想う数だけ聞こえる音色

英語の宿題で分からない所があるから教えて欲しいという香穂子の為に、放課後ヴァイオリンの練習を少し早めに終わらせて、俺の部屋で一緒に宿題をする事になった。普通科と音楽科では授業のカリキュラムが違うけれど、好きな英語ならいくらか君の役に立つ事ができるから。そんな訳で何も無い部屋に小さなテーブルを出して、膝と額を詰めるように向かい合わせに座りながら、彼女の宿題もみつつ合間に自分の課題もこなしてゆく。



「蓮くん、次はこの文章が分からないの。この人、何て言ってるのかな・・・」
「どこが、どう分からないんだ?」
「えっ・・・えっと〜全部?」


テーブルに身を乗り出しつつ、差し出した教科書の英文を指差しながら、すぐ目の前で困ったように小首を傾げる香穂子の可愛らしさに俺の方が困ってしまう。さらりと肩から零れ落ちた髪に、一瞬大きく弾け飛んだ鼓動を気付かれないように宥め呼吸を整えながら、俺も僅かに腰を浮かせて身体ごと寄せるように身を乗り出して額を寄せる。英文を示すしなやかな指先を、読みすいようにと退かしながら、彼女の手をそっと握り締めた。



どうやら教科書の英文を日本語に訳すのが宿題らしい。
眉根を寄せて難しい顔をしながら一文ごとに次々と質問を投げかけてくる香穂子に、分かりやすく丁寧に・・・且つ自分の力で解く余力を残して説明をしてゆく。
少しは自力で考えなければ・・・と心の中で苦笑しつつも、結局は俺もこの状況を楽しんでいるのだと思う。


普通科の宿題を音楽科である俺が、同じ教科書や質問を見ながら一緒に解いているのも不思議な気がするけれど。学校では決して味わう事が出来ないささやかな時間は、君と同じ教室で席を並べられたらどんなにか楽しいだろうかと・・・いつも心に想う密かな願いを叶えてくれるようで。語学が得意で良かったと、こんな時ばかりは思わずにいられない。


「ヴァイオリンもだけど、蓮くんって教え方上手いよね。説明がとっても丁寧で分かりやすくて、学校の授業よりも楽しいもの」
「そうだろうか? きっと生徒が優秀だからだろうな。だが君にそう言ってもらえて、俺も嬉しい」
「蓮くんが先生だったら私、嫌いな英語がもっと好きになっていたよ。いつも苦労する宿題がこんなにもスムーズにはかどるのは、私専属の家庭教師さんのお陰かな」


ほぼ付きっきりで和訳に付き合う俺に、君は嬉しそうに笑顔を向けてくる。しかし家庭教師という言葉が妙にくすぐったくて、そわそわと落ち着かせなくしてくれるのは、一体なぜなのだろう・・・。
意識すればする程、顔に熱さを感じて返す言葉を詰まらせている俺に、蓮くん今度はこの英文がね・・・と、香穂子は教科書を差し出しながら、相変わらず無邪気に身を乗り出してくる。


気を緩めれば額どころか唇が触れ合ってしまう近さだから、ふとした拍子に触れる身体や、視線が間近で絡み合う度に、先程から俺の鼓動は高鳴り続けているという動揺を君は知ってか知らずか。


だが・・・・・・。


説明をしたまま視線だけを上げてそっと伺うように香穂子見れば、教科書の英文を指し示す俺の指先をじっと見つめる彼女の目元と頬が、はにかむように赤く染まっているのが分かった。

高鳴る鼓動は、きっと二人分。
触れ合う指先から・・・寄せる肩から温もりと共に伝え合い、密かな二重奏を奏でるのだ。

一緒に宿題をするというだけでなく、この距離感をあえて楽しんでいるのかも知れないな・・・俺と同じように君も。








ポン・ポン・ポン・・・・・・。


ノートにペンを走らせていると、静かな室内に規則正しく軽やかな音が響き渡る。
手を止めてふと視線を上げれば、目の前の香穂子は頬杖をつき、手に持ったシャーペンを気だるそうにもて遊びながら、ノートの上にリズムを刻んでいた。


数学の次に苦手だという英語の課題に、煮詰まってしまったのだろうか。
それとも飽きてしまったのか。


恐らく両方かも知れないな。ヴァイオリンを弾いたり音楽に関わっている時には、何時間でも集中してずっと楽しそうにしているのに・・・やはり苦手なものになると、集中力が続かなくなるようだ。
俺が見ていた間は言葉に耳を傾けながら必死にペンを走らせていたノートも、目を離して一人になってからはピタリと止まってしまったらしく、眩しい程の白さが目立ったまま。


