名前を呼んで、ぎゅっとして



二人でヴァイオリンの練習をして、その後にどこかへ出かけて・・・。そんな休日も良いけれど、たまには音楽抜きで恋人らしいデートをしようぜ。いつもより少し早起きをして待ち合わせたら、電車に乗って少し遠出をする。行き先は香穂の希望でテーマパークの遊園地。遠くへ行くほどに、ずっと手を繋いでいられるって・・・いいよな。

毎朝の早起きは苦手だけど、デートの為の早起きは苦じゃないのだと、朝から晴れやかな笑顔を咲かせる香穂子が可愛く思えるのは、「恋人同士のデートっていったら、やっぱ遊園地は外せないよね」と嬉しそうにはしゃぐから。用意していたデジカメの電源よりも早く、心のカメラは一瞬一瞬を逃したくなくて、もう何枚あんたの笑顔を捕らえただろう。


「衛藤くん、熊さん買ってくれてありがとう。今日の記念だから大切にするね。私ね、この子に名前を付けようと思うの」
「名前? 熊の縫いぐるみに?」
「うん!  大切なものには名前をつけたくなるでしょ? 名前で呼ぶと、特別な存在になるの。衛藤くんが買ってくれたこの熊さんは、私たちの愛がぎゅっと詰まった結晶なんだもの」
「・・・っ! けほっ、こほっ・・・!」
「きゃぁ、衛藤くん! 大丈夫!?」


人混みから外れた木陰のベンチで休憩しながら、ストローでコーラをすすっていた衛藤が激しくむせると、慌てた香穂子が必死に背中を撫でさすり介抱する。愛の結晶ってあんた・・・意味分かって言ってるのか? 涙目でようやく呼吸を整えるけれど、心配そうに見つめる香穂子の必死さからは、甘い新婚さん的な意味合いはどうやら無いらしい。なぜ突然咳き込んだのかが不思議でいるくらい、本人に深い意味はないのが、ホッとしたような残念なような。

ほわほわの毛並みをした熊の縫いぐるみを胸に抱き締める香穂子は、甘く蕩けそうな眼差しを注ぎながら、丁寧に何度も頭を撫でつけていた。見つめる瞳で話しかけたかと思えば、指先で腕を持ち上げて、腹話術のように熊の言葉を返してみる。このテーマパークの人気商品らしい熊は、香穂子の心もしっかり捕らえたようで、ついさっきまでは衛藤に注がれていた瞳も、今では妬けるほど熊へと注がれていた。

そんなに嬉しそうなのは、ずっと欲しかった熊の縫いぐるみだから? それとも、俺のプレゼントだからとか。

香穂子の心も眼差しと、抱き締める腕の全てを独占する熊の縫いぐるみが、羨ましくない・・・と言ったら嘘になる。だけど気に入ってもらえて良かった。嬉しそうな笑顔がみられた自分も、見つめる眼差しや頬が同じように頬が緩んでいるのに、ふと我に返ると気付いて熱くなる。


「愛の結晶って、意味分かって言ってんの? かなり照れ臭いんだけど」
「私もね今頃になって恥ずかしくなっちゃったよ。でもこの子には衛藤くんが私にプレゼントしてくれた想いと、私の大好きな想い・・・二人分の大好きがあったから今ここに居るんだよ。だからね、愛の結晶なの。大切で愛しくて、嬉しいの」
「気に入ってくれたのなら、俺も嬉しい。で、大切で可愛い俺たちのその熊に、あんたは何て名前を付けるんだ?」
「名前、この子の名前はね・・・」


熊の縫いぐるみを腕の中に抱き締めながら、桃色に頬を染める香穂子の熱が、じんわりと顔に集まり胸の奥から焦がしてくる。あんたのペースに引き込まれて、さらっと返してるけど、本当は恥ずかしさが火を噴き出しそうなんだぜ。縫いぐるみ一つに大げさじゃんって思うけど、これもあんたがいつも言ってる乙女心ってやつなら、投げ出さず合わせるさ。
だってあんたの事、好きだし・・・これも惚れた弱みってこと。


「桐也」
「は!? それ俺の名前じゃん」
「うん、衛藤くんの名前だよ。ダメ、かな?」


抱き締めた熊を俺に披露しながら指先で腕をつまみ上げ、「やぁ、こんにちは!」と挨拶のポーズ。小さく振りながら一緒に語りかけたり、無邪気にぴっとり腕に張り付く仕草が、可愛くて撃沈しそうになる。すぐにでも抱き締めたい心を必死に支えながら、伝えたい気持ちはしっかり届けないと。


「別にいいけど、香穂子の桐也は俺一人で充分だろ。それよりいつまで俺のこと、衛藤くんって呼ぶつもりなんだ。俺は熊よりも後回しなのかよ」
「だって、桐也って呼びかけるのは照れ臭いから、最初は熊さんに呼びかけて練習したかったんだもん。名前を呼びかけながら、こっそり家で抱き締めれば寂しくないかなって・・・
「あんたさっき、名前で呼ぶのは特別だって言ったよな。じゃぁ俺は? 俺はあんたにとって、特別な存在でいたい。俺たち付き合ってるんだし、そろそろ桐也って呼んで欲しいんだけど」
「そ、そんな突然言われても・・・心の準備があるんだよ。心臓張り裂けちゃいそう」
「準備の時間なら、今までたくさんあっただろ。言っておくけど、俺にだって心構えってものが必要なんだからな」


