入浴剤


君に贈り物がしたい・・・そう思ったときが、俺たちの記念日なのだと思う。街中でふと足を止めたポスターの宣伝文に影響された訳ではないのだが、心にすとんと落ちた優しい言葉の滴が、君の笑顔に似ていたんだ。煌めきの波紋がじんわり広がる、優しい温もりに押されながら踵を返し、自然と足は家路と反対にあるショッピングストリートへと向かっていた。

相手の好みを考えたり、笑顔を想う気持が込められれば、それはもらう方にも贈る側にとっても、世界でたった一つの贈り物となる。君からもらう贈り物がいつも嬉しいのは、俺を想う温かな優しさが詰まっているからなんだ。形がある物から無い物まで・・・いつももらってばかりだから、俺からも何かありがとうを返したい。

誕生日でも記念日でも無いけれど、贈りもをしたら君は驚くだろうか。不思議そうに首を傾げ得るかもしれないが、香穂子と過ごす何気ない毎日こそが大切な宝物。それに贈り物といいつつ、本当は俺が君と一緒に楽しみたいから。鞄の中でカタコト踊る二つの贈り物たちは、早く手渡したくて逸る気持ちを奏でてくれているのだろう。




夕食の片付けを終えた香穂子がエプロンを外すと、リビングのソファーへ座る俺の元へ、子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。パタパタと元気の良い足音を合図に、背中へ隠していた贈り物をそっと取り出し傍らに置く。すると飛び込む勢いのまま隣へポスンと腰を下ろし、ソファーのスプリングも弾む心を伝え、楽しげに弾み歌い出すんだ。

甘えるように寄りかかりながらふいに腕を掴み、何をしていたの?と、上目遣いにじっと見つめる君に鼓動が高鳴る。スキンシップは会話と同じく大切なのだと主張する彼女は、無防備な時に限ってぴったり触れてくる・・・きゅっと掴む指先が熱く俺を焦がすのだと、君は知っているのだろうか。


「香穂子・・・その、君に渡したい物があるんだ。誕生日ではないけれど、君が喜びそうなものを見つけたから」
「蓮からのプレゼントで、私が喜ぶ物? ん〜何だろう・・・あっ、もしかして! 目を瞑っている私に、ちゅっと甘いキスの贈り物かな。食後にはやっぱり甘いデザートだよね、ねっ当たりでしょう!?」


人差し指を顎に当てて上を向きながら、答えを考え込む香穂子がぱっと瞳を輝かせた。嬉しそうに身を乗り出しながら、俺のキスが欲しいのだとそう言って、瞳を閉じながら唇を差し出す仕草に、薄皮一枚の理性は脆くも崩れそうになる。本当の贈り物は別にあるのだが、欲しいと言われたら拒む理由もない。背を抱きしめ抱き寄せながらキスを重ね、角度を変えながら柔らかな唇の甘さを何度も啄んで・・・これでは俺が贈り物をもらうみたいだな。

名残惜しげに唇が離れれば、桃色に染まった頬と熟れた唇から零れる、ほうっと甘い吐息が心を熱く溶かすんだ。くってりともたれかかる小さな重みを受け止めるながら、優しい余韻に浸る微笑を見つめる幸せなひと時。だが 一息ついた後に、彼女はバスタブに湯を張りに風呂の用意をしに行ってしまうから、渡すのは今しかない・・・。ソファーの背に隠していた紙袋を取り出すと、顔に集まる熱と高鳴る鼓動を必死に沈めながら、香穂子へそっと手渡した。


「香穂子、これを君に・・・気に入ってもらえると、嬉しい。香穂子は入浴剤が好きだろう? 収録をしたスタジオの近くで、君が好きそうな入浴剤を、多く揃える店を見つけたんだ。もし良ければ、今度の休日になったら一緒に見に行こうか」


香穂子は毎日のバスタイムに、大好きな入浴剤を欠かさない。そんな君の為に選んだのは、バラの花の形をした小さな容器に入っている、透明なバスジェルだった。色はブルーベリーの香りがする青と、甘酸っぱいラズベリーの香りがするピンクの二種類。手渡した花のバスジェルに、頬を桃色に綻ばせてはしゃぐ香穂子の笑顔が、俺の心にも優しい花を咲かせてくれる。