間近でじっと見つめる俺に気付く事も無く、彼女はペン先をただぼんやりと眺めながらポンポンとリズムを刻んでいる。声を出してしまいたい笑いを堪えながら香穂子と呼びかけると、ビクリと大きく肩を揺らして持っていたペンを落とし、ハッと我に返った。


「ご、ごめんね、少しぼーっとしちゃって。・・・あの・・・蓮くん、もしかして今、私の事呼んだ?」
「あぁ、呼んだ。宿題に飽きてしまったと、さっきまでは俺が付きっきりで見ていたのに、放って置かれて寂しいと・・・。香穂子のペン先が奏でる音楽が、そう歌っていたから」
「えっ、本当!? や、やだ私ったらいつの間に・・・。声に出してたのと同じくらい、恥ずかしい・・・」


大きな瞳を悪戯っぽく見つめてそう言うと、どうやら俺が言い当てた事が彼女の本音だったらしく、香穂子の顔がみるみるうちに真っ赤に染まってゆく。恥ずかしさで耐え切れなくなったのか、俺から視線を外して俯くと、もう〜このペンがいけないんだよねと、ぶつぶつ呟きながら両手でぎゅっと握り締めた。







落ち着かない沈黙が、互いの間を流れてゆく。


照れる君が見てみたいと思ったが、困らせるつもりは無かったんだ・・・。
すまなかったと・・・何よりも君が好きだからと・・・。


伝わるだろうか?
気持のままに柔らかく微笑んで君を見つめ、想いを込めて。


ヴァイオリンの代わりに手元にあったペンを取り、アイスティーの入ったグラスの淵を叩いて音色を刻むと、まだたっぷり中身の残るそれからは、チリーンと高く透き通った音色が羽ばたくように響き渡った。ゆったり流れるリズムは甘さを乗せて、俺と君にとって特別なメロディーを奏で出す。


おずおずと顔を上げて俺が奏でる音色に耳を傾けていた香穂子が、眉根を寄せてこのメロディーは何だろうと考え込んでいる。やがて彼女の表情に、ふわりと咲いた花のように温かい笑みがいっぱいに広がった。


「このリズムは・・・愛の挨拶!?」
「ご名答」
「面白い〜! 楽器で奏でるだけが音楽じゃないんだね。耳を澄まして聞いてみると、グラスの音もちゃんとヴァイオリンみたく音の名前に聞こえてくるよ。だから私がノートを叩いてた音も、音楽だったったんだね」
「本当ならば行儀が悪いと怒られてしまうけれども、楽しいから特別に」
「そうだね。やっぱり英語の宿題よりも、私は蓮くんと奏でる音楽が一番楽しいな」


そう言ってへへッと小さく舌を出して肩を竦めると、絡み合う瞳が甘く緩み、どちらとも無くクスリと笑が零れる。
英語の宿題に取り組んでいた時には苦手と飽きっぽさに耐えていたのに、音楽の事になった途端に目を輝かせて興味を示してきた。そんな君に心の底から湧き上がる嬉しさを感じ、自然に緩む頬はそのままでもう一度グラスをチリンと鳴らせば、テーブルに両肘をついて楽しそうに俺が鳴らしたグラスに魅入っている。



「こういうの絶対音感って言うんでしょ? 私にはまだ何の音かは良く分からないけど、蓮くんには楽器だけじゃなくて、身の回りにある何でもが楽譜に書かれるような音に聞こえるの?」
「まぁ、聞こうと思えば」
「さすが蓮くん。私にも出来るかな・・・」
「香穂子は耳がいいから、きっと訓練すれば身につく筈だ。音感は生れ付きのものではなくて、学習や経験を通して身につくものだから」
「音や音楽が目に見えるように分かるって、素敵だね」
「音は楽しむもの・・・だから音楽なのだと。俺にそう教えてくれたのは、君だよ」


香穂子の瞳を見つめて柔らかく微笑むと、吸い寄せられたように見つめ返す彼女の瞳が熱く潤み、頬が赤く染まってゆく。照れくささを隠すようにソワソワと転がっていたペンを手に取ると、テーブルをポンポンと叩き始めた。
しかし何かを思いついたのかパッと顔を上げて、キラキラ輝く大きな瞳と満面の笑みを俺に向けてくる。


「ねぇ蓮くん、この音の名前は何?」
「C」
「じゃぁ、この音は?」
「E♭」
「凄〜い! 今度は二つ連続だよ」
「AとF」


ノートやテーブル叩いてみたり、焼き菓子の乗った小さな白い皿を叩いてみたり。あるいは残った量の異なる、俺と君のグラスを二つ続けてポンポンと叩いてみたり。その度に俺が音の名前を言い当てると、嬉しそうに頬を綻ばせて、楽しさ溢れる笑顔が弾けるのだ。一緒に楽しむ俺の心も、軽やかに弾むリズムを刻んでいるように思う。



