Ocean Breeze



クリームソーダの中にバニラアイスがほんのり溶けたような、優しい青空。空を映す海は、いつもより穏やかな波が白い飛沫を上げながら、いくつも砂浜へと寄せてくる。太陽の光を浴びて反射する波打ち際には、あんたと俺が作った二人分の足跡がずっと続いていて、寄せては帰す波が少しずつゆっくりと、俺たちの跡を消していった。消えた足跡は心に刻まれ、また新しい一歩を二人で歩み出す・・・そう、俺たちの道はどこまでも続くんだ。

海水浴には季節外れだけどボディーボードしている人がいるよと、嬉しそうにふり仰ぐ香穂子の瞳が、沖の波間でボディーボーダーを指さした。アイツらよりも俺の方が上手いって想ってるでしょう、と。後ろ手に組みながら背伸びで身を乗り出す額を、軽く指先で突きながら当然だろと告げれば、知ってるよと自身溢れる笑顔の波が俺を飲み込む。


「えっと・・・波の頂上がピークで、波が崩れそうなところがリップだよね。崩れて白く泡だったところがスープでしょ、斜面全体がフェイスで底の部分がボトムなの。どう?ボディーボードに必要な波のこと、ちゃんと覚えたよ」
「う〜ん、75点。底のボトムは一見平らに見えるけど、実は波が巻き上げるパワフルなポントなんだ。そして波が崩れるリップのちょっと手前、巻き上げるところのカールが、波の中で一番力が強いんだぜ。ターンやスピンとかのテクニックもかけやすく、スピードも出るテクニカルゾーンだけど、同じくらい危険が一杯ってこと、忘れるなよ」
「は〜い! 早く温かくならないかな、海に入りたいの。ヴァイオリン意外に、ボディーボードも頑張るって目標ができたんだもの。桐也と一緒に居られる時間が、増えるよね」


少し先の砂浜にいるのは家族連れか? 小さな子供が無邪気にはしゃいじゃって、まるで俺の隣にいるあんたみたいだな。追いかけた波に飛び込んでしまいそうなくらい、元気にはしゃぐあんたを見守りながら、俺が内心ハラハラしてるの知らないだろうな。自然と緩む瞳と口元のまま名前を呼びかけると、視線で波を追いかける子供に気付いた香穂子の瞳も優しく緩む。

だけど弾けたように俺をふり仰ぎ、桐也ってば今、絶対に私と同じ事思ったでしょう?と。頬を膨らましながら両手を腰に当てて、俺を睨む仕草さえ可愛いと思えてしまうんだ。香穂子はどこにいても元気だし、いつも笑顔だけど・・・気付いてる? 青空の下で思いっきり光を浴びているときが、一番生き生きしてるぜ。波の煌めきよりも、俺はあんたの笑顔が好きなんだ。

香穂子、ほら・・・手。あんた目を離すと、すぐ隣からいなくなるんだもんな。余所見してると、置いてくぞ。


「ふふっ、桐也の手が温かいなぁ。手を繋いでくれてありがとう」
「変なヤツ。それ、お礼を言うところなのか?」
「うん! 嬉しいから、ありがとうの気持ちを伝えたいの。だから、ぎゅっと手を握って離さないでね。桐也ってなんだかんだ言っても、面度見が良いよね。やっぱり“お兄ちゃん”なんだなって思うの。いいなぁ〜幹生くん、こんな素敵なお兄ちゃんがいて」
「よせよ。俺はあんたみたいな妹、お断りだぜ。香穂子が俺の家にきて幹生と一緒にいると、兄弟増えた気持ちになるんだよな。やっぱり香穂子は末っ子って感じ」
「むーっ、酷いよ桐也。手が掛かるお子様だとか、面倒だとか言うんでしょ。こんなに可愛いのに」
「自分で言うか、それ。まぁ確かに手が掛かるけど、そんなのが理由じゃない。俺はあんたと、恋人同士でいたいからさ」


そういうの不意打ちっていうんだよと、真っ赤に顔を染めた香穂子が上目遣いに見つめながら、頬をぷぅと膨らませた。今あんた、俺に惚れ直しただろ? 胸がドキドキしてるの、ちゃんと解るんだぜ。香穂子が照れるのを予想してそう言ったのに、素直に頷かれて大好きなんだもんと真っ直ぐ言われたら、結局俺の方が恥ずかしくなるじゃん。

付き合い始めた冬の頃は、互いに手を繋ぐだけで精一杯だったのに。今はほら、握り締めるだけじゃなくて、指と指が絡んでいるんだぜ。指も数だけ心も一緒に繋いでいるような、一度に5回手を繋ぐみたいだよな。隣にいる距離は同じなのに、あんたの存在を近く愛しく感じるんだ。香穂子はどうだ? 

