伸びる影はいつも2人分

家の中で過ごすのも良いけれど、外にはもっと素敵なものが沢山溢れていると君が教えてくれたから。
だから目に見えるもの、見えないものたちを・・・一緒に見つけに行こう。
俺たちがお互いを誘う時に一番多く使うフレーズは、「映画を見に行かないか」でも「食事に行こう」でもない。

それは -------散歩に行かないか?
気分転換にもなるし、何よりも君と語らうのに最適だから、ゆっくり時間をかけて森や街中を散策するんだ。


留学中から引き続き生活の拠点にしているドイツでは、街中でも運河や森など自然が溢れていて、自宅近くにも散歩に適した場所が沢山ある。山の無いドイツの森はどこまでも平らで、中に脚を踏み入れれば2〜3m幅のよく整備された散歩道が縦横に走っている。足元を気にせず歩いていられると香穂子は嬉しそうだが、その分周りの景色に目を奪われてはしゃぐ君が転ばないようにと、俺には別の心配があるけれど。


所々にベンチと流れる運河や川、小さな湖があって・・・緑と水が俺たちに憩いと安らぎを与えてくれるのだろう。大きな木々の木漏れ日が優しく包む景色の中で、ベンチで読書をする人や一人川面に魅入る人、そして森の散歩道をゆっくりあるく俺と君。

木々の隙間から飛び立つ鳥に声を上げて指差し、楽しそうに頬を綻ばせている香穂子を見つめながら、繋いだ手を握り締める。すると返事のように絡めた指先にきゅっと力が込められ、嬉しそうな笑顔で振り仰いだ。


「散歩って素晴らしいと思わない? お財布の中身と相談しなくても、ただ歩くだけで素敵な景色の中を一日楽しめるんだよ。それに身体だけじゃなくて心の健康にも良いよね、特に恋の心にイイみたい。だって散歩とはいえ、これもデートには変わりないでしょう? 目に見える景色がキラキラして、駆け出しちゃいそうなの」
「一人ではなく、香穂子が一緒だから楽しいんだ。静かで景色は綺麗だし、隣に寄り添う君がいる・・・愛を囁くには舞台が揃っているな。では君が飛んでいかないように、しっかりこの手を繋いでいよう」


繋いだ腕ごと攫うように彼女を引寄せ、肩先からぴったり身体を触れ合わせる。すると一瞬驚きに大きく見開らかれた瞳が、やがて赤く染まっていく頬と共にはにかんだ微笑みに変わっていった。引寄せられるままに肩に埋めた顔は離さず身体を預けてもたれかかりながら、甘えるように額と頬をすり寄せて。


君の手に心を掴まれ逸り出す鼓動と呼吸を押さえながら、優しく見守る微笑が熱く変わりかけたその時に、タイミングよく現われるのが二つに分岐した分かれ道。いったん立ち止まってどちらへ行くかと視線で問えば、と視線を上げてこちらだと繋いだ二人の手で元気良く方向を指し示してきた。



激しく燃える灼熱の夏が終わり、季節は秋へと向かっている。日中はまだ暑さを感じても、吹き抜ける風の囁きが秋の気配を伝えてくれる。囁きが呟きへと変わり、はっきりとした語り掛けになった頃には、今は緑に覆われたこの森も赤や黄色の鮮やかな錦に覆われるのだろう。そう思いながらさわさわと奏でる葉の音に耳を済ませていると、呼びかけられるように繋いだ手が軽く揺すられた。


「蓮・・・どうしたの、急に遠くを見つめちゃって。ひょっとして私ばっかり話しているから、煩いって呆れちゃった?」
「すまない、違うんだ。もう秋なんだなと、そう思っていたんだ。今もほら・・・草の間から虫の声楽家達の歌が聞こえるし、朝や晩などは涼しいから肌寒くなっただろう?」
「・・・本当だ! 蓮とおしゃべりに夢中で気が付かなかったけど、聞こえるね。私もね、風とか空気が変わったなって思ったんだよ。冬から春は花が咲く事で分かるけど、秋から冬は雪や氷で感じるよね。でも夏から秋って、足元の可愛い草花や虫たちが教えてくれるっていうのもあるけど、何よりも空気の爽やかさが違うと思うの」
「季節の変わり目は、言葉では表現できない何かを感じるな。だから気配というのだろうか。こうして季節の移り変わりを君と感じる事が出来て、俺は嬉しい。毎日こうして日々を過ごしている、積み重ねだと思うから・・・」


