうのではと、そう思ってしまう程に。膝を折ってしゃがみ込めば、ブラウスの襟元から覗く白い素肌と、白さに浮き立つ鮮やかな赤い小花に吸い寄せられてしまった。

昨晩俺が香穂子に咲かせた恋の花。濃密に駆け抜けた甘い時間の証。見えない場所にと気を遣ったつもりだったが、着る服によっては見えてしまうのだな・・・気をつけなくてはいけないな。身体が火照り、熱さが頬へ込み上げるのは日だまりに蕩けたからではなく、静まったばかりの記憶が蘇ったからだと思う。


緩やかに漂うそよ風に乗り、香穂子が身に着ける軽いトワレの香りが鼻腔をくすぐる。つけたての爽やかな香りは穏やかな日だまりにふさわしく、夜に咲く艶やかさとは違う表情を見せていた。こうして見つめるうたた寝の寝顔も好きだが、腕の中で疲れ果てて眠る君の寝顔と香りが一番好きだとは、秘密にしておこうか。


遅くまで腕の中に抱き締めて離さなかったのに、香穂子は朝早くに起きて家の仕事をこなしていたな。もっとゆっくり休ませたいと願う俺の方が、君に起こされてしまうのだから困ったものだ。ずっと欲しかったもの・・・朝一番で迎えてくれる元気な笑顔と温かな朝食の香り、心の栄養であるおはようのキスと共に。明日こそは少し早起きして、俺から君におはようのキスを、目覚めた一番最初に贈ろう。

青から赤へゆっくり変わる夜明けの空へ、太陽が昇るように目覚める君を眺めたいから。


膝を折って座る俺が、目の前で寝顔を見つめているのだとは、気付いていないようだな。朝食の準備や片付け、掃除洗濯、花の手入れと慌ただしい波が過ぎ去り、ほっと一息ついたら眠気が襲ってきたのだろう。眠りの海を漂う月の船が大きく揺れて身体が傾くと、咄嗟に支えかけた俺の手をするりと抜け出し、何事もなかったようにふわりと起き上がってしまう。


倒れなくて良かった・・・君は眠っていても、目が離せないな。


苦笑に微笑みを溶け込ませながら見つめていると、再び大きく身体が揺れて、起き上がることも出来ずに倒れかける所を慌てて抱き留めた。ふわりと漂う香穂子の香りが俺を包み込み、甘い媚薬となって脳裏を霞ませる。このまま首筋へ顔を埋めたい衝動を紙一重で堪えると、背中に回された指先に微かな力が籠もるのを感じた。夢の中でも求めてくれている嬉しさに、愛しさが狂おしく胸を締めつける・・・触れてはいけないと押さえている想いが、溢れてしまいそうだ。


すっかり安心しきって身体の重みを預ける君は、無意識の中でも俺だと分かるのだろうか。寝椅子へ運ぼうかと思ったが、俺の膝枕が好きだと言っていたから、今ひとときは君だけの枕になろうか。起こさないようにそっと膝へ横たえると、傍にある温もりを求めてころりと寝返りを打ち、俺のシャツの裾へしがみついてきた。

不思議だな・・・あどけない無垢な寝顔を眺めていると、心が透明に澄み渡り、俺まで一緒に穏やかな気持になってくる。まるで香穂子が奏でる、優しいヴァイオリンの音色に満たされたように。俺も、心の弦と弓で共に奏でよう。


「・・・私、蓮のお膝が大好き!」
「香穂子? 起きているのか!?」
「ついさっき起きたんだよ。抱き留めてくれた時の温かさと、私を包む大好きな蓮の香りで目が覚めたの」


寝言かと思ったが、言葉の響きには確かな意志と命の響きがある。愛しい重みの乗った膝を見下ろせば、小さく赤い舌を覗かせる香穂子が、悪戯な瞳で俺を見上げていた。驚きに目を見開く俺に元気良く頷くと、膝枕にはしゃぎころころと何度も寝返りを打ちながら頬をすり寄せている。頭を乗せた脚をきゅっと掴む微かな指先の力さえも、理性を燃やす炎となるから・・・その、少しじっとしてくれると嬉しいんだが。


