年が改まり正月を迎えて、俺達が住まう街にある大きな神社は初詣に訪れる人々で込み合っていた。
参道を埋め尽くす人の波。そして両側をずらりと固める屋台からは、香ばしいものや甘い香りが漂ってくる。
予想を超えた人出を前にして少しだけ気が引けたが、ここで挫けるわけにはいかない。
人ごみではぐれてしまわないように、指先からしっかり絡めるように手を握り直すと、見上げる君も笑顔でぎゅっと手を握り返してくれる。そう・・・隣に君がいれば、どこだって楽しい場所になるのだから。
「凄い人だね〜」
「はぐれないように、気をつけて。歩きづらいだろう? ゆっくりでいいから」
今日の香穂子は艶やかな振袖姿だ。正月だからと特別なのだと、早起きして母親に着せ付けてもらったと言っていた。赤い色の着物の長い袖と裾に描かれているは、蝶や花の模様。
春を思わせる華やかな絵柄は、まるで香穂子のようだと思った。
だからこんなにも彼女に似合っているのだろう。
家まで迎えに行って初めてその姿を見た時の、驚きと胸に込み上げた嬉しさは言葉にならない程だった。その上どこか落ち着かない気持にさせられて、甘く痺れるようなくすぐったささえ覚えてしまう。
伝えたいのに、とても良く似合っているよ・・・そう言うのが精一杯で・・・。
着物だと歩きにくいのか、いつもより歩幅が小さくちょこちょこと歩く様子や、長い袖が邪魔にならないようにと、押さえながら差し出す手のしなやかさ。普段元気良く駆け回る香穂子が見せるしなやかな仕草の数々に、胸の鼓動は高鳴るばかり。繋いだ手から俺の鼓動が君に伝わるのではと、そう思えてしまう。
それに駆け出したい衝動を必死に抑えながら、しとやかに振舞おうとするのが彼女らしくて、何とも微笑ましい。
「きゃっ!」
「・・・・っ、大丈夫か?」
「・・・ありがとう、蓮くん」
つまずいたのか裾が絡んだのか、足を取られて転びそうになる彼女を、空いていた片腕と身体を使って咄嗟に受け止めた。少しすると、ごめんね・・・と頬を染めた香穂子がすまなさそうに、恥ずかしそうにして俺の腕の中からそっと見上げてくる。
振袖姿に似合うようにと薄っすら化粧を施しているらしく、潤んだ瞳と色づいた唇からは、大人っぽい色香さえも漂うようだ。顔に急速に熱が集まるのを感じると同時に、抱きとめる腕にも力がこもっていき・・・。
いや・・・君が無事ならいいんだと呟くと、これ以上は耐えられないとばかりに腕を離し、隠すように口元を押さえてふと視線を逸らした。
思えは家からここまでの間、何度と無く同じやり取りが繰り返されていたように思う。新年早々俺の理性は風前の灯火だと、自分に溜息を吐きながらそう思い返していると、しゅんと項垂れたような声が聞こえてきた。
「つい、いつもの調子で歩いちゃうんだよね・・・。もっとおしとやかになりたいな」
「香穂子は、今のままで十分だよ」
「どーせ私はお転婆ですよ〜だ!」
「そうではなく、こうして俺が、君を抱きしめる事が出来なくなってしまうから」
「あっ・・・そ、そうなんだ・・・・・・・・」
プウッっと頬を膨らまして睨む彼女に柔らかく微笑みかけると、瞬く間に顔を真っ赤に染めてごにょごにょと口ごもり、恥ずかしそうに小さく俯いてしまった。万華鏡のようにくるくる変わる表情は見ていて飽きる事が無く、怒る君も、照れる君も・・・どんな顔も可愛いと思うのは、やはり惚れた弱みというものなのだろうな。
初詣とはいえ、着物で訪れるのは珍しいようだ。
新年の門出に相応しい艶やかな姿に行き交う人々が皆、香穂子を振り返ってゆく。視線から感じるのは珍しさだけでなく、きっと彼女が可愛らしいからなのだろう。そんな君が俺の大切な人であり、この手の中に温もりを感じていられるのが、とても嬉しく思う。
だが少々面白くないという感情があるのも確かで、自然と握る手にぎゅっと力が込められてゆく。
手放したら攫われてしまうのでないかと・・・それだけ今日の君は素敵なのだから。