食べ物が美味しくなるよねとか、お洒落も楽しくなる・・・紅葉を見にいっぱいお出かけもしようなど。これから来る秋に想いを馳せながら高く澄み渡る空を見上げた香穂子は、もう秋なんだねと遠い目をして呟いた。

あれもしたいこれもしたいと次々に繰り出される秋への期待は、彼女が叶えたい望みでもあるのだろう。
彼女の望みは俺の望みでもあるから、出来る限り叶えたいと思う。滅多に我がままや自分からねだる事をしない彼女は、私は平気だとすぐに遠慮をしてしまけれど、俺の望みはいつだって叶えてくれるから・・・。


君が俺の話を聞いてくれるから、俺も毎日たくさん話をして心を透明にする事ができる・・・何度でも君の色に染まれるように。他の誰にも話せない事も、君になら話す事が出来るんだ。家の中だと改まってしまう話も、外で散歩をしながらだと心のまま素直に言葉に出来るから、今なら自然に聞き出せるかも知れない。
君の話も、もっと聞きたいと思う・・・どうか包み隠さず俺に聞かせて欲しい。


「香穂子は今、欲しいものがあるか?」
「急にどうしたの、誕生日や記念日でもないのに」
「いや、深い意味は無いんだ・・・その、君の考えを聞いてみたくて。季節の変わり目だし、いろいろあるだろうと思ったんだ。ただ過ごすよりも、欲しいものに向けてお互いに目標があった方が充実するし、思い描くのも楽しいだろう?」
「私、秋ものの洋服が欲しいな。この間ね、蓮にぴったり似合いそうなシャツを見つけたの!」
「・・・それは香穂子のではなく、俺のじゃないのか? その・・・香穂子自身のもので、何か無いだろうか?」
「それ着て一緒にお出かけしたら楽しそうだし、私が欲しいものに変わりはないんだけどな・・・蓮も気に入ってくれたら嬉しいのに。うーん、私のもの?」


特に無いかな〜とそう言って小さく唸りながら、眉を寄せて深く考え込んでしまう。無理に探さなくても良いんだが・・・と慌てて止めたのと、パッと瞳を輝かせて飛びつくように振り仰いだのはほぼ同時だった。


「あったよ、今すっごく欲しいもの! 私ね、料理に使う鍋が欲しいかも。圧力鍋!」
「圧力鍋? 危なかったり、取り扱いが難しくは無いのか?」
「簡単だよ。この前お隣の奥さんに、美味しいビーフシチューの作り方を教えてもらったの。圧力鍋を使うと、お肉がフワフワに溶けそうなくらい柔らかくなるんだよ。蓮は私の作るシチューが好きって言ってくれたじゃない。これから寒くなるし、他にもたくさん蓮の為に美味しい料理が作りたいな」


笑みを咲かせて俺を見上げる香穂子には一点の曇りもなく真っ直ぐで、それが本当に香穂子の望みだと告げている。主婦をしている彼女には、料理道具も同じくらい大切に違いないと思うのだが・・・服や宝飾品など自分の為という考えは無いのだろうか。

いつも自分より俺の事を考え想ってくれる気持に、胸が熱くなる。君の心の中に、ちゃんと俺がいると教えてくれるから嬉しくなるんだ。だがこれでは彼女の望みを叶えると言うより、俺の望みを叶えると言ってもいい。


困った微笑を向ける俺の想いを察したのか、無邪気に笑っていた笑顔がすっと切なげなものに変わる。少女のようだったそれまでとは違い、大人の色香を漂わせる眼差しに惹かれ、鼓動ごと俺を包む時が止まったように思えた。


「蓮の気持がとっても嬉しい、言いたい事も分かるよ。でもね、私が本当に欲しいものはお金じゃ買えないの。こうして蓮と一緒にのんびり過ごせる事・・・この時間と温もりが何よりも大切だから」
「香穂子・・・・・」
「私が欲しいものは、蓮が私にくれる心からの笑顔・・・。その為には、私が自分で何かをしなくちゃ駄目なの」


