願わくば、あの空が欲しい

「ねぇ蓮くん、どこかの妖精が“あなたが欲しいと願うものを、一つだけ叶えてあげましょう”って言ったら、蓮くんだったら何て答える?」
「は!?」


日当たりが良い屋上のベンチに座って過ごす、麗らかな午後のひと時。
隣に座る香穂子が、そんな質問をしてきた。


「・・・それは香穂子の好きな、心理テストか何かか?」
「さぁ〜どうでしょう。細かい事は気にしない、気にしない!」
「まさか妖精とは・・・ファータではないだろうな?」
「やだなぁ蓮くんってば。眉間に皺寄せて、怖〜い顔して警戒しちゃって。可愛いんだから」
「・・・・・・っつ!」


笑顔満開の香穂子が、鼻先と吐息がが触れるほど間近に俺の顔を覗き込むと、眉間に人差し指を当てて、硬さをほぐすようにくりくりと撫で回し始めた。眉間に触れる柔らかい指先に顔の熱が集中して、このまま穴が開いてしまうのでは・・・そう思えてしまう。

気にするな、と言われれば余計に気になって警戒してしまうではないか。しかし彼女を前にすれば、別に隠す必要も無いのだと、不思議と自然に心が解けてゆく。


「手に入れたいもの・・・か」
「うん。蓮くんが一番欲しいと思うもの。あ、でもヴァイオリニストっていう答えはナシね」
「何故だ?」
「蓮くんが真っ先に答えるだろうと思うから。それじゃぁ私がすぐに答え分かっちゃって、面白く無いじゃない」


何だ、結局は君が楽しんでいるのか。まぁ・・・いい、君が楽しんでくれるなら。
まるでクイズのようだな。回答者は質問を投げかけられた俺なのか、それとも俺の答えを当てようとしている香穂子なのか。


「そうだな、俺なら・・・・・・」


視線の遠く先にある屋上の壁。ちょうど空との境目辺りをぼんやりと眺めながら考えていると、何!? なにっ!? と、興味津々に答えを急かす声が聞こえてきた。ふと隣を見れば、大きな瞳を期待一杯に輝かせてにじり寄りつつ見上げてくる。柔らかく微笑みを向けると、彼女の頭にぽすんと手を乗せて屈みながら、視線を合わすように覗き込んだ。


「香穂子は何だと思う?」
「えっ!? 蓮くんの欲しいもの?」


一瞬きょとんとしたものの、遠く上を見たり俯いたり。暫く必死に考え込んでいたが、どうやら降参らしい。眉根を寄せて困ったように縋ると、肩を竦めて可愛らしく小首を傾げた。う〜ん、やっぱり分からないやと。


俺が欲しいものは・・・。
そう呟くと人差し指を立てて、静かに上を見上げた。連られるように彼女も一緒に仰ぎ見る。


「空?」
「そう。俺が欲しいものは、この空かな。どこまでも広く澄み渡る、青い空」
「考えもしなかったよ・・・予想外というか。蓮くんって、意外とロマンチストだね」
「・・・以外とは余計だ」
「ごめんね。でも空か〜、そういえば前にも星空の写真をくれた事があったよね。だからヴァイオリンの音色も、空みたいに広くて温かいのかな〜」


嬉しい。私も空が大好きだよ。
そう言って、向けられたふわりと優しい笑顔。


「でも、どうして空なの?」
「もしもあの空が俺のものなら、見失うことなくいつでも、俺の腕の中に捕まえていられるから。香穂子が奏でる空高く吸い込まれるような音色も、羽ばたく鳥のようにどこまでも自由に駆け回る、君の心と身体も」
「もしかして・・・・・・・遠まわしに、私が欲しいって言ってない?」
「そうとも言う」
「も〜っ、蓮くんてば! 恥ずかしいじゃない〜」
「俺が一番欲しいものは、最初から一つだけだ。香穂子って言いたかったけど、答えがすぐに分かっては面白くないんだろう?」


悪戯っぽく笑いかけると、真っ赤に頬を染めて恥ずかしそうに俯いた。そうりゃそうだけど・・・と、ごにょごにょと口篭りながら照れを隠すために、膝の上できゅっと握った手を弄びながら。あまりの可愛らしさに息が詰まり、目の前の柔らかさを抱き締めようと、手は自然に動いていく。しかし華奢な肩に手を置き掛けた所で、スッと彼女の姿が隣から消えた。


「香穂子?」
「蓮くん、こっちだよ!」


声のする方向を見ればベンチの・・・俺の前に立ち、頬にほのかな赤みを残しつつ両手を後ろ手に組んで、屈むように覗き込んでいた。

何時の間にそんなところへ入ったのだろうか。本当に翼が生えてしまったのかと思った。
驚きに目を見開いていると声は無く、大きくはっきりとした四つの唇の動きだけが言葉を紡ぐ。


だ・い・す・き。


心の中に直接響く声。彼女の唇は、確かにそう伝えてきた。

屈んだ身体を起こすと、俺を誘うように両手を広げる。
太陽を背に輝く姿が、広げた両手に、真っ白く大きな翼の幻影を見せたような気がした。


「私を、捕まえて!」
「・・・捕まえて、みせるさ」


静かに立ち上がって一歩近づけば、真っ直ぐ俺を見つめて微笑んだまま、ぴょこんと身軽に数歩後ずさる。
もう一歩踏み出せば、くすくすと楽しそうに声を上げて笑いながら、青空の中へ駆け出していった。




どこかの妖精とは、きっと君の事なのだろう。
無邪気で天真爛漫で、温かくて、俺を惹きつけて放さない。

俺の腕の中にずっと閉じ込めていたいけど、君には身も心も自由なままでいて欲しいと思う。
白い大きな翼を持って、この大空と俺の心を駆け回る。そんな眩しい君が、大好きだから。



弾かれたように駆け出して、飛び立った小さな背中を追いかける。立ち止まってくるりと振り返り、早く早く〜と大きな声で呼びかけて手招きしている君まで、この手が届くのは後もう少し・・・・・・。

待っている、と見せかけて再び駆け出そうとする香穂子の腕を捕らえて胸の中へと引き寄せ、正面から強く抱きすくめた。始めはもがくように身動ぎしたものの、やがて大人しく身を任せて胸に寄りかかり、両腕がそっと俺の背中に回された。はみかみながら、おずおずと見上げる大きな瞳に、愛しさを込めて優しく語り掛ける。


「・・・・・捕まえた」
「あ〜ぁ、捕まっちゃった・・・な〜んてね。音色が向かう先も、私が帰る場所も、いつだって蓮くんなんだよ。戻る場所があるって分かるから、自由に飛んでいられるの」
「俺の一番欲しいもの。願いを、叶えてくれるんだろう? どこかの妖精さん?」
「ふふっ・・・さすが蓮くん。質問に出た妖精が私だって、分かっちゃたね」
「分かるさ。俺は、君が羽ばたく空だから」


僅かに覆い被さり、コツンと額を触れ合わせれば、柔らかく絡み合う互いの髪。
心地良さそうに目を細める香穂子も背伸びをして、鼻先から掠めるように額を擦り合わせてきた。




あの大きな空が欲しいと想う。
いや・・・欲しいのではなく、俺が空でありたいと願うんだ。
ありのままの君を、この俺の腕と胸の代わりに包んで受け止める、果てしない大空のように。
自由な君を丸ごと受け止めて、広く、優しく、温かく包み込む、大きな心と身体でありたいと・・・・・・・・。