涙色の水たまり
「ねぇ加地くん、どうしてここにいるの?」
「それはね、香穂さんがいるからだよ。香穂さんの隣にいたいんだ。駄目かな?」
ここというのは学院の屋上で、香穂さんが座るベンチの隣。練習に行ってくるねと、笑顔で香穂さんは教室を飛び出していった筈なのに・・・でもどこか必死に笑顔を繕っている感じがして、僕はこっそり後を追いかけた。そっと静かに屋上の扉を開けると、眩しい夏が終わり深く色づく前の憂いを含んだ秋のように。少しずつくすみを帯び始めた花や緑みたく少し元気のない香穂さんが、肩を落としベンチにぽつんと座っていたんだ。
香穂さん?と声をかけたけど、一度顔を上げるときゅっと唇を弾き結んで、ふいと顔を逸らしてしまった。人知れず涙を流した、赤く泣きはらした目元を見られたくなかったんだと分かったけど、そのまま一人にはしておけないよ。手を伸ばせばすぐ肩を抱けるくらい温もりを伝えあえる距離で、何も言わずただ寄り添い座りながら、日だまり君と空気を溶け合わせる時間だけが静かに包み込んでいた。
「・・・加地くんが悲しそうな顔すると、私まで悲しくなっちゃうよ。ね、笑って?」
「僕、悲しそうな顔してたかな? きっと香穂さんを見つめていたからだと思うよ、僕は香穂さんの鏡だもの。じっと佇む姿に耳を澄ますと、心へ直接声が流れてくるんだ」
「加地くんが私の鏡? だから私と同じ顔をして、ずっと傍にいてくれたの?」
膝の上に置いた手の平をきゅっと握り締めて、逸らしていた顔をゆるゆる戻した香穂さんが、真っ直ぐ切なげに振り仰いだ。自分の方が悲しいはずなのに、どうして僕の事を真っ先に心配してくれるんだろう。君は何も言わないけれど、音楽の事や、君をいろいろいう輩の事で悩んでいるのも知っているよ。元気で明るい香穂さんだけど、心の中はとても繊細で傷つきやすいって事もね。今はこうしてただ傍にいるだけしか出来ないけれど、僕が君から光をもらったように、傷ついた心を癒せたらいいのにと思う。
「ねぇ香穂さん、ほら足下を見て? 授業中に降った雨が大きな水たまりを作っているよ」
「本当だね、青空を映して凄く綺麗。さっきまではどんより灰色だったのに、お日様の光を浴びて青がキラキラ光っているの。空が笑うと、水たまりも同じ顔して笑うんだね。キラキラした輝きを受け止めてくれるから、お日様は嬉しくなって微笑むの」
「ふふっ、香穂さんの瞳みたいだね」
「え!? 加地くん私、あんなにキラキラしてないよ!」
「そんな事無いよ、君は誰よりも輝いているんだ。それに僕も君の涙で出来た水たまりなんだよ。香穂さんが悲しいと僕も悲しい、嬉しいと喜びは二倍に増える。泣くことは恥ずかしい事じゃ無いと思うよ、乾いた心も雨が降るのを待っていると思うんだ。だってほら・・・瞳の奥に輝く光が教えてくれる、頑張ろうという強い意志をね」
「加地くん・・・」
流した涙は心の雨、雨上がりの街に広がる気持ち良さやのように、涙の水たまりは心を映す鏡。真っ赤に染めた顔の前で、ぶんぶんと手を振る香穂さんの目尻にうっすら溜まる涙も、屋上に広がる水たまりみたく澄んだ青空の色をしている。
どんなときも、いつも隣で見守っているよ。世界で一番大好きな君の事をね・・・そう香穂さんの潤む瞳に微笑むと、曇り空だった瞳が澄んだ輝きを取り戻し、笑顔が生まれた。
「香穂さん、これだけは忘れないで欲しい、僕は君が大好きだよ、そのままでも充分に」
「・・・私も大好きだよ。でもね、今のままじゃだめなの。私、もっとヴァイオリンも恋も頑張らなくちゃだめなの。そのままでも良いなんて、私を甘やかしちゃ駄目だよ」
「もちろんだよ、僕も君の隣にいて恥ずかしくないように頑張りたい。でもね、落ち込んだり迷ったりするたびに君はすぐに変わりたがるけれど、音の源である素直で優しい君の魅力は大切にして欲しい・・・そう思ったんだ。僕は香穂さんの音楽も君自身も好きだから、こうして一緒にいるんだよ」
僕と香穂さんにはそれぞれの音楽や夢、悩みや心の痛みといった心がある。どんなに近くなっても変わらない、大切なものがあるけれど、僕と君なら、お互いの想いを分かち合えると思うんだ。だからね、僕はもっと香穂さんの事を知りたいな。いつでも傍にいて、君を見つめていたい・・・ヴァイオリンに包まれたい。
目尻に伸ばした指先でそっと拭った涙の滴は、朝露のように甘く清らかな、持ち出し禁止の宝物。雨上がりの水たまりに踏み出したくなるように、君の涙色へ飛び込みたい気持が止まらなくて。そっと顔を近づけ、微笑んだ唇のまま目尻にキスをすると、包んだ頬に熱が灯りほんのりピンク色に染まる。
再び溢れた目尻に残る涙の水たまりもほら、恋の色に染まったよ。想いの数だけ変わる涙の水たまり・・・涙の色は一つじゃないんだね。僕の色を映しているのかな、それとも君の心の色なのかな?