「やっぱり蓮の腕とか膝は寝心地が良くて大好きだな、とっても柔らかくて温かくて幸せなの」
「途中からとはいえ、眠ったふりをするなんてずるいぞ、香穂子。俺も君の膝枕が欲しい」
「だってあそこで起きたら、蓮のお膝に寝かせてもらえなかったかも知れないでしょう? ふふっ、お膝は早い者勝ちだもん。蓮は私が満喫した後でね〜」
「そう言っていつも君は、ぐっすり寝てしまうだろう? 膝枕どころか、結局ベッドへ運ぶのは俺の方だ」
「蓮だって、私を運んだ後でお膝以上の楽しみがあるじゃない。だから腕枕までしっかり蓮を堪能してから・・・ね?」
「・・・それは、そうだが・・・」
「ねっねっ、今度はお膝に座っても良い? 私ね、もっと蓮のお膝が欲しいの」


欲しいのだと甘く切なげな瞳に願われたら、俺が君に敵うわけがないだろう? 叶えずにはいられないのは、熱い夜の名残が染みついているからに違いない。仕方ないな・・・と香穂子の頬を包みながら、瞳を緩めれば、先ほどまで眠っていたのが嘘のようにひらりと身軽に起き上がり、ダイニングテーブルの椅子を一脚窓辺に運んできた。


俺たちを包む日だまりの泉に椅子を浮かべると、腰掛ける平らな面をポスポス叩き、さぁどうぞと俺を誘う喜びの笑顔。待ちきれない嬉しさを押さえきれずにいる、見えない心の手に急かれつつ、腕を引かれながら椅子へ座った。すると前に回り込み俺の首へ両腕を絡め、椅子に座った膝の上へちょこんと腰掛けてくる・・・そう、これが香穂子の大好きな指定席。

安定しない膝の上から君が落ちないように、俺は腰を攫い深く抱き締めるんだ。こうすると・・・ほら、身体を捻って向かい合う君とぴったり触れ合えるし、すぐ目の前にある唇といつでもキスをすることが出来るだろう? 無邪気に甘えているように見えるけれど、本当は腕の中へ迷い込んだ蝶になったのだと、そろそろ気付いて欲しい。だが君が駄目だと願っても、抱き締めたこの腕は、朝が来るまでもう離しはしないから。 


「蓮の脚の間に収まって、すっぽり背中から包まれるのも良いけれど、椅子に座る蓮のお膝に腰掛けるのも好きだな。だって向かい合うから顔が見えるし、視線が高くなるんだもの。蓮と同じ目の高さで世界が見渡せるなんて素敵だよね、たった数センチなのに世界が広がるんだよ。それに、背伸びをしなくてもキスがすぐに届くのも、嬉しいの」
「俺も、香穂子を膝に座らせるのは好きだ。落ちないように君を抱き締めていられるし、鼻先が触れ合う近さにいるから、手が塞がっていても額や頬で直接触れることも出来る。悪戯な小鳥が唇で啄むのを、受け止めるのも楽しい」


俺の両肩に手を置きながら自分の身体を支える香穂子は、片手を伸ばして俺の髪へと指先に絡めてくる。髪を撫で梳く心地良さに目を細めると、光を受け止める大きな瞳が俺を映し、コツンと額を触れ合わせてくる。吐息と一緒に互いの前髪を絡め合いながら額をすり寄せ合えば、くすくすと楽しげに笑う吐息が唇をくすぐった。


鼻先と鼻先をつんと触れ合わせるキスは、あと少しで届く唇へ恋しさが募る。君は楽しんでいるのだろうが、俺は焦らされているのだと知っているのだろうか。先を追い求めて身をよじれば、くすぐったそうに肩を竦める君の耳朶を甘く噛む。小さな甘い声を上げるとたちまち頬を桃色に染めてしまい、お返しとばかりに頬や鼻先、額に瞼にと・・・。愛らしくさえずる唇で何度もキスを啄むんだ。

膝に座って抱き締める近い距離だから、言葉無くとも交わし会えるキスとキスの会話。
シャワーのように降り注ぐ柔らかな温もりを、もっと受け止めていたい。微笑みを生むくすぐったさは心地良さに代わり、いつしか切なく眉根を寄せる熱さへと変わるから・・・無邪気な悪戯の時間はここまでだな。