鳴らす次の音を探そうと、ペンを握り締めながらテーブルの上や部屋をきょろきょろと見渡していた香穂子が、席を立って俺の隣に駆け寄り、ペタリと腰を下ろした。すぐ目の前で見上げる大きな瞳に悪戯をする前触れのような煌きを感じたものの、考える余裕も無く背伸びをした彼女の顔が近づいてくる。


「最後は難しいぞ〜。この音は何かな?」


俺の腕をそっと掴み耳元でそう囁いて甘い吐息が微かにくすぐると、チュッと音を立てて俺の頬にキスをする。
頬に残る柔らかく温かい感触。
耳の中にいつまでも残る愛らしい音色。


笑顔と同じように、君のキスはいつでも俺の心を開く鍵だから。
心にしまってある情熱を閉じ込めた箱がカチャリト小さな音を立てて開かれると、触れられた頬から一気に溢れ出した熱が顔だけでなく全身へと駆け巡ってゆく。一瞬思考も何もかもが止まり甘く痺れ、頭の先から足の先・・・それこそ心の中まで俺の全てが君の色に染まる、温かくて心地良い幸福感に包まれながら。


だがこれを音でと言われると、意外と難しいと思う。
当てはまる音はあるにはあるのだがちょっとしっくり来なくて、彼女が求めるものと違うような気もするし・・・。


「・・・・・・」
「蓮くん?」


どんなに考えても結局答えは出てこなくて、くすぐったい沈黙が続く程にクスクスという楽しそうな声だけが小鳥の囀りのように優しく空間に響き渡る。それがどうしようもなく俺を焦らせ更に熱さが募ると言うのに、困り果てて眉を寄せながら、すぐ目の前の君をだた見つめるしか出来ない。


寄り添う君は俺の膝の上に両手を添えたまま身を乗り出し、分かった?と小首を愛らしく傾げてくるけれど。
俺の答えが知りたくてそんなにも楽しそうなのか、それとも困って答えられないのを見て楽しんでいるのか。
君にはいつも敵わいと分かっているけれと、少しだけ悔しいような・・・・照れくさいような・・・。
ならば、君ならどう答えるというのだろう・・・。俺に分からず君には分かる音の正体を、俺にも教えて欲しい。


「分からない・・・というか答えられない。香穂子へ向ける想いと一緒に心の底から音が溢れて、とても一つの音だけでは、言い表せないから」
「ふふっ。絶対音感を持つ蓮くんでも、分からない音があるんだね」
「では香穂子なら、何の音に聞こえるんだ?」


悪戯が成功したとばかりに、クスクス楽しそうに笑う香穂子の肩を抱き寄せると、軽やかな音をつけて同じように頬へ素早くキスを贈る。一瞬驚いて瞳を見開いた彼女を、どうだ?と問いの言葉を込めて見つめると、ほんのり薄く染まってゆく白い頬の中心に、先程降らせた小さな花が一際鮮やかにポッと花開いた。


「・・・ん〜とね、恋の音!」
「その答えは、反則だ」
「でも、当たりでしょう?」


自信たっぷりに真っ直ぐ見上げる香穂子を、肩だけでなく華奢な腰にも手を回して引き寄せ、腕の中に深く閉じ込める。まさに予想通りな答えを返してきた彼女の耳元に、そうだな・・・と吐息と共に熱く囁いて。


「・・・・・・」
「蓮くん、どうしたの?」
「英語の宿題、まだ終わっていないんだろう?」
「大丈夫、蓮くんがいてくれるから」
「香穂子!」
「な〜んてね。後は一人で出来るから、家に帰って頑張るよ。だから・・・ね?」


ねだるように甘く見上げる瞳に負けてしまい、彼女の唇に俺が奏でる音色を降らせる。
音を立てて軽く啄ばむと、はにかんだ笑みを頬に浮かべて静かに瞳を閉じた。
それを合図に腕の中の身体がしなる程に強く、懐深く抱き締めて、覆い被さるように再び唇を重ねてゆく・・・。





楽器や楽譜だけではなく、この世に溢れる目に見えるものや見えないもの。
高鳴る胸の鼓動も唇も、この想いも・・・君と奏でる全てが音で音楽なのだ。

決まった音にはまらず無限の可能性を秘めた想いは、俺と君らしくどこまでも自由で。
だからずっと寄り添い、重なり合えるのだと思うから。