じっと俺を見つめてそう言いうと、繋いだ手をそっと解き、腕に絡めてきゅっとしがみ付いてきた。
温かさと柔らかさにホッと心が安らぐのは、君を包む優しい空気が俺の中へ入ってくるから。
知らず知らずのうちに入っていた力が抜けて、飾らない自然のままの俺になれる・・・自由になれるんだ。
君の纏う空気や雰囲気は、俺にとっても大切なもの・・・共に過ごすこの時間のように。

心をそのままを映した澄んだ泉のように輝く大きな瞳に微笑みかけ、ゆっくりだった歩みを一旦止める。
前に回り込むように身を屈めると、じっと視線で捕らえ追う香穂子の唇に、触れるだけの軽いキスを降らせた。


「ありがとう、香穂子。どの季節を共に過ごそうと、俺が欲しいものも君の笑顔だ。これから秋を経て冬になるけれど俺たちの家とお互いの心は温かく、笑顔で過ごせるようにしたいな。その為に必要なものを、少しずつ一緒に探して揃えよう」
「じゃぁ今度の休日は、街を散歩しながらお店巡りをしようよ。ウインドーショッピングも楽しいから、別に直ぐに揃えなくてもいいしね。どんな家にしようか、どう過ごそうかって考えるとワクワクする。そうなったら、お出かけ前に二人で考えを纏めて話し合わなきゃ。どうしよう、今夜はまた眠れないかもだよ」


受け止めたキスが頬をほんのり赤く染めて、はにかむ笑みも愛らしさが増して見える。見つめる俺の頬も綻んでいるのに気付くと、何だか無性に照れ臭くなり・・・。そんな俺に君はしがみ付いた腕を支えに背伸びをして、お返しのキスを頬に降らせてくれた。

語り合って眠れない・・・といより、別の意味で君を眠らせてあげられないかもしれないが。

熱さを感じる顔を反らして見上げる遠くの空には、青みの中に薄っすらとオレンジ色が混ざり出していた。
夏の間は夕日が沈んでも暫くほの明るさが空に残っているが、秋が深まるに連れて日没後は急速に暗くなってしまうだろう。秋の夜長をどう過ごすかの楽しみが、また一つ増えたな。


「随分長い時間歩いたな・・・香穂子、疲れてないか? だいぶ日が短くなったな・・・風も冷たくなってきた。きっともうすぐ日が暮れる、そろそ帰ろうか」
「もっと歩けるよって言いたいけど、本当はちょっと歩き疲れちゃったかな」
「では帰りにカフェに寄って、少し休もうか。心と唇だけじゃなくて、お腹の中にも甘いものが欲しいだろう?」
「本当、やったー! 秋のメニューが出たのをこの前チェックしておいたの。凄く美味しそうだったから一人で食べちゃおうかと思ってたんだけど、蓮と一緒じゃなきゃ意味が無いから我慢してたの。ねぇ、早く食べに行こうよ!」


嬉しさを弾けさせて俺に飛びつき、しがみ付きながら飛び跳ねる香穂子に、思わず体勢を崩しかけるが何とか耐えて持ち応え。背中をあやして宥めれば、ごめんねと小さく肩を竦めて愛らしい舌をペロリと出した。


「・・・・・・・・っ!」


----------美味しいクーヘンよりも、とびっきり甘い蓮が大好きだよ。
嬉しさを抑えきれない内緒話のように耳元に添えられた両手の中へ、吹き込まれた熱い吐息が告げた言葉。
それが俺の微笑を生み、甘い心地良さとなって染み渡ってゆく。

俺も君の笑顔の為に何かしたいと思うから・・・君と同じように。


歩き疲れたら木陰のベンチで緑の空気を・・・あるいは柔らかい芝生の上で香穂子の膝で横になりながら太陽の日差しを浴びて寛ぐのもいい。ゆっくり流れる時間の中で散歩しながらお互いに感じた事や想う事、時には悩みを打ち明けあったり、未来を描きながらこれからを話し合ったり。帰りにはカフェに立ち寄り、香穂子の好きなクーヘン(ケーキ)とコーヒーを味わって帰る・・・それだけでとても幸せな一日になるんだ。


君がいて、俺がいる----------。
穏やかに流れる静かな空気の中で、自分と君に向かい合える時間を大切にしたい。
二つ並んでいた足元の影が一つに寄り添い重なって、長い影を落としていた。