おはようのキス



香穂子と過ごす休日を楽しみにしていたのに、朝からどんより空の雨模様。これじゃぁ外でヴァイオリンが弾けないし、サイクリングも出来ないじゃん。湿気は髪の天敵なんだよなと、自分の前髪を一房摘みしながら眉をしかめれば、携帯電話越しにあんたが微笑む優しい吐息が耳をくすぐる。雨に濡れたら街がキラキラ輝くし、耳を澄ませば雨の音楽が聞こえてくるよ・・・と。鬱陶しい雨空を部屋の窓から眺める俺の顔が、香穂子には見えるのかも知れないな。

気分が憂鬱になるのは、外へ出かけられないのもあるけど、あんたに会えなくなるから。電話越しなら伝えられる素直な気持ちを吐息に乗せれば、会いたい気持にお天気は関係ないのだと、ひたむきな想いを届けてくれる。そうだよな、出かけられないのなら、家でのんびり過ごすものたまにはいいかも。よし、ヴァイオリンの練習後にサイクリングだったけど、予定変更だ。

これから、楽器持って俺の家に来いよ、駅まで迎えに行くから。休日だから、香穂子の家には家族がいるんだろ? 
今日は両親と弟が出かけていて、俺の家には誰もいないんだ。つまり、俺の二人きりってことだけど・・・いいよな。
俺だけに、特別なあんたを全部見せてくれよ?





ヴァイオリンを二人で弾いていた時とは違う、熱い空気が満ちる部屋で、波打つシーツに埋もれながら身体を休めるひととき。心地良い疲れと腕の中にいる温もりに抱かれれば、優しい眠りに飲み込まれそうになる。だけど、せっかく香穂子の寝顔を見られるんだから、俺まで目を閉じていたらもったいないよな。

腕にした腕を動かさないように少しだけ身体を起こし、すやすやとあどけない寝顔で眠る香穂子の額に指を這わせる。汗で張り付いた髪をそっと指先で払うと、そのまま指を滑らせ頬をなぞり唇へ。ちょっとした悪戯心でそのまま指先を軽く唇へ押し当てると、すぐったそうに頬を緩めたあんたが、まさか食べるとは思わなかったんだ。


「・・・っ! おい香穂子、寝たふりなのか!?」
「・・・すぅ・・・・・・」
「なんだよ、寝ぼけてんのか。にしても、美味しそうな顔しちゃって。ひょっとして寝ながら俺の指、食べてんの?」
「・・・・・・」
「あんなに俺を食べたのにまだ足りないのか? 俺はまだ、あんたを食べたり無いけどね」


あ〜あ、無邪気に眠っちゃって。驚いたのは俺の方だっての、本当に。
眠っていても俺の事が分かるのかな、それとも夢を見ながら食べ物だと勘違いしているのかも。
なぁ気付いてる? 触れ合う鼓動の早さも身体の熱さも、みんな香穂子がくれたものなんだぜ。


腕の中にある可愛い寝顔にそう心に呼びかけながら、眼差しも頬も自然と緩む。 目を閉じたまま無意識にゆるゆる動く唇の中で、指先へちゅっと吸い付いたり小さく舐めたり。今目を覚ましたら、絶対に驚いて真っ赤になるんだろうな。でも拗ねて背を向けれらたら困るし、このまま眺めるのも面白いけどね。

眠っていてもしっかり俺の指先を加えて離さず、くるく変わる寝顔が面白くてずっと眺めていたいけれど。余熱がくすぶる身体には、ちょっとした刺激も再び燃え上がる炎に変わる・・・だから。名残惜しさと理性の狭間で一瞬葛藤した後で、慌てて指を唇から引き抜くと、小さく瞼が震えてゆるゆると瞳が開いた。やばい、起こしたか?


「・・・んっ、ん〜・・・」
「香穂子、目が覚めたのか?」
「・・・桐也?」
「せっかく眠っていたのに、起こしてごめん」


自然と緩む眼差しに香穂子を閉じ込めたまま囁くと、子猫のようにころりと寝返えり、まだ少し汗ばむ胸にしがみついてくる。いや、しがみつく力は残っていないから、ぴったり張り付く感じかな。お互いの汗が二つの素肌を溶け合わせ、繋いでくれるから胸の鼓動まで伝わってくる。

甘えて擦り寄る髪のくすぐったさも、吐息の熱さも・・・そうやって呼吸してくれるだけで嬉しくなるなんて、俺そうとうあんたの事が好きなんだって思う。あんたの音を・・・あんたを見つけた自分を褒めてやりたいよ。