「蓮くん、大丈夫?」
「えっ!?」
ハッと我に返ると、香穂子が心配そうに覗き込んでいた。
「眉間に皺寄せて、すっごく怖い顔してたよ。何かあったの?」
「・・・いや、すまないな。ちょっと考え事をしていたんだ・・・。君が側にいるのに、一瞬でも他の事を考えるなんてどうかしているな」
「そんなこと無いよ」
ふわりと微笑んで甘えるように腕に擦り寄る香穂子を、月森は向ける表情をどこまでも甘く和ませながら見下ろしていた。心の中の想いを悟られないようにと・・・・。
皆が君を見るから嫉妬した・・・なんていえる訳が無い。焼もち焼きだと、笑われてしまうだろう。
そんな君は俺の心中を知ってか知らずか、瞳を輝かせながら、無邪気に参道脇を埋め尽くす屋台に魅入っているのだから。身の内に沸き上がる独占欲に、我ながら苦笑してしまう。
「ねぇ蓮くん、たこ焼き食べたい。あんず飴も美味しそう〜!」
「・・・食べるのは構わないが。もしも不注意で落としたりして、せっかっくの着物が汚れたら大変だ」
「私そそっかしいかななぁ・・・。あ!じゃぁ、蓮くんが食べさせてくれるってのはどう?」
「俺が?」
「うん! 私が食べると落としたり汚しそうだけど、蓮くんが食べさせてくれるなら絶対に平気だよ。ふふっ、たこ焼きよりも蓮くんが美味しそうに見えたりして。きっと美味しいと思うの」
「それならば俺も安心だ。まず最初に、お参りしてからだな」
「は〜い!」
「神社の本殿までは、もうすぐだから」
繋いだ手を元気良く振って喜びながら、具のたこが大きな店がいいよねとか、外はパリパリ中はトロトロがいいな〜などと嬉しそうにはしゃいでいる。そんな彼女に、やはりいつもの香穂子だと少し安心しながら、つられるように目と口元を緩めた。
** **
人ごみに流れて歩いた長い参道の終わりにある階段を昇ると、辿り着くのは神社の本殿。
二人で賽銭を入れて拍手を打つ。その先は、お互いの時間。
瞳を閉じて心の中にある想いを明かして祈り、気持も新たに誓うのだ。
目を開けて隣を見れば、香穂子はまだ手を合わせたまま、瞳を閉じていた。
今何を想って、何を願っているのだろうか・・・長い時間をかけて。
引き寄せられるように、じっと横顔に魅入りながら想う。
祈りを捧げる姿は穏やかで、清らかな光に満ちているようだと。
やっと瞳を開けた君は、まるで昇る朝日のように輝いて、清々しい表情をしていた。
「随分と長い時間、手を合わせていたんだな」
「うん・・・ちょっと欲張りすぎちゃったかな」
本殿から戻る階段で一歩先に降りて振り返り、香穂子に手を差し出しながらそう言うと、照れたように小さく笑って俺の手に重ねてきた。きゅっと掴む柔らかい感触と笑顔が手から伝わり、心まで掴まれるようだ。着物で不自由な彼女の足元に気を配りつつ、ゆっくりと一段ずつ階段を降りながら数段上にいる彼女を見上げ、満ちて広がる温かさと眩しさに目を細めた。
「ねぇ、蓮くんは何をお願いしたの?」
「俺は・・・・・・」
「あっ、待って言わないで! 当ててあげるね。世界一のヴァイオリニストになる・・・でしょう!?」
「そう・・・だな。それもある」
「も、って事はまだあるんだ。う〜ん、他は何だろう?」
再び混み合う参道を歩きながら、人差し指をあごに当てて、う〜んと考える香穂子にクスリと笑いかけた。
自分の力で叶えるものだから、神頼みのお願いというよりは、己の誓いを立てるようなものだが。
まぁ、この際細かい事は気にしないでおこう。
もう一つは当てて欲しいけれども、少し照れくさいから秘密にしておきたい。そう思って話を逸らす事にした。
「香穂子は何をお願いしたんだ?」
「私?」
きょとんと目を丸くして見上げると、にこりと笑って甘えるように俺の肩先へと頭を摺り寄せてきた。
「蓮くんの、お嫁さんになれますように!」
「なっ・・・・!?」
今、何と言ったのだろうか?
