眠れぬ夜さえ幸福な時



音楽科棟の屋上は、訪れる人も少なく静かで落ち着いた空間だ。この心地良い場所を気に入っているのは俺だけではないようで、昼休みに訪れる度に、香穂子に会うようになったのはいつからだろうか。普通科の校舎からは遠いのに、わざわざ脚を運ぶなんてと最初は驚いたが、自分の好きな場所を好きな人が気に入ってくれる・・・これほど嬉しいことはない。一人になりたくて静かな場所を求めていたはずなのに、いつしか屋上を訪れる目的が「君に会いたい」に変わっていったんだ。

人の少ない場所で良かった・・・この屋上がずっとこのまま、君と二人きりの空間だったら良いのにと、そう思う。
午後の日だまりに包まれながら、肩により掛かる君の温もりを感じているうちに、いつしか意識がふわりと浮かび眠りに誘われてしまったらし。かくんと身体が傾げた拍子に、膝の上に乗せていた本を落とした音で我に返った。


一つ同じベンチへ隣に並び座る香穂子が、ぴくりと肩を震わせ驚きに目を丸くする。額を抑えながら軽く頭を振って目を覚ましていた俺へ、拾い上げてくれてた本を手渡す君が心配そうに覗き込んできた。すまない、驚かせてしまったようだな・・・そう言って微笑むと、大きな瞳がぐっと顔が近づき、吐息が甘く絡む鼻先がキスをする。

いや違う、こつんと触れ合う額で熱を測っているんだ、そう気付いた瞬間一気に身体から火が噴き出すのを感じた。どうして君は無警戒というか、無意識に俺の心へ爆弾を落としてくるんだろう。俺だから良いけれど、他の男には決してやらないでくれと、考えただけで冷や汗が止まらなくなりそうだ。照れ臭さもあって早々に額を剥がせば、俺限定なのだと頬を膨らまして拗ねるから、風邪ではない違う熱が余計に上がりそうだ。


「蓮くん大丈夫、寝不足なの? もしかして具合が悪いとか! ん〜お熱がちょっとあるのかな、おでこがどんどん熱くなるの。私の肩とかお膝とかいつでも貸すから、もし疲れていたら遠慮無く言ってね」
「いや・・・大丈夫だ、ありがとう。香穂子の温もりと日だまりが心地良くて、少しまどろんでしまったんだ。君の膝を枕に借りたいども、いくら人がいないとはいえ、ここは学院だし止めておこう。誰も見ていなくても、きっとファータがたくさんいるはずだから」
「そ、そっか・・・。蓮くんと仲良しの所を、ファータたちに見られるのは照れ臭いよね」


本当はここしばらく寝不足が続いているのだと、君にはまだ黙っていようか・・・きっと心配させてしまうから。
眠る前に君のことを思い浮かべているんだが、思うほどに恋しさが募り、心も身体も熱くなってしまう。甘い苦しさに包まれ眠れないのだと、言えるはずがない。

赤く染まった頬で上目遣いに俺を見つめ、組んだ手をもじもじと弄る君の膝の上には、夜の星空を切り取ったような封筒と便せん。そして金色をした三日月型の封緘シール・・・確かあれは昨日学校帰りに立ち寄った文具店で、君が買い求めたお気に入りのレターセットだ。大丈夫?と、俺を覗き込む右手に握られているのは、青空と同じ青色のペン。
綺麗な手紙だな、そのまま空へ羽ばたき溶け込んでしまいそうだ。


「邪魔をしてすまなかったな、香穂子は誰かに手紙を書いていたのか?」
「うん! でもね、届けたい相手はとっても遠くにいるの。きっと郵便屋さんでも届けられないかも、何よりも住所が分からないんだもの・・・」
「それは困ったな、住所が分からないのでは郵便を届けられない。それだけ遠いという事は、海を越えた外国なのだろうか。滅多に会えないから、手紙に想いを託したい気持も分かる」
「えっと・・・ちょっと違うかな、夜になると会えるんだけど遠い所にいるの。ねぇ蓮くん、お月様にお手紙を届けるにはどうしたら良いのかな?」
「・・・・・・は?」


今、君は何と言ったのだろう。お月様というのは夜に空へ浮かぶ、あの月の事なのか? まさかと思いながらも訪ねると、しっかりと青いペンを握り締め、力強く頷く香穂子の瞳は一点の曇りもない。真っ直ぐ俺を見つめる澄んだ輝きは、どこまでも純粋で本物だ。


「手紙を届けたい相手は月なのか・・・それは確かに遠いな」
「でしょう? どんな切手が必要かも分からないし、誰がいつどうやって届けてくれるかも分からないんだもの。でもどうしても、お月様にお手紙を書きたいの」


月は遠いなと吐息混じりに呟けば、でしょう?と困ったように眉を寄せ、小首を傾げてしまう仕草が愛らしい。しかし誰か他に心へ思う大切な人がいたのではと、不安が過ぎった自分が恥ずかしい。彼女の乙女な思考はようやく理解し始めたが、まさか本気で届けるつもりなのだろうか。分かっていると思うが念のため、現実的な宇宙や月の話から始めた方が良いのか、それとも香穂子の話を聞くべきか・・・きっと何か深い意味があるに違いない。


