な・い・しょ




ヴァイオリンの練習を終えた後に、香穂子が鞄から取り出したのは、ピンク色をした手の平サイズの小さなチューブ。
両手の甲へ少し乗せてすり込んでいるところを見ると、あれはハンドクリームみたいだな。じっと見つめるめる俺の視線を感じたあいつは笑顔を綻ばせて、包み重ねた手をまるで祈るみたく胸に当てながら、嬉しそうに頬を桃色に染めている。


最近ようやく馴染んだ、香穂子の乙女心ってヤツが溢れてい。まぁ・・・楽しそうなあんたが可愛いから、いいか。
あんたがハンドクリームを手に付けるその仕草、すごく優しい印象がする。言葉にしたら頬を膨らませて拗ねそうだけれど、あんたも女の子なんだなって思うんだ。

おい、勘違いするなよ。可愛いって言ってんだぜ。ふいに意外な面を見せられて、ドキッとするっていうか・・・。
その、今日の香穂子は何かが違う。それが何か分からないながらも、会った時から練習の間もずっと気になって。傍にいるうちに、触れたいって思う気持ちがどんどん膨らんでくる。そう、特にあんたの手が、触って?と心へ直接語りかけてくる気がしてならないんだ。


「なぁ香穂子、あんた今・・・」
「なぁに、桐也」
「やっぱ止めた、何でもない」
「ふふっ、変な桐也。でもね、ナイショってすごく気になるの。練習で気付いた事だったら、隠さず教えてよね」
「練習の事はさっき伝えただろ。そうじゃなくて・・・イイ香りだなそれ、新しいハンドクリームか?」


言いかけた言葉を飲み込むなんて、俺らしく無いな。きょとんと不思議そうに小首を傾げていた香穂子は、俺が香りに気付いた頃が嬉しいらしく、笑顔を煌めかせて大きく頷いた。

今日の香穂子はいつもと違うな・・・とか、俺と手を繋ぎたいって思ってるだろ。なんて言ったら、どんな顔するのかな。というか自分で自分の言葉が恥ずかしくて照れそうだ。桐也がそう思ってるんでしょ?って真っ赤に頬を膨らませて拗ねるんだろうな、もちろんあんたと手を繋ぎたいさ。でも照れるあんたも、そっと可愛く手を差し出してくれるって信じてるんだぜ?


「ヴァイオリンを弾く大切な手だから、しっかり手入れしなくちゃ。冬はお肌が乾燥するし・・・あっ! これ以上は桐也には、内緒なの。恋する女の子の秘密だから」
「何だよ、隠し事か? 教えてくれても、いいじゃん」
「ん〜どうしようかな。これはね、私の密かなおまじないなんだもの。それにサプライズは、種を明かしちゃったら、驚くドキドキの楽しさが減ると思うの。ナイショとサプライズは違うんだよ」
「隠している事には変わらないじゃん。じゃぁ、俺が当ててやる。当たったら、ご褒美くれよな」


ご褒美!?と驚きに戸惑う瞳へ、もちろん唇へキスだよな?と微笑めば、真っ赤な夕日みたく染まった頬がコクコクと小さく頷く。楽しい悪戯を企む大きな瞳でぐっと目の前に近付くと、ふわり鼻腔をくすぐったのは、爽やかで心地良い香り。それがだんだん優しい花に変わってゆく不思議さ。穏やかな海の上を漂うような・・・あぁそうか、ずっと気になって引き寄せられていたのは、あんたを包むこの香りだったんだな。さっき、あんたが手に塗っていた、ピンク色のハンドクリーム。


あんたの射程距離圏内に近付いた俺は、控えめだけど甘く優しい香りに引き寄せられ、あんたしか見えない恋の虜に。
こんな時ばかりは、瑞々しい柔らかさでぷるんと誘う手が、触って?と可愛く誘っているように思えてならない。普段は手を繋ぐのでさえ、一歩を踏み出すのに勇気がいるっていうのに、頭で考えるよりも身体が動き、気付いたら思わず触れてしまっている自分がいる。

手に塗ったばかりのハンドクリームを、しっとり手に馴染ませるように、あんたの手をそっと両手の中に包み込む。
しっとり溶け合う二つの手の感触に心を重ねるように、静かに目を閉じて胸へ押しつけるように閉じ込めた。
急に熱さを募らせる手と同じように、あんたも照れた顔を赤く染めているんだろうな。


