人気者の君に焼く
君が他の誰かに笑いかけたり、話をする・・・もちろんそれは当然のことなのに。楽しそうに綻ばせる笑顔を遠くから見ていると、胸の奥が苦しいほど軋むのはなぜだろう。君を知り恋をするまでは、こんなにも日々心が乱れることはなかった。煌めく澄んだその瞳に俺だけを映して欲しい、余所見をしないで欲しい・・・。燻る炎が身を焦がす苦しさに喘ぎながら、求めるのはただ一人の君だけだ。
どんな人ごみの中でもすぐに見つけられるが、声をかけようとするよりも早く攫われてしまう。気付いていないだろうが、君は多くの人を惹きつけているんだ。それだけでなく優しい君は他の誰かのためにと、親身になって学院を走り回ったりもする。捕まえたと思っても、ふいに俺の手をすり抜け空高く羽ばたいてしまう・・・。頬笑みと同じ柔らかな温もりではなく、虚しく空を掴んだ手を強く握りしめながら、何度踵を返しただろうか。
輪の中に入って君を連れ去れたら、どんなにか良いだろうかと思う。どこへも行かないように、俺だけを見つめてくれと腕の中に閉じ込めたい・・・それが独占欲だと気づいたのは、つい最近のことだ。
放課後の練習室で、約束の時間よりも遅れている香穂子を待ちながら、ヴァイオリンを弾いていた。だが隠していても、乱れる感情は音に伝わってしまうらしい。弦を滑らせる弓を止めて楽器を肩から下ろすと、何度目か分からない溜息を零しながら、棚に乗せたケースの上にヴァイオリンを置いた。息を深く吐くと心に溜まったものが吐き出されて落ち着くというが、余計に胸の奥が燻る気がする。こうして待っている間にも、君は他の誰かと過ごしているかも知れないのだから・・・。
気分転換に空気を入れ替えようと窓辺に歩み寄ると、重い木の扉がノックされ、はめ込まれたガラスに香穂子の姿が映った。それまで沈みがちだった灰色の心が、一瞬にして青空へと変わった自分の単純さに思わず苦笑してしまう。どうやら俺の演奏が終わるきりの良いところまで、入室を待っていてくれたらしい。ガラス越しに小さく手を振ると、ゆっくり扉を開けてヴァイオリンケースを持った身体を滑り込ませてきた。
額には薄く汗が光っており、頬がピンク色紅潮しているのは練習室まで急いできた証。
壁際にある棚の下へ鞄とヴァイオリンケースを置くと、窓際へ佇む俺の元へ軽やかに走り寄ってくる。だがいつもは飛びつくくらいの勢いで笑顔が弾けるのに、今日は懐から心配そうに振り仰いでいた。手を伸ばせば、すぐにでも抱きしめられる近さで。
「遅かったな、香穂子に何かあったのかと心配した」
「蓮くん、遅れてごめんね。すぐに練習室へ来ようとしたのに、いろいろと用事を言いつけられたり捕まっちゃったの・・・蓮くん怖い顔してどうしたの? 怒ってるの? さっき弾いてた曲ちょこっと聞こえてきたけど、八つ当たりしているみたいで蓮くんらしくないよ。ヴァイオリンが可愛そう・・・・って、あ!もしかして私が遅刻したからかな?」
「・・・遅れたことを怒っているんじゃない。感情を抑えきれない、俺自身が許せないんだ」
「蓮くん、とっても苦しそうだよ。私じゃ力になれないかもしれないけど、もし良かったら話を聞かせて? 嬉しい事を話すと喜びが二倍になるけど、辛い事や寂しい事を分かち合えば、心の重みが半分に減るって思うの」
そっと伸ばされた香穂子の手がジャケットの裾を掴み、ひたむきに見つめながらきゅっと握りしめてくる。軋んでいた心を包み込んでくれるような甘い痺れに襲われ、言葉を告げるよりも早く腕の中に攫い閉じ込めていた。触れてしまった温もりが、薄皮一枚で堪えていた理性の壁を崩すのは容易い。驚いて目を見開く香穂子の背をしなるほど強く抱きしめ、肩先に顔を埋める・・・。温もりによって更に鮮やかさを増す花の香りを吸い込めば、俺だけの安らぎが充ち溢れ、甘い媚薬が脳裏を霞ませる。
演奏に対する努力と楽器の間には、デリケートなバランスが必要だ。例えば楽器に無理に音を出させようとする演奏者は、楽器を生かすことができない。強すぎる個性や感情が、人間関係を妨げるのにも似ている。まるで一方的にぶつけているだけでは、相手だけで無く自分の笑顔さえも生み出せないように。
歌いたいと望むヴァイオリンの願いを叶える為に、楽器の魅力を最大限に引き出す技術や練習が必要だ・・・それなのに。制御できずにいた激しい感情を音に乗せ奏でていた事を、一番気付かれたくなかった君に指摘され、自己嫌悪に浸るしかない。だが抱えていたままでは壊れてしまう、伝えたい想いはここにある。
「やっと、君を捕まえた・・・放課後になった時から、ずっと追いかけていたんだ」
「蓮くん・・・?」
「すまない、少しだけこのままでいさせてくれないか? 香穂子が俺の元にいることを、感じさせてくれ」
「う、うん・・・いいよ」
腕の中にすっぽり収まった香穂子は、身じろぎもせずに大人しく身を預けてくれている。ちょこんと見上げる頬を桃色に染めながら小さく頷くと、俺の背中へ腕をまわし抱きしめ返してくれた。
遅れた理由も全て知っていたし、本当は俺もその場にいたんだ。君を想うからこそ、独占欲で激しく乱れていたというのに・・・心の底から純粋に心配してくれる優しさが、泣きたいほどに心へ沁み渡る。理由を伝えたら、きっと君は呆れ果ててしまうだろうか?
