ながい睫毛と拗ねた頬



「えっ、うそっ! 桐也の演奏、もう終わっちゃったの!? 残念・・・聞きたかったのに」
「・・・香穂子、遅いっ」
「ごっ、ごめんね桐也。ちょっと楽器店に寄ってたの。海岸通りで路上ライブやるなんて知らなかったよ。ちゃんとメールで教えてくれたら、急いで駆けつけたのに〜」


放課後、海岸通りへやってきた香穂子はゆっくり解けてゆく人垣に駆け寄り、背伸びをしながら中を覗き込む。隙間から見えた衛藤に呼びかけて手を振るけれど、香穂子に気付いて綻んだ顔も「今来たの? 遅いよ」とすぐに唇を尖らせてしまう。路上ライブが終わったばかりを知らされて、残念そうに振り上げた手をゆるゆると降ろす香穂子は、それでも諦めずに「アンコールは?」と、桐也の演奏が聞きたいのだと心にある願いを語りかけた。


怒ってるの?ごめんね?ふいと逸らした横顔を見上げながら必死に謝るけれど、瞳を閉じた衛藤は唇を尖らせたまま。なんとかこっちを向いてもらわなくちゃ、気持ちがちゃんと伝わらないよ。胸の前で祈るように両手を握り合わせたまま、どうしよう・・・と困ったように見上げる香穂子は途方に暮れてしまう。

どうしたら許してくれるのかなと、困り果てた香穂子は小さく溜息を尽きて見上げるばかり。突然やって来たら驚くかな・・・喜んでくれるかな、会いたい気持を心の風船で膨らませてきたのに。あなたにそっぽ向かれたら、ふわふわ飛んでいた気持ちごと、私の風船が萎んでしまうの。


「ねぇ桐也、こっち向いて?」
「・・・・・・・・・」
「でも今日は放課後に会うって約束してなかったでしょ? 桐也に会いたいなぁって思った私が、勝手に海岸通りへやって来たんだもの。確かに桐也の演奏には間に合わなかったけど、よく考えたら私、遅刻じゃないもん。遅いぞって怒られるのは、おかしいと思うの」


諫めるように強い視線で射貫きながらも、どこか納得いかない心が現れてしまい、ぷぅと膨らんでしまう赤い風船の頬。
あ!良く見たら、桐也の睫毛長い・・・ほっぺに触ったら、きっと気持ちいいんだろうな。それでも影を落とす伏せられた長い睫毛に気付くと、ほうっと見とれてしまうのは惚れた弱みなのかもしれない。

うっすらと赤く染まる頬にふいと逸らした瞳、子供みたく尖らせた唇。これはもちかして怒っているというよりも、拗ねているんだろうか。間近でじっと顔を見つめていることを意識するうちに、だんだんドキドキして顔が火照るのを感じる。気が付けば無意識のうちに、呼吸まで潜めてしまうなんて・・・そう、気付かれないようにそっとね。

そう心に問いかけていた香穂子は、恥ずかしさと照れ臭さで火照る顔を隠すように小さく俯く。もし気付かれたら「瞳がそらせないほど、俺に惚れてんの?」と。鼻先をくっつける近さで覗き込みながら、悪戯にキスをしてくるだろうから。うん、きっとそうだよ。


「・・・香穂子?」
「・・・・・・」


前できゅっと手を握り合わせる、黙ったまま俯く香穂子に気付いた衛藤が視線を戻すと、拗ねた頬の赤みを消して静かに慌てだした。おい、急に静かになってどうしただよ。俯いて・・・あんた、もしかして泣いてんのか? 恋のベクトルはお互いに一方通行の平行線で、二人の間には落ち着かない空気が包み込む。自分の態度で悲しませたのでは・・・と、苦い顔で眉根を寄せる衛藤が「香穂子・・・」と、ヴェールのように覆う髪に隠れた表情へ真摯に呼びかける。


「ごめん、悪かったよ。あんたいつも、約束が無くても海岸通りに来てくれるだろ・・・休日とか放課後とかも同じ時間に。だから今日も来るかなって、勝手に期待してたんだ。香穂子がもう少し早く来てたら、スペシャルゲストってことで一緒に演奏できたのにさ。まぁそれは、次に取っておくか」
「・・・あっ、えっとそのね。途中で楽器屋さんに寄って、ヴァイオリンの弦を買っていたから、今日はちょっと遅くなっちゃったの・・・。待っててくれたんだね、私こそごめんね」
「いや、あんたが謝ることじゃないんだ、それに・・・えっと、何でもない。演奏は後で香穂子が好きな曲を、いくらでも弾いてやるよ。だから機嫌直せよ、な?」


最初はぷぅと頬を膨らましていた香穂子も、素直に謝る衛藤の言葉に、ゆるゆると視線を上げた。春先に柔らかな土の中から、小さな芽がそっと顔を覗かせるように。理由は分からないけど照れたように拗ねた頬も、ほんのり赤く染まる頬で子供みたく尖らせた唇も、いつの間にか影を潜め真摯な光に変わっている。そこにあるのは、心の全てを伝える真っ直ぐで澄んだ瞳。