香穂子の好きなものが、いつの間にか自分も好きになっていたり、考え方も近くなっていることに最近気付くことがある。分かち合ううちに、君も同じ好みを持ってくれていた事も・・・。最初は店に入るのも気恥ずかしかったが、あれこれ手にするうちに、楽しそうに迷う君の笑顔が浮かんできたり、どれが好きだろうか・・・この香りは気に入るだろうかと真剣に選んでしまう自分がいた。


「蓮、ありがとう! バラの形をしたバスジェルがとっても可愛いね。ピンクと青それぞれ一つずつだけでも可愛いけれど、二つが揃うともっと素敵なの。それにね、ちょうど入浴剤の買い置きが無かったから助かったよ。言葉にするのは大切だけど、形にしなくても私の好みや考えがちゃんと蓮に伝わるって、やっぱり心が繋がっている証なのかな」
「香穂子は青い色を俺のようだと言い、無邪気で優しいピンク色は君の色だ俺は思う。いつしか俺たちの色になったこの二色が、心地良い音色を奏でる仲睦まじい姿は、まるで俺たちのようだと思わないか?」


君がいない時には寂しさを感じるように、どちらか一色だけでは青やピンクのバスジェルたちも寂しがる・・・二つ揃えば楽しみも二倍に広がるのは俺たちと同じだ。そう思わないか?と、バスジェルを二色揃えた理由を聞かれたときに、ほんの少しだけ緊張に高鳴った鼓動を微笑みで隠して。甘い吐息で瞳を潤ませながら、二色の花に俺たちを託したバスジェルを想いごと胸に抱きしめる愛しい君ごと、もう一度腕の中へ閉じ込め優しいキスを届けよう。


香穂子が新しい入浴剤を試すときには、まずは自分一人だけでゆっくり入浴剤の水色や泡を楽しむのが、いつものバスタイムだ。香穂子を思わせるピンク色のバラ一つでも良いかと思ったが、一つだけだと俺も一緒にという希望が叶わなくなるかも知れない。「私と蓮みたいだね」と、二色が揃うたびに嬉しそうに語る君の笑顔が見たかったのも本当の気持に代わりはない。

入浴剤の買い置きが無いとは予想外だったが、何とタイミングが良いのだろう。壁に掛けられた時計を見れば、いつもならそろそろ風呂に入る時間だ・・・気に入っているのなら、彼女は今晩にどちらか一つを使うはず。

だが、何よりも夫婦一緒にバスタイムを楽しみたかったのだと、密かな願いに気付いているだろうか。直接告げると恥ずかしさに顔を赤く染めて、いつも風呂に入る前に家のどこかへ隠れてしまう・・・それに。だいぶ慣れたとはいえ、香穂子は色つきの入浴剤が無いと、一緒の風呂を恥ずかしがってしまうから。


青とピンクのバスジェルに瞳で語りながら視線を交互に彷徨わせ、どちらを使おうかなと悩む表情の一つ一つに、期待と不安で高鳴る鼓動が止められない。僅かに身を乗り出しつつ、ならば一緒に・・・とそう言いかけたときに、真っ直ぐ意志を決めた笑顔が真っ直ぐ振り仰ぐ。


「ピンクにするか青を先か・・・どっちを使おうかすごく悩んだけど、やっと決めたよ。しばらくは使わずにどこかへ飾って、大切にバスジェルのお花を眺めていようと思うの」
「・・・使わないのか!?」
「うん! だって使うのがもったいないくらい、可愛いんだもの。だから・・・その、今日は一人ずつ別々にお風呂に入ろうね。お湯が透明だと恥ずかしいもの。入浴剤を入れるのは、泡や香りが好きなのもあるけど・・・その、ね。抱きしめてくれるお湯の中や互いの身体を隠してくれるからなんだよ・・・」
「・・・俺は香穂子とこの入浴剤を使い、一緒に風呂を楽しみたい。駄目だろうか」


だから入浴剤が無いときにはお互い別々にシャワーを浴びるのだと、負けじと彼女も主張する。嘘をつかない、挨拶を欠かさない、喧嘩をしてもベッドは一緒に。一緒に暮らしたらお互いに守る約束の中で、一緒に風呂に入るというのあっただろう? いや・・・その、最後のは殆どは俺が主張して、香穂子を納得させたんだが。