「用事があって普通科校舎に立ち寄ったから、香穂子の教室まで迎えに行ったんだ。だがちょうど金澤先生に呼ばれた君が、教室を出るところだったんだ。君の友人に教えられた音楽室を訪ねたら、火原先輩に連れられて走り去ってしまった。金澤先生の言葉通りに購買へ行けば、今度は志水君に声をかけていたな」
「本の探し物をしているっていうから、図書館で少し手伝っていたの。ちょうど志水くんが持っていた音楽の本を、私も次ぎに借りる予定だったからその代わりに。ほら、この前蓮くんが読むといいよって勧めてくれた本だよ」
「会話が終わるのを離れたところで待っていたら、また逃してしまう・・・。志水君に頼まれて図書館へ行ったと、そう教えてくれた火原先輩になぜか俺までメロンパンを渡された。香穂子はメロンパンが好きだろう? 良かったら俺の分を食べてくれ」
「嬉しい〜ありがとう! ねぇもしかして、図書館にも来てくれたの?」
「あぁ、図書館はすれ違いだったが。もうここにはいないぞと、そこにいた土浦が教えてくれた。行き先は知らないと言っていたから、練習室に戻ったんだ。なぜ必死に追いかけていたのか、俺にも分からない。ただ、早く香穂子に会いたかったんだと思う。俺だけに微笑んで欲しかった・・・」
追いついたと思ったらかすめる腕をすり抜け、あと一歩のところで再び空へと羽ばたいてしまう。俺だけを見ていて欲しいと、そう願うほどに軋む心に気づいたとき、自分の事しか考えていない狭さが嫌に思えた。いつも行く先々で多くの人たちに囲まれる君は、楽しそうな笑顔を浮かべていたからからだろうか。寂しかったのかと問われれば言葉に詰まるが、羨ましかったのだと思う。
そう切なげに微笑めば、背伸びをする潤んだ瞳がぐっと近づき・・・唇に君からの優しいキスが重なった。
「蓮くん、焼きもちやいてくれたんだね。心配させちゃってごめんね」
「焼きもち・・・そうかも知れない。子供みたいで恥ずかしいな・・・呆れただろうか?」
「うぅん、そんなことないよ。私に会いたいって、手放したくないってたくさん想ってくれた証しだもの。焼きもち焼いているのは、私だけかなって思っていたから凄く嬉しい。だって最近柔らかくなったって、蓮くん密かに人気があるから・・・。ほら、人のものだと欲しくなる人とかっているでしょう?」
「そうだったのか、知らなかった。俺は香穂子だけのものだ、俺を変えてくれたのは君だろう?」
「いつだって真っ直ぐに心を届けてくれるから、嬉しくて泣くたくなっちゃうよ。私が帰る場所はいつだって蓮くんなんだよ。余所見なんかしない・・・出来ないよ。今だって琥珀の瞳に吸い込まれそうだもの。これからはたっぷり、二人だけの時間を過ごすんでしょう?」
「香穂子・・・・・ありがとう。君を好きになって良かったと、心の底から想う」
尖った心は触れ合うことで角が取れて丸くなる、互いの丸が二つ寄り添えば、やがて愛を表わすハートになるんだ・・・そうだろう? 緩めた瞳と頬で語りかければ、嬉しそうな笑顔を返しながらでうん!と頷く。
俺の腕の中にいるときの君が、他で見たどんな笑顔より魅力的だ・・・つまり好きだと思う。
そう気付いた俺も、君と笑みを浮かべているのかも知れないな。
「出会う人の数だけ笑顔が生まれるけれど、とびきり素敵な笑顔と幸せを、私にくれるのは蓮くんだけだよ。だからね、蓮くんの笑顔も微笑む瞳も、優しい音色もみんな・・・私にちょうだい?」
「もちろんだ。ではもう一度、心を込めて君のために奏でよう」
好きだと想いを込めた心でもう一度抱きしめ直せば、俺は身を屈め君は背伸びをして。どちらともなく触れ合う唇で心に俺の印を刻み込もう。はにかみながら内緒話のように耳元へ囁く、甘い吐息が耳朶を熱くする。嬉しさや切なさで動いた分だけ心は大きくなるから、優しく温かな潤いという、たくさんの新しい気持ちを器に入れようか。
心に元気をくれる笑顔や優しさ、どんな時にもくじけないひたむきさ。ずっと聞いていたいヴァイオリンの音色。
時には落ち込んだり泣いてしまう事もあるけれど、心のまま素直にくるくる動く表情から目が離せなくて。
たくさんの中でなぜ君を好きになったのだろう、いや・・・君でなければ駄目なんだ。
素直になれた時、曇った心が透き通るのを感じる。雨上がりの空へ差し込んだ、眩しい太陽の光のように。
いつも頭の中でかれこれ考えて、簡単なことを難しく考えてしまうけれど、大切なのは君が好きだという想い。
無いものを数えるより、今ここにあるものを数えて大切に育てていこう。すぐ傍にある宝物を、見逃さないように。