どう応えたら良いものかと言葉に詰まっていると、香穂子の頬がぱっと赤く染まり始めた。恥ずかしそうに小さく俯き、膝の上に置いた月と星のレターセットを胸に抱きしめながら、あの・・・あのねと口籠もる。必死に心の中へある思いを、言葉という形にしようとしていた。確かな言葉や音色で想いを受け止めるときと、同じ煌めきを心に感じるから、きっとこの先に待つのは幸せな恋の予感だと信じたい。トクン、トクン・・・頬の赤みが飛び火して、次第に俺の鼓動も熱く高鳴り出す。


「あのね・・・ほら、この前デートした帰り道に、蓮くん言ってたでしょ? 一日の終わりに、いつも私の事を想っているって・・・君も俺の事を思い返してくれると嬉しい、きっと穏やかな夢がみられるだろうからって」
「あぁ、確かに言った。覚えてくれていたんだな」
「蓮くんのヴァイオリンの音色、私にちゃんと毎晩届いているよ。だからね、私も毎晩寝る前に空を見上げながら、蓮くんの事を想い返しているの。一緒に練習したヴァイオリンの音色や、交わした言葉たち、触れた指先や優しい眼差しとか・・・。心がぽかぽかして幸せになれるよね、目覚めた朝がとっても待ち遠しく思えるの。蓮くんありがとう」
「いや、その・・・改めて礼を言われるのは、照れ臭いな。だが君も、毎晩俺を想ってくれて嬉しく想う。俺の方こそ、ありがとう」


心に灯る温かさのまま、ふわりと浮かぶ微笑みをどちらともなく交わし合えば、また一歩心の距離が近付いた事を知らせる鈴の音が響き渡った。触れ合う身体の距離には限界があっても、音楽や心は自由でどこまでも近付くことが出来る。俺が君へ溶けてゆき、君が俺に溶けてゆく・・・。

少し周りを見渡し誰もいないことを確認すると、甘えるように肩を預け、胸に抱きしめていた夜空のレターセットを披露してくれる。とっておきの宝物を披露するように、お月様へは内緒だよと小さく囁いて。蓮くんへ、と俺の名前だけが書かれているラブレターはまだ白紙だったが、これから青いペンでどんな想いが綴られてゆくのだろうか。

星空を切り取った便せんは夜空を想い、封緘の三日月シールは宛先を示した切手代わり。夜空の月へ届けたいと言っていたが、手紙の宛先を見るとどうやら俺宛の手紙らしい。直接俺に届けてくれたらいいのに、なぜわざわざ月へ届けたいと思うのだろう。俺は君の手紙が読みたい・・・眠れぬほど胸に秘めた想いを知りたいのに。


「本当はね、ヴァイオリンを弾いて私の想いを届けたかった。でもね、うちは防音じゃないから、夜に楽器は弾けないの。だから例えば、お月様に伝言を頼めば、同じ空を見上げている蓮くんに届けてくれるかなと思ったの」
「ならば、直接俺にメールか電話をしてくれれば良かったのに」
「お休みなさいのメールを交わした後、一人ベッドに潜る時間にぽんぽん浮かんでくるんだもの。あんまり遅くなると蓮くん迷惑するだろうから、溢れる想いをお手紙にして書き留めていたの。ヴァイオリンがたくさんの想いを伝えてくれるように、お月様に託した心のお手紙を、眠っている蓮くんの耳元に、そっと囁いてもらえるだけで良かったの。良い夢が見られますように・・・大好きだよってね」


今まではどうしていたのかと訪ねると、月明かりの綺麗な窓辺に置いて眠っていたらしい。たくさん手紙が溜まってしまったのだと、頬を染め照れ臭そうにはにかむ笑顔が、俺の心に消えない恋の炎を灯すんだ。

夜になるとなぜか君のことが気になり、想いが止められず、眠れない日が続いていた。だがひとしきり心を焦がした後に目を閉じれば、君がいるような温かさを、いつも傍に感じていたんだ。夢の中で好きだよと何度も俺は君に囁き、唇から零れる甘い吐息を受け止めて・・・眠れぬ夜の果てに優しい夢が包んでくれる。眠れぬ夜は、幸せの証。

そうか、俺のヴァイオリンが香穂子の窓辺に届いたように、きっと君の手紙も月に届いたんだな。月が願いを受け止め、俺に想いを届けてくれたのかも知れない。


大丈夫、香穂子の手紙はちゃんと夜空の月へ届いていた。だが今度は香穂子が書いた手紙を、俺が受け取っても良いだろうか? 夢の中で月が伝えてくれたメッセージは、目覚めと共に消えてしまう。だから夢ではなく、眠れぬ夜のうちに確かな言葉を刻んでおきたいから・・・。いや、そうしたらもっと君に恋いこがれ、眠れなくなってしまうかも知れないな。