「おはよう、桐也」
「おはよう・・って、今は夕方だけどね。家に帰るまで、まだ時間あるんだろ。もう少し休んでれば?」


小さく背伸びをした香穂子が微笑む唇のまま、小鳥みたく俺の唇を何度も啄みキスをするのは、ひょっとしておはようのキスってこと? じゃぁ俺からも、あんたにおはようを届けるよ。受け止めたお返しのキスを深く返しながら、頭を撫でてぎゅっと抱き締めれば、眠りを徨う蕩けた眼差しのまま、甘い吐息で囁くんだ。


「私、いつの間にか眠っちゃったんだ。ごめんね、腕重かったよね」
「これくら平気だって、気にすんな。こうして腕の中へ、ずっと抱き締めている方が、俺は落ち着く。あんたの寝顔も寝顔も見られるし。眠っているのに、くるくる顔が変わるんだもんな。すっげ面白かったぜ」
「え? もしかして私、寝言とか言ってなかった?」
「寝言よりも面白い事、してたぜ。でもナイショ」


え!と驚きの声を上げて目を見開く香穂子に笑いかけると、互いの額をこつんと合わせ間近に瞳を覗き込んで。前髪を絡め合い、抱き締めたまま身体を反転させ覆い被さりながら、何か言おうとする唇を塞ぐようにキスをした。いやいやをする頭を宥めるように上と下の唇に甘く吸い付き、零れる吐息も吸い取るように再び重ねれば、たどたどしくも返してくれ始めた嬉さしに、心が躍る自分がいる。

会ったばかりなのにまた会いたいと思うみたく、あんたが欲しい気持ちは、心も身体も止まることがないんだな。
吐息と唇で交わし合う、言葉のない恋人達だけの会話。おはようのキスは、アメリカに居たときよく朝に食べたパンケーキみたく甘い。キラキラするシロップを、どこまでもその身に吸い込んでどんどん甘さを増していくんだ。


だけど、子猫みたくじゃれていた香穂子が、身体を強張らせたかと思えば急に黙ってしまった。肩から零れる髪が顔を隠すから表情までは見えないけど、じっと何かに耐えている、そんな気がする。やっぱり疲れたのか? だから無理するなって、もう少し休んでろって言ったじゃん。まぁ、起こしたのも疲れさせたのも、俺が原因なんだけどさ。


「どうした香穂子、急に黙って。元気ないじゃん。もしかして、その・・・辛いのか?」
「へ?」
「ごめん、俺・・・あんたが可愛くて止められなくて、無理させた・・・よな」
「ち、違うの。あのね、私・・・」


香穂子・・・そう吹き込まれる吐息に、ふわりと力の緩んだ身体をそっと引き寄せると、心ごと預けてくれる小さな重みを受け止め抱き締めて。ヴァイオリンよりも慎重に、優しく愛しく・・・指先を髪に絡め撫で梳きながら、早く駆ける胸の鼓動を触れ合う肌から伝えてゆく。

だけど軽いキスがそれ以上深まるのを阻んだのは、きゅるきゅると騒ぎ出す香穂子の腹の虫。一瞬何の音か分からずおきょとんと視線を合わせるけれど、上目遣いにふり仰ぐ顔も抱き締める身体も、みるまに赤く熱さを増してゆく。気付けば笑っていたのは、静かにして〜と慌てて腹を抑えるあんたが、可愛いからなんだぜ。


「あ! どうしよう、我慢してたのに、ぐ〜って鳴っちゃったよ・・・。お腹空いたけど静かにして、ね?」
「すっげぇ腹の音。抱き締めてるから、振動が直接伝わってきたぜ」
「やだも〜恥ずかしい。そんなに思いっきり笑わなくても良いじゃない!」
「私ね、ホットケーキが食べたいな。アメリカの朝ご飯みたいな、たっぷりのシロップに浸すとびきり甘いヤツ!」
「は!? 何だよ紛らわしい。腹減ったなら、最初からそう言えよな! 具合が悪いのかとか、本気で心配したってのに」


ふり仰ぐ瞳に顔ごと吸い寄せられてキスをしたのは、俺も空腹だったから。あんたを心も身体も吐息も温もりも、全てを食べたくて。雪が春の光で溶けるように、初めは緊張していた香穂子の身体が次第に緩めば、衛藤の胸へ頬をころころすり寄せて、返事の変わりにきゅっと強く抱き締め返してくれる。