言葉の変わりに握り締めた手へ、きゅっと可愛く握り返す力と見上げるはにかんだ眼差し。深く絡む指先と、どちらとも無く生まれる微笑みが、恋人同士なんだと教えてくれた。小さなことでもいい、二人のこういう一致って嬉しいよな。


「ね、桐也。最近また背が伸びたでしょ」
「そうかもな、俺、成長期だし。これからまだ伸びるぜ、きっと。もしかして、不意打ちのキスが届きにくくなる、とか?」
「うん、それもあるけど・・・って言わせないで!もう。あのね、桐也がどんどん格好良くなっていくと、私の心臓ドキドキしすぎて壊れちゃうかも。一日二日、たった数日会わなかっただけでも、びっくりすることあるんだよ。今日もね、横顔を見つめていたら、好きすぎてどうにかなっちゃいそうで。じゃぁ一歩後ろを歩こうかなと思ったら、広い背中に釘付けだった。凄いよね、桐也は背中でも私にいろいろ語りかけてくるんだよ」
「もう、いいから・・・。香穂子、あんた少し黙ってて」
「え〜どうして、たくさんお話ししよう? 久しぶりに会えたデートなんだよ。だってすぐ、ふいって視線そらしちゃううんだもん。私、もっと桐也の顔が見たいのー!」


あんたが俺を意識してドキドキしている、その事が嬉しくて俺の鼓動が高鳴り出す。まるで二つの波が重なり合って、大きな波になるみたいに。俺だってすぐにでもあんたを抱き締めたくなるんだと、正直に告げたら・・・ほら。やっぱり真っ赤になって拗ねたじゃん。赤くなった頬のまま小さな溜息を吐く衛藤と、照れながら小さく俯く香穂子を包むのは、二つの高鳴る鼓動と甘い沈黙、そして心を熱くざわめかす波の音。


まだ慣れない甘い空気にじっとしていられなくて、照れ隠しにお互いがそわそわ動き出すのはいつものこと。潮風を胸一杯に吸い込んで、海がキラキラだねと良いながら俺をふり仰ぐ笑顔に、何度目かの鼓動が小さく飛び跳ねた。ふわり靡く髪がスローモーションのように映り、心のシャッターがあんたを捕らえる瞬間。じっと見つめたままの俺をふり仰ぐ香穂子が大きな瞳をパチクリさせた後、見る間に顔を赤く染めるから、その時の俺はどんな顔してるんだろうなって、我に返るといつも思う。


「えっと、あの・・・桐也? 私の顔に何かついてるの・・・かな」
「なっ、何でもない。あんたの顔、くるくる変わって面白いなって、眺めてただけ。ほら、今度は拗ねて赤くなった」
「子供みたいだって言いたいんでしょ。いいもん、子供でも」
「へ〜珍しい。ムキになって言い返すかと思いきや、開き直るんだ?」
「だって桐也と一緒にいると、いろんな事を感じられるし、自然と素直になれるんだもの。桐也には強いところだけじゃなく弱いところも、笑顔も泣き顔も・・・私の全部を見せられるから。ちゃんと受け止めてもらえるのが、嬉しいなって想うの」
「そうやって、無防備な急所を真っ直ぐ突いて、可愛く告白してくるの、あんた卑怯だぞ。その・・・照れるじゃん」


にこにこと笑みを浮かべながら、真っ直ぐ見上げる澄んだ眼差しに、身体中を駆け巡る熱が一気に顔へ集まるのを感じた。強くなれる場所でもあり、弱さを見せられる大切な場所・・・音楽も心も、自分の気持ちに素直になるって気持ちがいいよな。上手く言葉に出来なくて、繋いだ手を握り締めたまま黙った俺を、困ったように見上げる香穂子が、桐也?と背伸びをしながら俺の名前を呼ぶ。