早く駆ける鼓動と湯立つ顔の熱に、理性は淡雪みたく溶けてゆく。潤んだ眼差しで言葉無くすがる瞳が見上げてくるから、恥ずかしさに視線を逸らそうにも反らせなくて。ただ無言でじっと見つめ合う時間だけが、甘く深く過ぎてゆく。あんたが本当に抱き締めるのは、その熊の縫いぐるみじゃなくて俺だろ。寂しいときや弱音を吐きたい時には、我慢しないで俺に電話しろよな。俺は怒りっぽいけど、ちゃんと話聞くし、あんたが会いたいなら時間の許す限り会いに行くから。


「名前で呼んだり呼ばれるって、親しみある感じがするよね。そういえば衛藤くんは、私に会った初対面から香穂子って呼んでたよね。あ、でもみんなの事も名前の方で呼んでるよね・・・。ファーストネームで呼ぶのは、アメリカ流?」
「俺がそう呼びたいから、呼んでるだけだ。別に深い意味はないし。でもそうだな、呼び捨てなのは香穂子だけだぜ。俺にとって、あんたは出会った時から特別だったってこと」 
「大好きな人から呼ばれるとすごく嬉しくなるし、自分の名前がもっと大好きになるの。私ね、衛藤くんに『香穂子』って呼ばれると嬉しくてドキドキするの・・・もっと呼ばれくなる」
「香穂子・・・」
「なぁに、衛藤くん?」
「・・・呼んだだけ」


ふわりと嬉しそうに笑った香穂子が、可愛らしく小首を傾げての上目遣い。嬉しくなるのは自分だけじゃなくて、相手も何だって知ってる確信犯って、卑怯だぜ。なぁ俺が名前で呼んだら、嬉しくてドキドキしたんだよな? 香穂子が俺を名前で呼んでくれたら、今感じた同じ気持ちをお互いもう一度味わえるんだぜ。あんたが感じた気持ちを、知りたい。


香穂子の腕の力が緩んだ隙に、熊の縫いぐるみを人質のように奪い去り、今度は俺がしっかり閉じ込めた。返して! とベンチに座った腰を浮かせながら身を乗り出し、慌てて奪い返す手をするりと交わせば、泣きそうに瞳が潤み出す。

座った膝の上で両手の拳を強く握り締めながら・・・おい、泣くなよ。けれど、揺れる心もここは少しの間我慢だぜ。
俺たちはもっと近づける・・・高い場所で一つになれる、そうだろ?


「ほら香穂子、練習。俺があんたの熊を持っててやるから、名前呼んでみろよ。熊に俺の名前付けたんだろ?」
「き・・・桐也、くん・・・」
「くん、はいらない。内緒話みたく俺の耳に囁くな、余計に照れるだろ。いつもみたく、気軽に呼びかけてみろよ」
「・・・桐也」
「香穂子、ありがと。俺今、マジでヤバいくらい嬉しい。あんたに名前を呼ばれただけで、熱くて溶けそうになった」
「桐也・・・桐也、言えたよ! もう平気、何度でも呼びたいな。ふふっ、まだちょっと照れ臭いけど、衛藤くんって呼んだ時よりも、名前で呼んだ方が心がポカポカしたの。桐也も私の名前を呼ぶときには、こんな気持ちを感じていたのかな」


頑張ったご褒美をちょうだい? と愛らしくふり仰ぎながら甘くねだる香穂子に、顔を寄せて小さなキスを。ほら返すよと熊を押しつければ迷子になった子供を、ようやく見つけた母親のようにしっかり抱き締めながら、愛おしそうに頬を寄せていた。桐也、お帰りと嬉そうに俺の名前を呼びながら。

自分が抱き締められている訳じゃないのに、香穂子が擦り寄るのと同じ頬が熱を帯びるのは何故だろう。何だか自分が抱き締められているみたいで、照れるんだけど。


「桐也」
「何だよ、香穂子」
「うぅん、何でもない。名前を呼んでみたかっただけ。ね〜桐也?」
「やっぱ紛らわしい、その熊、名前変えろよ。香穂子の桐也は俺だけでいいじゃん」


熊に焼き餅焼いたの?と悪戯にふり仰ぐ笑みを、不意打ちの啄むキスで封じたら、焼き餅で悪いかと正直に開き直ってみる。真っ赤な茹で蛸になって大人しく黙る香穂子が、言葉無く宥めるようにコツンと肩を預けてきて。桐也、と甘く優しくもう一度俺の名前を小さく呼んだ。

俺からも大切な名前を呼んで、ふり仰ぐ笑顔を受け止めたら、熊の縫いぐるみを幸せそうに抱き締めるあんたごと、俺は抱き締めるよ。心地良い二重奏みたいな気持ちの中で、何度でも、名前を呼んで抱き締めるから。