「・・・っ、香穂子。くすぐったい・・・降参だ!」
「ふふっ、困ってる蓮なんて珍しい。いつもは私がもう駄目ってお願いしても、まだ平気だろうって止めてくれないのにね。昨夜のお返しに、もうちょっとだけキスでくすぐっちゃおうかな〜」
「香穂子・・・止めるんだ・・・でないと・・・」
「・・・っん・・・ふぅっ・・・」


片腕で抱き支えながら、もう片手で頭を抱えるように悪戯な君を捕らえると、真っ直ぐ瞳を射貫き、呼吸を奪うキスを重ねた。たっぷり啄んだキスの数に俺の想いを乗せて、一つに束ねた大きな花束を唇で君に贈ろう。しがみつく腕が苦しさを訴え、強く力が籠もるのを合図にゆっくり唇を離す。名残惜しい想いが銀の糸となって二つの舌を結び、切なく途切れれば、零れる吐息も奪いたくて・・・空気に溶け込む前に素早く触れるだけのキスを重ねた。


「もう〜蓮のいじわる・・・」
「香穂子が悪戯ばかりするからだろう? 欲しいものを目の前に晒されたまま焦らされては、俺だって我慢が出来なくなる」
「悪戯じゃないもん・・・嬉しかったんだもん。ほら、猫がお膝の上でじゃれるみたいに」


潤む瞳で拗ねながら俺の肩に頭を乗せ、くってりともたれかかってきた。息を整える香穂子の早い呼吸が耳元に吹きかかり、熱く胸を焦がしてゆく。瞳を閉じて深く息を吐き、紙一重の理性で自分を抑えながら、落ち着きを導くように指先を絡めた髪をゆっくりと撫で梳いた。意地悪・・・と上目遣いに見上げる響きは、大好きだと言う時と同じ優しい響きだと感じるから、ますます愛しさが募ってしまうんだ。

君が俺の膝に座ったまま、もうどれくらいの時間が過ぎただろうか。過ごす月日と想いを深く重ねるごとに、こうして座る君を抱き締める時間も長くなったと思う。恥じらいながら指先で微かに絡む互いの手が、やがてしっかり繋ぎ合い、やがて指先を絡めて握り締め合うように。


「どうしたの蓮、にこにこ楽しそうに微笑んで。あ! 何か素敵なことを考えているんでしょう? ねぇ教えて?」
「まだ俺たちが星奏学院に通い、香穂子とつきあい始めた頃を思いだしていたんだ。あの頃はまだ膝に座るのが慣れなくて、恋人の膝に憧れながらもお互い照れ臭くて。すぐ君が膝から転がり落ちてしまったな。今では長い間座っていられるようになったなと、そう思ったんだ。香穂子、座りにくくないか?」
「平気だよ、とっても座り心地が良いの。私が落ちないように、蓮がしっかり抱き締めてくれるのが嬉しいの・・・だから蓮のお膝が大好き。最初は座りにくいなって思ったけどね、どうしてそんな事を思っていたのかが今は不思議。重いよねとか遠慮したり、座り方のコツが分からなかったけど、いつから落ち着くようになったんだろう?」
「気持に安定感が生まれたんだろうな。一歩を踏み出す勇気と、互いを思い遣る気持が大切なんだと、俺は思う」
「安定感? 恥ずかしがって端っこに座っていたら、すぐ落ちるから駄目ってことかな? そういえば、昔は深く腰掛けられなかった気がするの」


きょとんと不思議そうに首を傾げた香穂子は、暫く眉を寄せて考え込んでいる。彼女の答えを見つけて欲しくて、緩めた瞳で見つめたまま、再び腕の中へ深く抱き締めた。触れ合う胸から俺の鼓動が伝わるように・・・。


手を握ることも、抱き締めることも勇気を踏み出す一歩が必要だったあの頃。膝に座ってみたいと願ったのは君だったか、それとも招いて抱き寄せた俺だったか。直接感じる肌の感触が落ち着かず照れ臭く、どうしたら良いか分からずじっとしているのが精一杯だったと、甘酸っぱい思い出が蘇る。

そのとき気付いたんだ・・・鼓動を高鳴らせているのは自分だけではないのだと、抱き締めた胸から伝わる鼓動で。


愛や好きな気持、お互いがどれだけ想い合っているかは目に見えないけれど、形にして確かめられたら幸せだと思わないか? 長く座っていられるようになった時間は、俺たちが築いた想いと絆の形だと、俺は思う。