なぁ、知ってるか? 俺はあんたに名前を呼ばれるだけで、心に熱い波が起こるんだ。愛しさと大切な気持ちは、呼びかけてくれた相手だけでなく、受け止めた自分にも。俺の名前は、あんたに呼ばれるためにあるって、そう思えてくる。抱き締められるくらいの近さで、真っ直ぐ俺をふり仰ぐあんたの瞳が好きだから、もっと見つめていたい。いや、見つめるよりも、見つめられたい・・・余所見をせずに俺だけを見ていて欲しい。

好きになったら止まらないって、本当なんだな。
向かう潮風を胸に吸い込むと、海と風のにおいがして、香穂子の香りがする。


「いい香りだな、すごく落ち着く・・・」
「うん!海の香りがするよね。いつも練習する海が見える公園と、桐也がボディーボードするこの海は、同じようでいてやっぱり違うんだね。海も場所によって香りが違うんだなって気付いたの」
「その香りじゃない。俺が言いたかったのは、香穂子のこと。つけてくれたんだな、俺があのとき渡したオーデトワレ」
「そうなの、桐也からもらったオーデトワレだよ。トワレをもらうのは初めてだから、大人になったみたいで嬉しかった。着け方はお姉ちゃんに教えてもらったの、デートの時に着けようって決めてたから。着けすぎないように量を調節したり、場所を選ぶのって難しいんだね。時間と体温の上昇で香りが変わるから、瓶をクンクンするより実際に着ける方が楽しみが広がるんだって」
「どうりでテスターで嗅いだときと、違う感じがすると思った。楽譜がトワレだとしたら、あんたが奏でるヴァイオリンがこの香りなのかもしれない。あんただけの香りになるんだな。ありがとうって言うのも変か、でも嬉しいからお礼を言わせてくれよ。俺もこのトワレの香りが、もっと好きになりそうだ」


似合うかな?と恥じらいながら一歩前に進み出て、甘い眼差しがじっと俺を見上げてくる。お気に入りのワンピースをデートで披露するみたく、くるりとその場で回ると、潮風に乗った香りがふわりと広がった。いつもなら可愛いとか言うのに、本気で心を言葉にしようとすると、どうして上手く言えないんだろう。捕らわれたまま動くことも出来ず、潮風に靡く髪を求めそっと伸ばした筈の手が、指先に髪を掠めると香りの源へ辿り着く。


「なぁ香穂子、もっと近くで香りを確かめても・・・いいか?」
「ん? いいよー。じゃぁもう一歩近付こうかな」


互いの身体が触れ合うくらい近くに迫ると、キスをねだるように瞳を閉じて少し上を向き、首筋を差し出してくる。自分から求めておきながら、素直さに少しだけ困ってしまうけれど・・・あんたって無防備だよな。心よりも正直な身体が求めるままに、華奢な腰を懐深く抱き寄せた。

どこまでも遠く広がる海みたいに、気分が華やいで、ふわっと俺を包むそんな気持ち。海の上にいるというよりも、香穂子と一緒に居るときに感じる俺の気持ちなんだと、改めて気付いた。だからあんたにぴったりだと思ったし、自分でも気に入ったんだろうな。


「ちょっ・・・桐也、あのっ・・・!」
「あんたさっき、俺に会うと格好良くてドキドキするって言ってただろ?」
「うん、抱き締められてる今も、心臓はち切れそうなの。でも桐也もドキドキしてるんだよね・・・感じよ。凄く安心する」
「俺も、香穂子に会うたびに思うんだ。あんた、ここ最近変わったよな。可愛くなったっていうよりも、綺麗になった。ハッとする瞬間があるんだ」
「・・・桐也、褒めすぎだよ。珍しくてびっくりしちゃうよ、今日はどうしちゃったの!?」
「照れ臭いんだから、余計なこと突っ込まずに黙っててくれ。俺だって、たまには正直に言うんだよ」


抱き締められた腕の中でもじもじと身動いでいた香穂子が、驚きに目を見開き、目をぱちくり瞬きしながら見上げている。あんまりじっと見つめるなよ・・・その、照れ臭いのを我慢してでも、あんたに伝えたい気持ちがあるんだ。すぐ傍でうねりを上げる波の音も、うるさくざわめく自分の鼓動にかき消され、二人を包むトワレの香に脳裏が霞む。