一歩・・・もう一歩と近づき、衛藤が手を伸ばせば、いつでも腕の中へ閉じ込められる距離に入り込んだ。街を通り過ぎる人の雑踏も、どこかスローで遠く聞こえる別世界の中で、受け止めた想いを心で抱き締めながら、ただ一人をふり仰ぐ。


「桐也がどうして拗ねていたのか、ちゃんと教えてくれたら許してあげる」
「・・・・・・別に、拗ねてなんか」
「ね、何かあったの? さっきの演奏が上手くいかなかったとか・・・かな」
「演奏は完璧だったぜ。アンコールに二回も応えたくらい、客の反応も良かった」
「じゃぁ、どうして?」


ね?と愛らしく小首を傾けながら穏やかに。両手をそっと包み込み、優しく握り締めながら、見上げる微笑みと一緒に温もりを伝えてくれる。じんわりと広がるのは、柔らかい毛布でくるまれているような、温かさと安心感。

本当、あんたには敵わないな。どんなことがあっても、あんなに会うと心の中が一瞬で穏やかになるし、嬉しいことはもっと大きくなるんだ・・・不思議だよな。俺の中にスイッチがあるんだろうな、だから俺も会いたいし会えると嬉しい。


「その、さ・・・」
「うん、なぁに?」
「いつもいる仲間がさ、香穂子のヴァイオリン好きだって言ってたんだ・・・温かくて優しい気持ちになれるって。会うたびに上手くなってくる音色を聞くと、自分も頑張らなくちゃって元気が沸くんだと。それを聞くたびに、自分が褒められているみたいにくすぐったくて、すっげぇ嬉しくなったんだ」
「鉄さんとアツさんだよね、嬉しいなぁ。私のいないところで、そんな話になってたんだね。びっくりしたよ〜」
「で、知らないうちに俺の顔がけっこう緩んでいたらしくてさ。なんで桐也が照れるんだよとか、演奏する音色が甘かったとか色っぽかったとか、けっこうからかわれてたんだぜ」


せっかく香穂子が沈めてくれたのに気分まで一緒に思い出したらしく、「桐也、また拗ねてるの?」と、腕の中から囁く声に眉根を寄せて、眉間による皺をしなやかな指先が触れながら、笑って、ね?と必死に宥めてくれている。


あんたと一緒にいると、胸の中にいろんな色のカプセルが弾けるんだ。明るい気持ち、温かくて優しい気持ち、風の無い海のように穏やかな気持ち・・・。あんたの可愛さにドキドキしているとことか、カッコイイとこ見せようとしているのに、気ばかり焦って格好悪い俺しか見せられない自分とかも。

赤、青、黄、白・・・今感じたこの想いは、どんな色になるんだろう。ヴァイオリンの弦に乗せたら、どんな音が響くんだろう。俺を甘く捕らえる香穂子の音色が心に沸き上がり、俺の音色に絡みつく。あんたと一つになって高鳴る鼓動が知らせてくれるのは、約束していないけれど、もうすぐ香穂子がくる確かな予感。


それは、あんたのことが大好きな証。
息を切らせて駆けつけてきたあんたの笑顔を見たとき、俺がどんなに嬉しかったか、あんたに分かる?


「あんたのヴァイオリンは、お世辞にも上手いとは言えない。まだまだヘタッピ。だけど、あんただから好きなんだと想う」
「理由を聞いて安心した。ふふっ、桐也ってば可愛いー」
「俺を可愛いって言うな・・・こっち見るなよ」
「だって嬉しいんだもん、私のことを想ってくれている証だもの。いつもは自身たっぷりだけどほら、そうやって照れるところが可愛いの。また一つ、大好きな桐也を見つけちゃった」
「いいか、良い演奏と上手い演奏は違うんだぞ。香穂子はもっと練習が必要。ほらっ、俺をみてにやにや笑ってないで、さっさと練習するぞ。ヴァイオリン持ってるってことは、俺に演奏聞いて欲しいんだろ?」
「うん! でもその前に。桐也の演奏が聴けなかった変わりに、私だけのリクエストお願いしたいなぁ」


あのね?と口元に手を添えた香穂子が、わくわくと輝く瞳で見上げるから、期待に胸は膨らみ自然と顔を近づけてしまう。つま先立ちで背伸びをしながら、内緒話を囁く吐息に耳が熱く蕩けないように、無駄だと知りつつ気持ちだけは引き締めようか。あんたと俺、ドキドキする二つの胸の鼓動が重なれば、海みたく大きな熱いうねりに変わる。


化学反応みたく生まれる、二つが溶け合った新しい音と熱い想い。一人だけど二人分、っていうの? 沖から寄せる二つの波がぶつかり合うと、ボディーボードにぴったりなビッグウエーブになるみたいにさ。

あんたという海に飲み込まれて、溺れてしまいそうな・・・いや、一つに溶け合うような予感がする。
そう、俺が代わったのなら、間違いなく香穂子のお陰。あんたがいたから、征服するだけじゃない音楽の楽しさや、愛して伝える、温かくて優しい気持ちを知ったんだ。