隣に座る香穂子と正面から向き合えるように身体を捻り、迫る勢いを微かに残された理性で留めながら、瞳の奥を真摯に見つめる。正直に想いを伝えれば、予想通りに顔から火を噴き出し、耳から首筋まで真っ赤な茹で蛸になった君。ごにょごにょと語尾を濁らせながら小さく俯き、手の中で二つの入浴剤を握り締めていた。君の熱が俺に飛び火して熱い炎を生み出す・・・溶かされてしまいそうだ。

照れ臭いことを言っているのだと、俺だって分かっている・・・だが伝えたい想いがあるんだ。香穂子だって新しい入浴剤を手に入れたときには、一緒に楽しもうねと言ってくれるじゃないか。俺は、その想いが凄く嬉しかったから、今度は君にも感じてもらいたい。二人で過ごすバスタイムだけでなく、湯上がりの温もりを逃がさない、心と身体を溶け合わせるその後のひと時までも。


「ブルーとピンク色の二つが揃っているから可愛いし、お花も喜んでいるのが分かるの。でもどちらか一つを使ったら、片方が寂しがると思うの・・・蓮もそう思ったから、二つ一緒にプレゼントしてくれたんでしょう? 私も蓮が演奏旅行で留守の時は、寂しい・・・ベッドでいつも蓮の枕とかパジャマを抱きしめているんだよ」
「大切に想ってくれる香穂子の気持は、とても嬉しい。だがその・・・中身が無くなったら同じ色のバスジェルを容器に詰め替えれば良いじゃないか。いっそ二つを同時に使うという方法もある、混ぜたらどうなるか俺にも分からないが」
「同じ色のバスジェルをこれから探さなくちゃ。こんなに綺麗な色の入浴剤は、この近くで見たこと無いんだもの。きっと蓮が心を込めて選んでくれたからだと思うの、どれも代わりにはなれないよ。それにね、心はいつでも蓮で満たされたい・・・あなたの心も私でいっぱいに満たしたい。中身が少なくなると、心にぽっかり穴が空いた切ない気分になるの」
「香穂子・・・」


可愛いから気に入ると思ったが、大切すぎると使えなくなってしまうのだな。ピンク色が香穂子でブルーは俺と、バラの形をした二色のバスジェルに俺たちを重ねたから、余計に使えなくなってしまったのだろう。海を隔てた留学の数年を耐えて、共に過ごせる今がある・・・一緒に過ごせる幸せを感じるのは、離れる辛さを知っているからこそ。
もう二度と君と離れない、掴んだこの手を離しはしない・・・そう誓う想いは俺も同じだ。


潤みを湛えた光る泉の眼差しが、ひたむきに俺を見つめる。受け止め見つめ合う、長いようで短い一瞬が過ぎ去ると、しゅんと力なく俯いてしまった。悲しませたい訳じゃない・・・喜んで欲しくて、大好きな笑顔が見たくて選んだのだから。
使わずに眺めたいと言うのならば、その願いを叶えたい。

だがこれは困ったな、俺たちにとってバスタイムは、大切なふれあいのひと時なのに。
一度決めたらどんな事があっても信念を曲げない強さは、良いところでもあるし困ったところでもある。
どうしたら、香穂子に入浴剤を使ってもらえるだろうか。


「例えばの話だが・・・。香穂子は、人にの手で弾かれる事の無く、ただのコレクションとして飾られているヴァイオリンを見たら、どうう?」
「可哀想、寂しいって思う。ヴァイオリンは気持ち良く歌いたいと思うの、、音を奏でたがっているに違いないもの。私ね、ヴァイオリンが大好き。自分も楽器と一つになって、一緒に音楽を奏でるのが楽しいよね。弾いているとヴァイオリンも喜んでいる声が、私の中に響くんだよ、蓮もそうでしょう?」
「あぁ、俺も感じる・・楽器の喜びと俺の心がそれぞれの弦を震わせ、音となり心へ響く音になるんだ。君が手にしている入浴剤も、ヴァイオリンと同じ気持ちではないだろうか」
「え? 青とピンクのバラの形をした、この二つのバスジェルも?」