顔かたちとかよりも、雰囲気っていうのかな。以前は元気で明るい無邪気な印象だったけど、コンミスとしての覚悟を決めて、コンサートを迎えた頃には変わってた。注目が高まる程、良くも悪くも注目浴びる。視線と期待に応えるべくヴァイオリンの練習を重ね、心の強さを育ててきた。その頑張る強さが表に出るんだろうな。

自分を認め、期待を受け入れそして責任を持つ・・・決意したヤツの顔は、すがすがしくて格好いいって思う。
目元や口元に力が宿って、凛々しくなったよ。綺麗っていうのは、そういうこと。言い慣れないから何だか照れ臭いよな。


「香穂子に贈ったトワレはOcean Breeze、軽やかで心地良い海のそよ風って意味だ。あんたって、温かいそよ風みたいだよな。知ってるか、波の始まりはそよ風なんだ。俺たちの足元に寄せてくる浜辺の穏やかな波も、ボディーボードの波乗りをする大きな波も、元は遠くの海で、そよ風に吹かれて生まれた小さい波だったんだぜ」
「へ〜知らなかった、波も長い旅をしてきたんだね」
「小さな風波がいくつも重なりあって大きなうねりに成長し、岸にブレイクする。あんたは俺の心っていう海に吹いた、そよ風だ。香穂子に出会ったからこそ、俺は自分の音楽を見つめ直せたし成長できたんだ思う。もっと伸びるぜ、あんたも俺も。この香りは、海の上で波に乗りながら感じる風と同じだから。大好きな人に、大好きな場所の香りを着けてもらえるのって、最高に嬉しい」


香穂子にも海の上にいるみたいな気持ちになって欲しくて、あんたに似合う香りを探したのに、香りを一番楽しんでいるのは俺だと思うぜ。香りって特別だろ? 包まれているのは、香穂子だけじゃなくて俺の方かもな。あんたは俺の物だって、主張しているみたいで嬉しいんだ。

真っ直ぐ真摯に、吸い込まれそうに大きな瞳を見つめながらそういうと、吐息にかき消されそうなくらい小さく俺の名前を呟いてく。透明な涙が潤み始めた瞳を隠そうと、きゅっと胸にしがみつきながら顔を伏せてしまう。泣いてるのか!?と驚くよりも早く、泣いてなんか無いよ嬉しいのと、くぐもった声が直接胸に響いてきた。

落ち着かせたくてそっと背中をあやしながら、最初に抱き締めたのは俺なのに、こうしてしがみつかれると鼓動が張り裂けそうになる。これじゃあんたか俺、どっちがあやされているのか分かんないじゃん。穏やかな呼吸を導くように髪を撫でて、ポン・・・ポンと背中をあやすうちに、ありがとうと声が聞こえてちょこんと懐からふり仰ぐ。


「・・・あのね、えっと・・・恥ずかしいから一度しか言わないよ。私もねこのトワレを着けていると、桐也に抱き締められたみたいに、温かい気持ちになるの。一緒にボディーボードしたときに感じた海の心地良さとか、ヴァイオリンを聞いているときの華やかな気持ちに似ているよね。だからね今、桐也がくれた香りと桐也の温もりと・・・二つに包まれて幸せだよ」


もっと抱き締めて、離さないでね。そう腕の中からふり仰ぎふわりと微笑む瞳が、心地良く軽やかなそよ風になる。だけどそよ風は小さな波を幾つも生み出し、大きなうねりを作り出すんだ。ボディーボードに乗る目の前に広がる青い海だけでじゃなくて、あんたと俺の心にもね。


なぁ香穂子、トワレはどこに着けているんだ? え、恥ずかしいから秘密?
教えてくれないのなら、俺があんたの身体の中から見つけるけど、いいよな。抱き締めたこのまま、離さずに。

驚きと戸惑いに揺れる眼差しが、数秒後には火を噴いたように真っ赤に染まった。それでも反らせない眼差しを向けたまま、瞳に俺を映して確かな意志を伝えてくる。言葉はなく、一度だけ小さくコクンと頷くのを合図に強く抱き締めて、唇で想いを伝えるよ。あんたがくれた微笑みと浮き立つ気分を、温かに包み込むキスに乗せて。