「・・・ちゅっ!」
「・・・・・・・・・っ」


内緒話をしようとする香穂子の口元へ、身を屈めて耳を傾ければ、耳と口を繋げる優しい手の平が、あのね・・・と甘い吐息を注いでくれた。あんたの内緒話は、くすぐったくてちょっと気持ちがイイ・・・。そんなことを想いながら自然と緩む頬のまま、次に紡がれる言葉を待っていると、ふいに二の腕を強く掴まれた。


掴んだ腕を支えにしながら更に俺を引き寄せ、もっと高くと自分も背伸びをして。チュッと可愛い音と一緒に頬に触れたのは、柔らかで少し湿り気のある熱さ。パチクリと一瞬瞬きをした後に隣を見れば、悪戯に煌めく大きな瞳に交わる。頬に不意打ちのキスをされたんだ・・・そう気付いた瞬間に熱さが溢れ出し、ポンとはじけ飛んだカプセルが、心に鮮やかな色を解き放つ。

好きなヤツからのキスは嬉しい、いつも照れ屋な香穂子がくれた小さなキスなら、余計に嬉しさも倍増だ。だからすぐにも抱き返して、ありがとうと大好きの気持ちを唇へ返したい・・・あんたがくれた心の色を伝えたい、そう想うのに。


「ねっねっ、桐也。今、何色になった?」
「・・・秘密」
「え〜そんな、恋人同士に秘密は無しなんでしょ? 私にこっそり教えて?」
「じゃぁ香穂子も、自分で心の中を見てみれば? ってか不意打ちの可愛さは認めるけど、頬だけじゃ俺は堕ちないぜ」
「強がってても、桐也のほっぺは嘘をつかないの。嬉しかったり照れるときみたく、真っ赤なりんごさんなのになぁ」
「とにかく頬だけじゃ駄目、そのキスやり直し」


ヴァイオリンの駄目出しの厳しさとは違い、めっと叱るように「やり直し」と告げる瞳は、甘く緩んだ蜜が煌めく。それだけ?もっと欲しいのにと、言葉無く拗ねる拗ねた頬とちょっぴり尖らせた唇。ぱちくりと瞬きした香穂子が、くすりと笑みを零し、可愛いと微笑みながら伸ばした手でそっと両頬を包み込んだ。


「でもね、さすがに外だと・・・これは恥ずかしいの」


これと言いながら唇の前に差し出した両手の人差し指を、チュッチュとキスをするように数度触れ合わせるのは、唇同士のキスを示す香穂子のゼスチャーだ。海岸通りを行き交う人の波を、きょろきょろ見渡しながら羞恥に顔を真っ赤に染めて・・・あんたの方が数倍も可愛いじゃん、と華奢な肩を抱きながら心の中で想う。


「じゃぁさ、見えなきゃ良いんだろ? 大丈夫だって。あんたが壁を背中に立って・・・俺が通りから香穂子を庇えば、ほら見えないじゃん」
「そっ、そういう問題じゃないのー。例え一瞬でも触れたら・・・止まらなくなりそうなんだもん、お外でそれは困るの」
「今度はあんたのためだけに弾くからその前に、最高にイイ音が出せるように・・・あんただけしか見えないように、とびきり甘いヤツが欲しいんだけど」


熱さが瞳を通して流れ込む潤んだ眼差しを覗き込み、抱き締めていた香穂子の華奢な肩をくるりと方向転換。壁際の日陰にトンと軽く押しつけて、通りから死角になるように自分の身体を盾にすれば、すっぽり隠れるあんたは見えない筈だ。ほら早く・・・と、逸る気持ちをギリギリの理性で抑えながら、香穂子が届きやすいように身を屈め、顔を近づけたまま静かに瞼を閉じた。


耳から自分の鼓動の音だけが早撃ちで聞こえる、長いようで短い一瞬。伏せられた瞼に影を落とす長い睫毛や、柔らかで熱さを秘めた唇を見上げながら、ほうっと魅入っているとも知らずに、今かまだかと待つ時間がもどかしい。自分卯から動いてしまおうか・・・そう動きかけた瞬間、微かに・・・でも確かに重なった唇の柔らかさ。


つま先立ちした香穂子が、そっと啄む軽いキス。

じんわりとゆっくり広がる甘い蜜が、心と身体に染み渡れば、心にあるいろんなことが一瞬で蕩けてしまう。
そうだよな・・・俺、あんたが好きだ。恋するとカッコイイ所ばかりじゃなくて、時にはカッコ悪い自分もあるけれど、あんたが引き出してくれたそんな自分が好きだと思えるんだ。


自然と微笑みを刻む頬と唇のまま、ゆっくり瞼を開いて真っ赤に湯立つ香穂子を抱き締めると、心配そうに見つめる愛しい宝物へ、甘く耳元に囁いた。良し、今度は合格・・・言葉と一緒に頬を包み、小さく唇を啄み返しながら。