お菓子よりも魅惑的な



コンクールの夏が終わればすぐ二学期が始まり、それぞれの場所で学校生活が始まった。賑やかだった菩提樹寮も静けさに包まれて、あの日々は夢だったのではとさえ思えてくる。でも、千秋さんたちが豪華に模様替えしてくれた寮の内装が、夢では無かったのだと教えてくれて・・・。すっかり私の場所になった、いつも彼が座っていたラウンジの椅子に座り、会いたいあなたの名前を呼びながら携帯電話を握り締めるの。


するとね・・・ほら。赤いランプを灯す着信のサインと同時に、心の電話もあなたへと繋がる。私の中にはもう一つ、あなただけに繋がる特別な電話があるの。例えばキラキラの糸で真っ直ぐ心と心を繋ぐ、糸電話。だから携帯のディスプレイを開かなくても、大好きな千秋さんからの電話はちゃんとわかるみたい。表示された着信の名前には「東金千秋」って・・・ね、本当でしょ?


「もしもし千秋さん? おはようございます。メールじゃなくて朝から電話なんて珍しいですね、どうしたんですか?」
『よう、かなで。これからお前に会いに行ってやる、今日の予定は俺のために空けておけよ。もうすぐ新幹線に乗るから、あと数時間で横浜だ』
「えっ、これからですか! 昨夜は何も言ってなかったのに!?」
『気が向いたんだ。眠る前にお前の声を聞いていたら、目覚めた朝に会いたくて溜まらなくなった・・・それだけだ。新幹線でたった数時間じゃねぇか。俺にとっては横浜なんざ、遠距離のうちに入らねぇ』


受話器越しに声を聞いた瞬間、それまでちょっぴり寂しさで俯き加減だった私の心が、あっさり元気になっていた。心も頬も全部が笑顔の花をパッと咲かせるの、ふふっ・・・私って単純だなぁと思う。そんな私がどこから見えているみたいに、「俺の声が聞けて嬉しいだろう」って、いつもみたく自信たっぷりに言うの。素直な気持のまま「嬉しいです!」と返事をしたら、当然だなと耳に届く向こう側の吐息が甘いシュガーに変わる。

吐息は電話じゃ伝わらないのに、なんだかとってもくすぐったい・・・。あぁほら、耳が熱くなってドキドキしてきちゃったよ。


「千秋さん、今回は横浜に泊まっていくんですか?」
『残念ながら日帰りだ、最終の新幹線で神戸に戻る』
「帰っちゃうんですか、そっか・・・お泊まりしないんだ。来るのも突然なら、帰るのもあっという間・・・ですね」
『どうしたかなで、泣きそうな顔して。俺が泊まらずにがっかりしたのか、可愛いヤツだな。寂しがらずとも、もし最終を逃したらお前の部屋へ泊まるから安心しろ』
「えっ、ちょっ・・・私の部屋って、千秋さん!?」


一緒にヴァイオリンを合奏したり、街をデートしたり。寮に帰ってからはラウンジで、紅茶を飲みながら話をするの。毎日電話で話していても、お互いがすぐ目の前にいる素敵さには敵わない。あれもこれも話したいけれど、でも傍にいるだけで満足してしまうから・・・。あっという間に日は暮れて、ふと気付けば窓の外に漆黒の闇が静かに広がっている。きっと今日も同じかも知れないね。


一人だと一日の時間はとても長く感じるのに、二人で一緒に過ごす時間は足りないくらいに短い。ふわふわに膨らんだ風船がしゅんと萎んだみたく、携帯電話を耳に当てたまま小さく項垂れてしまう。あぁほら、しょんぼりしちゃ駄目だよ。聞こえてくる声や空気に耳を澄ませれば、電話の向こうでどんな顔しているか分かってしまうんだもの。


『ははっ、冗談だ。だがいつまでも星奏の世話になるわけにもいかねぇか。よし、次に横浜へくる時には近くにホテルを押さえるとしよう。港の夜景をお前と眺めながら過ごすのも、悪くない。もちろん夜景だけじゃないぜ、朝日もだ』
「私も一緒に泊まるんですか?」
『当然だ、可愛いお前を一人にするわけないだろう。わざわざ時間を割いて横浜に来たんだ。お前と過ごす時間は限られているから、それを有効にたっぷりと活用しなければ損だろう。ほんの一秒でも惜しい、お前を手放したくない』


俺の物になる覚悟を決めておけよ? そう私の耳に届いたのは、キスをする前みたいに熱く甘く熟した果実の吐息。
電話の向こうもから空気を震わせながら私を熱くするの、耳に心臓があるみたくドキドキの鼓動が大きく聞こえてくる。閉じた瞼の裏側に広がるのは恋するピンク色・・・その花びらがだんだん情熱の赤へと変わる。

耳に押し当てる携帯電話が熱を灯すのは、私の心も熱いから。照れ臭さに沈黙してしまうと、乱れそうな呼吸まで伝わってしまうから・・・あぁほら落ち着いて、深呼吸だよ。


「あのっ・・・じゃぁこれからお料理の下ごしらえしなくちゃ。千秋さんの好きなお料理用意して待ってますね」
『久しぶりにかなでの手料理が食べられるのか、楽しみだ。その代わりに神戸にあるもので、欲しい物があったら土産に持って行ってやる。何かリクエスはあるか? かなでは、小瓶に入ったジャムや蜂蜜が好きだったよな』
「わぁ、お土産ですか! 可愛いジャムや蜂蜜も捨てがたいけど・・・ん〜どうしよう迷うなぁ。そうだ、甘いものが食べたいです。今ね、お菓子よりも甘い物がすごく欲しいなぁって思っていたんですよ。」
『甘い物、菓子やケーキか? 確かに神戸には上手いものが揃っているが、範囲が広いな』
「ふふっ、それはどこにも売っていないんです。いつもお土産に持ってきてくれるじゃないですか。千秋さんが、私だけにくれるとびきり甘くて美味しいスイーツが、私は大好きなんです」


壁に掛かっている時計を確認しながら、これから買い物してお料理をして・・・下ごしらえが終わったら、駅まで迎えに行く頃だね。そう思い浮かべるだけであっという間に心が青空、綻ぶ頬とそわそわと楽しげに揺れる肩。

この間新しく買ったガイドブックに載っていたスイーツ特集が、すごく美味しそうだったけど・・・でもふと気付いたの。
どんなに美味しいチョコやケーキよりも、お口の中だけじゃなくて心まで蕩けちゃう、とびきり甘いスイーツがあるってことを。
面と向かっては照れ臭いけど電話ならちょっぴり甘えられるから、広い胸へ寄り添うみたく椅子の背もたれにそっと背を預けた。


なぞなぞの問いかけに気付いた千秋さんは、お前が欲しいのはコレだろう?そう囁くと、電話越しにチュッとキスの音を鳴らす。


『・・・鈍いと思っていたが、誘うようになったじゃねぇか。望み通り、とびきり甘いヤツをたっぷり用意するから、待ってろよ』


甘いお菓子よりも魅惑的なのは、あなたのキス。食べてみろよ?と挑発的に誘うのに、触れればしっとり優しく甘く、私ごとふんわり包んで溶かしてしまう。舌の上であっという間に蕩ける生チョコみたいな私は、今度はあなたに食べられてしまうの。

電越しの会話も、音・・・音楽。
例えばヴァイオリンの音色を重ねるように、心と心が会話をすれば、色鮮やかな世界が見えてくるんだよ。