「香穂子とバスタイムを楽しく奏でるために、使ってもらうのを待っているのではないだろうか。お湯と戯れる楽しそうな笑顔が見られない、その方がきっと悲しむと俺は思う・・・もちろん俺も。本来の役目通りに使うのが、彼らにとっても・・・俺たちにも幸せだと、そう思わないか?」
「そっか、そうだよね。私自分の事しか考えてなかった、蓮に言われて初めて気付いたの。一緒に楽しもうねって想いを込めてくれた蓮の気持とか、入浴剤さんたちの気持とか。でも一人になったら寂しいよね、どっちの色から使ったら、相方が寂しくならないかな」
「ピンクがラズベリーで、青がブルーベリーの香りだったな。どちらも同じ系統だから、両方を混ぜたらどうだろうか? 俺たちの音色が重なり溶け合うと、全く新しいもう一つの音色が生まれるだろう?」


心が溶け合う音色を重ねるのは、とても心地が良いんだ。君の色でありながら俺の色でもあり、どこからが俺で君なのか分からないくらい、境目が無くなるのを感じる。隣に並び優しい穏やかな空気を溶け合わせている時のように、身体の中から光と温もりに包まれる感覚にも似ているな。湯船に身を浸したせば、心も身体もゆったりと解放され、きっと幸せな気分になれると思う・・・君と一緒だから。


驚きに目を見開いた香穂子が、雨上がりの澄んだ眼差しでふわりと微笑み、こつんと肩先にもたれかかってくる。手の中で握り締めていた二色のバスジェルを、俺にも見えるように目の前に掲げ、透き通る二つを重ね合わせながら色合いを楽しんでいた。淡い紫とは違うな、青であったりピンクが強かったり・・・綺麗だねと囁く甘い吐息が、お湯もこんな色になるのだと嬉しそうに心を震わせてくれる。

光の加減によっては、青とピンクが綺麗なグラデーションとなって混ざる、不思議な色合いを写していた。まるで、互いに支え導き合う俺たちのようだな。君の言うように、こうして眺めて楽しむのも、確かに悪くない。


「香穂子、どちらか一つだけを使っても、寂しくない方法を思いついたんだ」
「え! それはどんな方法なの!?」
「心の器には溢れるほどに、君の想いを満たしていたい。だが例え中身が少なくなっても、心が満たされない寂しさとは違う。使った分は俺たちの心と身体の中へ染み込んでいる証、大切な時間をどれだけ分かち合ったかを、目に見える形で現してくれると、そう思うのはどうだろうか」
「なるほど! さすが蓮だね。考え方を変えるだけで、寂しさが楽しみに変わるなんて素敵。あ・・・でも減った中身の分だけ、バスタイムを思い出すから恥ずかしくなりそう・・・」


答えを求め、好奇心一杯に身を乗り出してきたが、瞬く間に見えない湯気を登らせ、胸の中へしがみついてしまう。
湯船のお湯と泡と、お互いに甘く蕩ける熱いひと時を思いだし、湯上がりのように火照り出す身体の熱が、甘く優しい香を立ち上らせた。体温が登るほどに吸い付く肌と媚薬の香りに、脳裏が痺れ酔わされそうだ。


それに・・・と、抱きしめた香穂子の耳元に唇を寄せ、二人だけの内緒話を囁けば、ぴくりと身体を震わせる。暫く黙った後に小さく頷き、抱き締めた胸の中からこちらが良いのと差し出した花は、青く透明なバスジェル。ちょこんと上目遣いで見上げながら、俺の色に染まりたいのだと心に爆弾を落とし、恥ずかしさに耐えるように、きゅっと強くしがみついてしまう。


万が一どちらかを先に使っても、もう一方はまたすぐに使うことになる。眠る前にシャワーを浴びても、ベッドの中では、たくさん汗を掻くだろう? 翌朝にシャワーを浴びた時に、もう一つの色を使うから。

心も身体もゆったりと解放できるバスタイムは、大切な人との時間をさらに楽しく心地良いものにして貴重な時間。より親密に、そして初めて恋した新鮮な気持ちをいつでも忘れないために・・・計り知れない効果を生むのだと、教えてくれたのは君だ。入浴剤はお湯を染めるだけでなく、俺たちをも恋色染めるエッセンスなのだな。