からかっているのだろうか、それとも本気なのだろうか・・・・。
自分の鼓動の音が、耳から聞こえてくる。身体中の熱が顔に集まって、火を噴出しそうだ。
きっと今の俺は、真っ赤な顔をしているに違いない。
「な〜んてね」
「香穂子・・・・」
突然の事に言葉も告げられずに驚いていると、腕に寄りかかったまま、悪戯っぽく見上げてきた。
小さく溜息を吐くものの、さらりと続いた言葉は、束の間の安堵感を覆すのに充分なものだった。
「それも本当だけど、ず〜っと先の話だからなぁ。あのね、強くなれますようにってお願いしてたの」
「強く・・・?」
「あ、力持ちとかじゃないからね」
「いや・・・それは分かっているから」
頬を染めながら、ぶんぶんと片手を俺の前で振る香穂子に苦笑すると、向けられる瞳の輝きがふと真摯なものに変わった。
「蓮くんは、いつも私の事を守ってくれるでしょう? 凄く嬉しい。そんな蓮くんが大好きだよ。だからね、私も蓮くんが困っている時に支えるだけの、強さと力を持っていたいの」
「香穂子は今でも充分に強いと思うし、俺だっていつも君に支えられているんだ」
「それだけじゃなくてね。悲しいときや崩れそうなとき、泣きたいときや困ったとき・・・私が私でなくなる前に、自分自身を支えるための力が欲しいの!」
「・・・・・・」
人ごみのざわめきがすっと耳から遠のいて、時間が止まったような静けさが、俺と香穂子の二人だけを包んだような気がした。隠していた本心を言い当てられたような罪悪感が襲い掛かり、胸を真っ直ぐ射抜かれたような苦しさが襲い、締め付けられて息も出来ない。
懇願するような、切なそうに歪められた表情で俺を見上げている。
繋いだ手を解くと、震えそうな華奢な肩を包むように抱き、そっと引き寄せた。もたれかかるように身体を預ける重みを心地良く受け止めながら、速度を更に落としてゆっくりと歩む。
「強くて明るくて、いつも前向きでなのは、香穂子の素敵なところだから俺も大好きだよ。だが、一人だけで強くなろうとしないでくれ」
「蓮くん・・・・」
「辛かったり悲しかったら、寄りかかって欲しい・・・思う様に甘えて欲しい・・・そのために俺がいる。二人で分け合えば良いのだから」
今は、それしか言えなかった。
どこまで守れるか分からないが、これは嘘偽りの無い、心の底からの君への想い。
まだ伝えていないが、きっと薄々気付いているのかも知れないな。
いつか近い将来、その感情に揺さぶられる日が来るだろう事を・・・・・・・。
「俺の・・・・・」
「えっ!?」
「俺の、もう一つの願い事」
雪が降り出しそうな凍てついた曇り空のような瞳に、暖かな日差しを注ぐようにと、柔らかく微笑みかけた。
抱いた肩い力を込めて引き寄せつつ、もう片手ですっかり冷たくなった香穂子の手を包み込むように握る。
鼓動高鳴る俺の胸へと導き、そっと柔らかさを押し付けるように、上から手を重ねた。
「この手の中に、ずっと君の温もりがあるように。俺の隣に、いつも君の笑顔があるようにと・・・共に歩む命あるが限り、ずっと・・・」
「・・・もしかして・・・最初の私の願い事と・・・一緒?」
「あぁ、香穂子の願い事と一緒だよ。俺はどんな事があっても、君を離さない」
おずおずと伺うような瞳は、雪の中から芽吹いた小さな春。
控えめに灯った温かさに思いの限りで微笑を注げば、やがて柔らかさを取り戻し、満開の笑顔が花開く。
「今年一年、よろしくね。来年もその先もって言いたいけど、節目だから、ちゃんと一年ごとに更新するね」
「こちらこそ。まずは近い先のものからだな。香穂子の願いを叶えるべく、たこ焼きの屋台を探すとしよう」
やったーと喜んで腕に飛びつく笑顔が、俺の心にも温かさと、春の芽吹きをもたらしてくれる。
そして、君だけの花を咲かせるのだ。
誓うのは神でも仏でもなく、叶えたい大切な相手へ。
だから伝えるんだ、胸に秘めた熱さごと。
願いを・・・祈りを・・・この手に掴む、確かなものとする為に。
願い・・・そして誓い