温度差のあるキス



容赦なく照りつける夏の強い日差しは、ほんの少し外を歩いただけでも、肌をじりじり焦がしてゆく。師事している先生のヴァイオリンのレッスンから帰宅した香穂子を玄関で出迎えると、ドアを開けた瞬間に流れ出た室内からの涼しい空気に安堵の笑みを浮かべていた。おかえりと言うよりも早く子犬のように飛びつき抱きつき、口吻でただいまの挨拶を忘れずに・・・そして俺からも。挨拶にしては名残惜しげに離れれば、暑くて溶けそうだと瞳を潤ませる香穂子は、俺の腕からすり抜け寝室に駆け込んでいった。


暫くして賑やかな足音が再び降りてくると、着替えを持って真っ直ぐバスルームへ向かってゆく。まずは汗をさっぱり洗い流したいらしい・・・ではその間に俺は、冷たい飲み物でも用意しておこうか。バスルームの扉へ消えた君の背中に微笑みを送ると、シャワー上がりの火照りを冷ませる何かを用意すべく、俺もキッチンへと足を向けた。




空調の整ったリビングのテーブルには、冷たいアイスティーが入った透明なグラスが二つ並んでいる。夕焼け空を切り取ったような茜色に浮かぶのは、数個の氷と緑色が眩しい小さなミントの葉。爽やかで涼しいミントの香りと冷たいアイスティーの喉越しが、外出とシャワー上がりで身体の中に籠もった熱を沈めてくれるだろう。

日差しを避けて部屋の中にいても夏の暑さは変わることはなく、熱さで蒸し焼きになってしまいそうだと。難しそうに眉を寄せる香穂子から聞こえるのは、パタパタと団扇で扇ぐ音。君は暑いと言いながらも、ソファにぴったり並んでくっつき離れないのだから、余計に暑いと思うんだが・・・触れ合う熱さはいくらでも平気なのだから不思議なものだな。だがこれで喉の渇きが癒され、少しは涼しくなるだろうか?


香穂子が俺を想いながら手料理を作ってくれるように、君のための大切な一杯を入れるのは俺の役目だ。
アイスティーのグラスを手渡すと、持っていた団扇ソファーの隅に放り投げ、嬉しそうにいそいそと両手で受け取った。冷たいね、気持ち良いねと満面に頬を綻ばせながらグラスに頬を寄せ、氷の入ったアイステーに頬刷りをしている君がとても幸せそうだ。

君のために何か出来るのは嬉しい。ありがとうと向けられる笑顔の愛しさが、頬と心を綻ばせ温かな気持ちにしてくれるから。どうしたら喜んでもらえるだろうか、あの笑顔の為に俺は何が出来るだろうかと・・・考え行動する積み重ねが、俺に優しい気持ちをくれたのだと思う。


「香穂子、グラスを長い間抱きしめていると、肌の温もりであっというまにぬるくなってしまうぞ。冷たいうちに飲んだ方がいい」
「あっ、そうだね。アイスティーは温かい物よりも、手間と時間がかかっているんだもの。蓮が入れてくれた紅茶が大好きだから、飲むだけじゃ無くていろいろ楽しみたいの。ほら見て、グラスを光にかざすと琥珀色が夕焼けみたいでとっても綺麗!」


アイスティーを飲む前にグラス冷たさを堪能したり、中で踊る氷たちの音楽に耳を澄ませたり。光にかざして水色や氷の姿を眺めている。胸元に引き寄せたグラスの中で人差し指を掲げ、浮かび揺れるミントの葉を楽しげに突きながら、二人だけの会話しているのだろう。肩に寄りかかりながら見せてくれたグラスには、ふわふわ揺れるミントの葉と夕日に溶け込む氷たち。涼しそうだな・・・水を見つめるうちに、俺も氷になって漂う気分になってくる。


「私ね、アイスティーに浮かぶ氷になりたいな。でね、蓮が飲むアイステーィーのグラスに浮かぶの」
「氷に? 冷たくて気持ち良いからなのか?」
「うん! 夏になって毎日暑いから、ティータイムには冷たいお茶を飲むようになったでしょう? 蓮が入れてくれたグラスを見つめていて思ったの。氷って素敵だよね、蓮の心みたいに透明で透き通っているんだもの。ストローでかき回すと綺麗な音を奏でるし、ほら見て。そっと静かにしておくとね、二つの氷がくっついて一つになるの、仲良しだよね」
「本当だ・・・俺のグラスも、君のグラスの氷も。二つの固まりが引き寄せ合い大きな一つの固まりになっているな。俺が君の色へ染まるように、熱い紅茶も涼しいアイスティーに変わる。だがやがて熱さに取り込まれ、二人でゆっくり溶けてゆく。俺も香穂子と一緒に、同じグラスへ浮かぶ氷になりたい」


