なぐさめる

月森が予約していた練習室の扉を開けて中に入ると、既に香穂子が来ていた。
普通科校舎からは遠いいし、いつもは俺が先に来ている事が多い。
念のため先程ノックをしたが全く反応無かったので、てっきりまだ来ていないと思っていたから、香穂子が中にいたことに少なからず驚いてしまった。


「香穂子、今日は早かったんだな」


居留守を決め込んで俺を驚かそう・・・といういつもの悪戯にしては、空気がどことなく重い気がする。
香穂子は窓辺の壁にもたれて座り込み、膝を抱えて丸くなっていた。“何かから”必死に守るように、戦うように、自分自身を細い両腕でしっかりと堅く抱きしめて。


「香穂子?」


何かあったな、と俺は瞬時に悟った。
そういえばここへ来る途中の廊下で、音楽科の女子数名が固まって偉い剣幕で騒いでいた。『普通科の・・・』という言葉が聞こえたから、もしやと思ったが・・・やはり、そうだったのか。


コンクルーへ参加して以来、音楽科の中で香穂子を良く思わない輩が、未だに多くいるのは知っている。
嫉妬、羨望からくる嫌がらせ・・・。何があったかは想像かつくが、こればかりは俺が立ち入って良い問題ではない。
何よりも、香穂子自身がそれを望まないから。


俺も、謂われのない他人の嫌悪感を、嫌という程味わってきたから、気持ちは痛いほどに良く分かる。俺だけで済むのなら、まだいい。ヴァイオリニストとして俺と共に歩むことによって、香穂子までもが同じ痛みを抱えなければならないのが、たまらなく悔しくて胸を激しく締め付ける。


たまに喧嘩を買うこともあるが、俺はそういった輩は、あえて何も言わずにやり過ごす事にしている。
しかし負けん気の強い香穂子は、全てに真っ正面からぶつかって戦っているようだ。
もう何度こんな姿を見てきただろう・・・・。


月森は静かに窓辺に歩み寄ると香穂子の前に片膝を付き、切なげに瞳を細めた。
替われるものなら、抱えるその痛みを俺が代わってやりたい。駄目ならせめて、共に分かち合うこと位は出来ないか・・・。
伏せられた頭へ手を伸ばしたものの、髪に触れる直前で引き留めた。
俺が来ているのは分かっているはずだ。それでも顔を上げないのは、きっと今の自分を見られたく無いのだろう。
行き場の失った手の平をギュッと握りしめ、立ち上がった。


こんな時は、君に一体どんな言葉を掛けたら良いのだろう?
いや、どんな言葉もきっと慰めにはならないかもしれない。安っぽい同情はいらないと、心がはね除けてしまうから。
言葉が意味を持たないのを、経験上自分が一番良く知っている。


月森はそっと香穂子の側を離れると、ヴァイオリンの準備を始めた。うずくまる香穂子の様子を横目で見ながら、Aの弦から順に調弦を始めていく。
窓辺へ向き一呼吸を整えると、弓がそっと弦に降ろされた。


甘く優しい音色が静かに響き、満ちあふれていく。
透き通るような高音に朗々と歌い上げる中音、深みを添える艶やかな低音。主張するのではなく、どこか空気のように自然でさりげない、そっと寄り添うような旋律が香穂子を包み込んでゆく。
窓から差し込む、柔らかい午後の日差しに溶け込んで、癒すように・・・。
月森の広い胸と腕の中に抱かれるように・・・。


ゆっくりと香穂子が顔を上げた。目元がほんのり赤く、人知れずに涙を流した跡だと言うのが分かる。
隠れていた厚い雲間からそっと顔を出した太陽に、月森はヴァイオリンを奏でながら優しく微笑んだ。
曲調をほんの少し変化させて、顔を覗かせた太陽へと誘いかけるように語りかける。
隠れてないでこちらへおいで・・・。もっと顔を見せておくれ、俺の太陽・・・。


弓が大きく弧を描き、空を切ってゆっくり降ろされた。
甘く優しく響く音色が余韻となって、空気を震わせている。


月森はヴァイオリンを置くと、香穂子の側へ歩み寄った。
今度は花の顔を上げた太陽の前に片膝を付いて、再び腰を下ろす。まだ度惑いがちに瞳を潤ませる香穂子に優しく微笑み掛け、そっと肩を抱き寄せると、額に口吻けた。
額へのキス・・・熱を持った唇から伝えられる、言葉に出来ない想い。
俺の唇に宿った熱い熱で、君の心が少しでもほぐれますようにと・・・。


額から唇を離すと、香穂子の頭を抱え込んで自分の胸へと抱き寄せた。
気丈な君は、泣きたくても、決して涙を見せたくないだろうから。
やがてゆっくりと香穂子の両腕が持ち上がり、月森の背へ縋り付くように回された。




俺たちの間に、言葉はいらない。
言葉以上のものが、確かにここにあるから・・・。