「香穂子の手、柔らかくて、すっげぇ気持ちがいいな。一度握ったら離したくない・・・ずっと繋いでいたいんだ」
「き、桐也・・・!?」
「ふんわり微かに漂う可愛い香りで引き寄せて、柔らかい女性らしさをイメージさせる。で、思わず触れたくなる手の質感を、イメージ通りハンドクリームでケアするってわけだろ。手を繋ごうって素直に言えばいいのにさ、どう?当たりだろ」


手を包み込んだままゆっくり目を開ければ、真っ赤な茹で蛸になった香穂子が、大きな瞳を潤ませながら真っ直ぐふり仰いでいた。悪い、突然握り締めて嫌だったか?と心配そうに言う衛藤に、ふるふる頭を横に振る香穂子が、ドキドキした熱さが溢れちゃいそうなの・・・と。ほんのり赤く目元と頬を染める可愛らしさに、心と理性はキャンドルの炎のように揺れ動く。そうやって俺を誘っておきながら、結局恥ずかしさで撃沈するの、可愛い過ぎて反則だっての。


これ以上真っ赤になったら、恥ずかしさで泣きだそうだから、緩めた手の甲にそっと優しいキスをして静かに降ろす。もじもじと弄る手の中で、ハンドクリームのチューブを転がしながら、時折上目遣いでこっそり見つめる眼差しに、俺も眼差しで語りかけるんだ。そろそろナイショは観念したら?ってね。


「いつでも手を繋いでいたいし、桐也に触れていたいの・・・桐也にも私に触れて欲しい。でね、ぎゅっと抱き締め合えたら、もっと幸せだよ。でもね、手を繋ごう?って言えるけど、私に触れて?なんて恥ずかしくて言えないよ。どうしたらイイかなって考えてたら、このハンドクリームを見つけたんだよ」
「射程圏内3メートル、あなたの手に触れたくなる? 何だ、この恥ずかしい煽り文句」
「ヴァイオリンを弾く手を労る理由もあるけど、桐也が握ってくれたときに、いつでも気持ち良く感じてくれる手でいたいんだもの。さらっとして触りたくなる・・・で、触ってみたらやっぱり柔らかくて気持ちがいい手が、理想なの。手を繋ぐと幸せになれるから、お互い気持ち良くなれたら、もっと幸せだもん」


あんたの手を握る瞬間、俺だってドキッとするんだぜ。でもあんたにドキドキしてるのは、内緒なんだ。
普段思っている手の感触と、実際に触れた感触のギャップが鼓動の高鳴りを生むんだろうな。ヴァイオリンを弾く手は筋肉質でしなやかかと思えば、触れてみると想像以上に柔らかくて温かい。気持ち良さに俺の方が蕩けそうになる。

手を繋いだときに、もっと気持ち良く幸せになってもらいたいから、ハンドクリームでケアするだなんて。可愛いことされたらこの手は離せない、もっとあんたに惚れちまうじゃん・・・責任取ってくれよな。


「そのハンドクリーム、俺も気に入ったけど・・・これからは、俺と二人っきりの時以外は使用禁止な」
「えぇっ!? どうして、使っちゃダメなの? イイ香りだし、しっとりすべすべになるからお気に入りなのに。もしかしてヴァイオリン引くのに、いけない成分とかあるのかな・・・」
「違う、そうじゃなくて。あんたの手を、握ったり触れてもいいのは、俺だけの特権だからさ。それに俺、手だけじゃ満足出来ずに止まらなくなりそうだから、覚悟が出来たときに使っていいよ」


恋するピンク色をしたハンドクリームのラベルには、触れて欲しい恋心を手に乗せる「fu・re・te」のロゴ。

つまり、あんたの近くにいるヤツらが、香りに引き寄せられるだろ。甘い花の蜜に誘われる、蝶みたくね。
ハンドクリームを手に塗る仕草をみた後では、シルクみたくしっとりしているのが分かるから、あんたの手に触れたくなる。で、触ったら離せなくなって、もっと素肌を求めてしまう・・・。

俺以外の男が、あんたの射程距離圏内で香りに捕らわれるのは、嫌なんだ。焼き餅だって笑われても、俺は本気だぜ。
あんたが無意識な無邪気さで誘っていいのは・・・俺だけだってこと。どれだけ俺があんたを好かって事も、もっと自覚した方がいいぜ。