ゆらゆらと夕日の海を漂う大きな氷は、二つが一つとなって寄り添い合ったもの・・・そう、まるで俺たちのように。最初は互いの氷に角があったが、同じ環境に身を浸し触れ合ううちに心が丸くなり、楽しげに漂うようになる。まるで出会った頃の俺と君が、音楽を通じて絆を深め合う様子に似ていると、そう思わないか? どんな形にもなる自由さと透き通った透明さは、香穂子のようだと俺は思う。

氷というのは、ただ冷たいだけのものでは無いんだな。香穂子が言うと、氷に触れた温度さえ温かく感じるから不思議だ。


「香穂子は、夏と冬のどっちが好きなんだ?」
「私はね、冬が好きだな。絶対に冬!」
「冬に質問したときには、一年中大好きな夏ならいいのにと言っていただろう?」 
「あれ、そうだっけ? だって寒さは暑着で防げるけど、暑くてもこれ以上は脱げないでしょう? 薄着になっても暑さは変わらないんだもの。薄着になったら、余計に素肌へ熱さを感じるなんて不思議だよね」
「香穂子・・・暑いのは分かるが、その。もう一枚上着を羽織ったらどうだ?」
「どうして? 今ね、シャワー上がりですごく暑いの。それに蓮だけしかいないもの、二人っきりなら良いでしょう?」


きょとんと目を丸くして小首を傾けると、キャミソールの肩ストラップが緩んでしまい、白い素肌の奥が露わになりかける。慌てて視線を逸らすが、不思議そうに俺の名前を呼ぶ君にそっと振り向く、胸の鼓動は高鳴ったまま。

ヨーロッパの夏は湿度が少ないから、日本のような蒸し暑さが無いのは救いだろう。だが連日30度を超す熱さや、日差しの強さはどこでも変わらない。ある物に感謝しなくてはいけないのに、夏の今は冬が恋しいと思うし、寒さの厳しい冬になれば夏が恋しくなる。つい無いものを求めてしまう・・・のは良くないと思いながらも、予想通りの同じ答えを毎回返してしまう君が浮かべる困った顔が可愛らしくて、季節ごとに訪ねてしまうんだ。


寒さは厚着で防げるが、暑くてもこれ以上は脱げないから・・・というのが彼女の言い分らしい。なるほど、確かに香穂子はキャミソールとデニムのショートパンツ姿。夏そのものを現す元気な服装だが、いくら家の中といえども少々・・・いや、かなり肌を露出しすぎていないだろうか? やんわり咎めるが、シャワー上がりで暑いのだと言われてしまえば、仕方ないなとこれ以上返す言葉がない。


「ねぇ蓮、どうして離れようとするの? さっきから私がぴったりくっつく度に、隙間を空けて移動しちゃうんだもの。ほら真ん中に座っていたはずなのに、私たちソファーの端っこに座っているよ。私のこと嫌いになったの? 暑いときこそ二人でくっつかなくちゃ駄目なの!」
「いや、それは・・・暑いのはこうして触れ合っているからだと、そう思ったんだ」


俺も火照りを冷まさなくてはいけないな。ソファーに寄り添い座る距離を僅かに離せば、何故か君は暑いと言いながらもぴったり俺に寄り添い、くっついて離れようとしない。眉を寄せる俺に頬を膨らませメッと睨みながら、暑いときこそくっつかなくちゃ駄目なのと力説する。冬になったら、寒いから離れないのだと、君はそう言っていただろう?

涼しさを求め空間を空けたくなる気持ちから、心まで離れてゆかないように願う気持ちはよく分かる・・・が、俺だって男なんだ。今は夜ではなく昼だと言い聞かせていても、求める心が高まってしまえば止められない。二人っきりだから余計に困るのだと、そろそろ気付いて欲しいんだが。


「クリスマスマーケットの屋台で売られている、美味しそうなローストチキンは、きっとこんな気持ちなんだよ。じんわり焼かれて中までポクポク、焼き加減はウェルダンだよ。シャワーを浴びたのにほら、まだこんなに身体が火照っているんだよ。身体の中に籠もる熱さがなかなか出て行かないの・・・」
「ならば、香穂子も美味しい食べ頃だな」
「もう! 私はローストチキンじゃ無いんだからね。蓮ってば暑いの苦手そうなのに、どうしてそんなに涼しそうなの? ずるいよ。じゃぁ蓮の事も、私と同じくらい暑くしちゃうんだから」