「寝起きに腹減ったなんて、もうちょっと色気というか余韻欲しくない? まぁ、動いた後だから・・・腹減る気持ちは分かるけど。キッチンに粉があるから、食べたいなら自分で作れば」
「え〜そんな、桐也ってば冷たい。ねっねっ、お願い・・・作って欲しいな。私ね、桐也が作るホットケーキが大好き。毎朝でも食べたいよ。ホットケーキはアメリカの定番朝食なんでしょ?」
「朝飯? まぁ確かに、週末とかの朝食はパンケーキが多いよな。NYに、上手い専門店もあるんだぜ」
「前に桐也が作ってくれた、ベーコンと卵に塩味のチーズが添えてあるも美味しかったなぁ。ストロベリーとホイップクリームたっぷりも素敵! ベーグル、シリアル、マフィン・・・いろいろあるけど、日本の食事と違って甘い物が多いよね」
「パンケーキがグダグダになるまで、バターとシロップをかけるのがアメリカ流なんだぜ。卵料理と甘いパンケーキは、アメリカじゃぁ子供の頃から朝の味なんだ。でもなんでパンケーキなんだ? やっぱ、疲れたときには甘い物ってヤツ?」
「う、うん・・・それもあるけど。桐也が好きな家庭の味を覚えたいんだもん・・・。いつか、私が作れるようになりたいから」


毎日でも食べたいって、今さりげなく爆弾落とされた気がするんだけど。潤む瞳でじっと切なげにふり仰ぎながら、お腹が空いたと可愛らしくすがる甘い瞳。そうかと思えば、近くで見ると呼吸が止まりそうになる優しい笑顔で、あんたの手がふわりと俺の頬を包んだ。波の上に漂うような、不思議な浮遊感と温もりに、このままずっと漂っていたくなる。


「私の元気がないから、心配してくれたの?」
「まぁな。あんたいつも笑顔で音楽頑張るし、どんなに辛くても根を上げない。でも耐えられない時には、俺がいない時に一人でこっそり泣いてるじゃん、知ってるんだぜ。厳しくハッパかけたり、こうして抱き締めるしか出来ないけど。俺は香穂子の音楽好きだし、笑顔でいて欲しいから・・・さ」
「桐也の優しさがすごく嬉しい。ありがとう、大好きだよ」


優しい微笑みや、蕩ける眼差しや甘い吐息、時には涙や拗ねた顔・・・いつも元気で強気なあんたが、少しだけ本当の自分をさらけ出せる場所。その大切な場所が俺の胸だから、いつでもあんたに貸すよ。強くなれるだけじゃなくて、素直に弱くもなれる場所・・・そしてまた強くなれる。

弱さや寂しい気持ちを見せないように頑張るけれど、俺の前でだけは素直になっても良いんだ。悪かった、謝るよ・・・そう伝えるキスであやしてゆくと、拗ねて膨らむ頬がゆっくりと微笑みに変わる。そんな小さな変化を間近で感じられるのが、、すっげ嬉しくて。シーツの海に二人で包まれながら、抱き締め合う時は言葉よりも多く交わすキスで、伝えたい。


「・・・んっ、桐也・・・」


結局は嫌と言えず、むしろ嬉しさに落ち着かなくなるのは、香穂子の言葉がどんどん大きく膨らんでゆくから。ホットケーキ・・・つまりパンケーキはアメリカの典型的な朝食なんだぜ。俺が作る朝食を毎朝食べたいってことは、つまり・・・朝を毎日一緒に迎えたいってことだろ? 結婚している夫婦みたいじゃん。そう思ったら身体中に火が噴き出したみたいに、熱くて目眩がしそうだ。


「おはようのキスで目覚めた朝に、大好きな人が作ってくれる朝ご飯があると、きっと一日が幸せで元気になれるだろうなって思うの。ほら・・・いろいろ疲れて寝過ごしちゃった奥さんの変わりに、旦那さんが朝ご飯作ってくれるやつ。あれすごく憧れなの。帰るまでまだちょっと時間があるし、ね? ダメかな」
「腕の中でそんな可愛いこと言うの、それ卑怯だぞ。またあんたを抱きたくなるじゃん、このまま家に帰せなくなる。色気無いとか言って悪かったよ、めっちゃくちゃ照れ臭いけど・・・嬉しい」


恥ずかしさと拗ねる気持ちを混ぜ合わせた上目遣いで、ちょこんとふり仰ぐ、ひたむきな瞳と向けられる想い。 じゃぁこのまま少し待ってろよ、特別に枕元まで料理を運んできてやるからさ。え、あ〜んって食べさせて欲しいって?
ものすごい威力を秘めた爆弾が、意地も理性も壊すから・・・俺もう降参だよ、やっぱりあんた可愛いぜ。


目覚めた朝にキスと朝食を。でも、俺の手料理は高くつくぜ。どうして?って不思議そうな顔してるけど、だってそうだろ?
あんたの変わりに俺が朝食作る時は、ベッドから動けないくらい、抱いても良いって意味だからさ。