唇を尖らせ拗ねてしまった香穂子がぷいと顔を背け、アイスティーを無言で飲み始めてしまった。君を食べたいと思ったのは本当なんだが、機嫌を損ねてしまっただろうか。顔を覗き込みながら、すまないと真摯に詫びる俺をちらりと横目で視線を送り、持っていたグラスを静かにテーブルへ置く。息を潜め緊張が走る・・・その沈黙を破ったのは君。じゃれて抱きつく身体をとっさに受け止めれば、吸い付く肌の感触に鼓動は大きく跳ね上がった。


抱える熱を伝えようとしがみつく香穂子に、俺が一瞬見せた戸惑いや動揺を、敏感に察知した君の瞳に浮かんだのは悪戯な光。よろめき欠けた身体を支えつつ、軽く揺れるスプリングの波に身を委ねれば、楽しげに笑みを浮かべながら背伸びをして。絡めた腕でしがみついたまま届けられたのは、唇へ不意打ちのキス。

しっとり触れた柔らかな唇は、飲んでいたアイスティーで冷た潤んでいた。触れた表面は冷たいのに、理性という薄い皮の下では熱さが渦を巻く・・・そんな温度差に飲み込まれてしまいそうだ。こんがり焼けるローストチキンの気持ちは理解できないが、内側から焦がされそうになる君の熱さは良く分かる。


「どう? 暑くなったでしょう?」
「触れた唇が、冷たくて気持ちが良い」
「蓮が熱くて蕩けちゃうと思ったのに、う〜ん残念。でも気持ち良いなら嬉しいかも。じゃぁもう一回、アイスティーを飲むから、ちょっと待っててね」


すっかり機嫌が直ったのか、頬を綻ばせてテーブルに腕を伸ばすと、飲みかけのアイスティーを手に取り一口すする。そしてグラスを傾け器用に氷を取り出すと、程良い大きさを口に含み、暫く口の中で転がしていた。何をするのだろうかと不思議に見つめる俺に、楽しい遊びを思いついたと満面の笑顔が応えてくれる。氷を味わう涼しそうな水音が聞こえると、両手にはぁっ息を吹きかけ溜まった冷たさを逃がしていた。


重なる二つの鼓動がが楽しげにリズムを刻み、嬉しい予感を伝えてくれる・・・それは言葉で上手く伝えられない幸せの予感。ソファーによじ登りぺたりと座った香穂子が、俺の肩先を掴みもう一度背伸びをして。頬に額に唇にと優しく啄むキスを運んでくれる。柔らかい唇が耳朶を噛んだときに思わず跳ねてしまった肩に気づき、吹き出しそうな熱が頬へ集まるのを感じた。

口に含んでいた氷で冷たく冷えた唇が、火照った肌を沈めてくれる・・・グラスを握っていたから触れる指先も程良く冷えて心地が良い。夏の暑さを冷まそうとしてくれる、香穂子の心遣いが嬉しくて、いつしか瞳を閉じて身を委ねていた。もう少しこのまま涼しさに浸っていても、良いだろうか?


「冷たくて気持ち良いかな?」
「あぁ、とても涼しくなった・・・。そうだ、香穂子も暑いと言っていただろう? 俺たちも一緒に氷にならないか?」
「氷に? でもどうやって?」


冷たさに火照りが静まるのは表面だけで、触れるほどに身体の中心は君を求め熱さが募ってゆく。
この熱さを解き放ちたい・・・暑いときほど互いの身体を触れ合わしたいと願った君の気持ちが、今なら痛いほどに分かる。表面の熱はいくらでも表から沈められるが、中に秘めた熱は触れ合わなければ静まらないのだから。


表面の熱は外側からいくらでも沈められるが、身体の中にある燃える熱を沈められるのは、愛しく思う大切な君だけだ。グラスの中からカラリと響く音は、一つに絡み合う氷が紅茶のベッドへ深く沈む合図。

腕を回し捕らえた腰を引き寄せると、きょとんと不思議そうな君に微笑み、抱きしめながらキスを交わす。ゆっくりと重みをかけてゆけば、身体を乗り上げるように俺へぎゅっとしがみついていた香穂子と体勢が逆になり・・・そうキスの主導権も変わるんだ。角度を変えて深くなるごとに熱さを増すキスと触れ合う肌が、心の扉を開けて触れれば火を放つほどの想いを解き放つ。


アイスティーを冷やしていた氷はゆっくり溶けてゆくけれど、君という氷は俺の中ですぐに蕩けてしまうだろう? 
それは君の中で溶かされる俺も同じだが・・・。氷になって互いの熱さを沈めるというのは難しいのだな。アイスティーと氷で冷えた唇は、もうここにはない。あるのは唇に秘めた炎より熱く深い想い・・・だた君だけに。