長雨に閉ざされた空間で
何時の間に眠ってしまったのだろうか・・・。
自分の部屋のベットの上で白いシーツの海に漂いながら、俺は窓の外に聞こえる激しく叩きつけるような強い雨の音で目が覚めた。忘れ去り止まっていた時間の流れを掴もうと、時計と窓を見ようと身体を起こしかけたところで、腕にある重みと柔らかさに気付き、結局起き上がるのを止めて再び身体を横たえた。
湧き上がる想いに緩む瞳と頬を止められず、動かさないようにと首だけ巡らせて外を見れば、バケツをひっくり返したような大粒の雨。眉を潜めて一番の不安だった壁に掛かった時計に視線を向ければ、それ程時を進めていないようで、君を帰すまでには充分な時間を差していた事に大きく安堵の溜息を吐く。
息を吸えば胸の中へ溢れる水分と冷たさが、降りしきる雨のようにしっとりと染み込んでゆく。
情事の後を伺わせる、二人が熱く飛び散らせた汗が混じる甘く気だるい空気を、俺の中にある気持ごと穏やかに宥めてくれるように・・・そして、熱さで乾いた喉と心を潤すように。
ならばまだ、このまま君を抱き締めていても、いいだろうか?
そう思って身体が冷えないように・・・これ以上俺の前に君の白い素肌を晒さないようにと・・・。
はだけ落ちたシーツを手で探り当てると、足元からゆっくりと引き上げてゆく。君と俺の身体に被せると彼女の肩先まで覆いながら、あどけない寝顔で安らかに眠る香穂子の頬に、そっと口付けた。
どうも雨が降ると起き上がるのが億劫というか、このままもう少しまどろんでいたい気分になる。
重く身体がだるいのは雨のせいだけではなく、香穂子と恋人としての熱く甘い時間を過ごしたから・・・というのもあるのだろう。だがそれは不快なものではなく、どこまでも心地良く満たされたもの・・・ずっと沈んでいたいと・・・温かさに包まれていたいと思う。
絹糸のような滑らかな肌と肌を触れ合わせて、生まれたままの姿で抱き合うのはとても温かく心地が良い。
直接響く鼓動とくすぐったく降りかかる彼女の寝息が、安らぎをもたらしてくれる。
一回り小さい君をしっかり抱き包んでいるのに、全てを包み込まれているのは俺の方なのだ。
身も心も解け合い互いを一つに・・・。
情熱に身を任せるだけでなく、こうしてまどろんでいる時間が何よりも大切で、君が愛しいと思う。
香穂子は・・・そう思って首を傾け横を見れば雨の音で起きたのか、それとも俺が身じろいだ振動が伝わってしまったのか。眠そうな目を指先でこすりだし、俺の腕の中から首を巡らせ、きょろきょろと部屋の中を見渡していた。周囲に広がる薄暗闇に少しだけ不安そうに顔を曇らせながら、縋るように見上げてくる。
「・・・お部屋の中も窓の外も暗くなってる。蓮くんどうしよう・・・私、随分たくさん寝ちゃったのかな」
「時間はまだ平気だから、ゆっくり休むといい。疲れただろう? 暗いのは、雨が降っているからなんだ」
「・・・雨?本当だ。しかも結構強く降ってる、どしゃ降りだね。お部屋の中まで雨の音が聞こえるよ。でも傘持って来ておいてよかった」
「何時の間に振り出したのだろうか・・・実は俺もつい先程気が付いたんだ。今まで窓の外を気にする余裕なんて、無かったから」
君に夢中で・・・と香穂子に微笑を向けながら優しく胸へ引寄せると、鼻先が触れ合うほど近くで俺を見つめる彼女の頬が瞬く間に赤く染まっていく。顔を寄せて額を唇でかすめつつぺろりと舐めれば、腕の中の体が小さく飛び跳ねて、縋りつく腕にキュッと力が込められた。
共に求め合った熱さや刻み込まれた想いを身体が思い出したのか、抱き締めた柔らかい肌が熱くなり、ピタリと触れ合う胸から早鐘を打つ鼓動・・・彼女の心の声が響いてくる。
しかし恥ずかしさを誤魔化す為なのか、それとも窓の外を見るためなのか。
香穂子は小さく身じろいで俺の腕から抜け出すと、くるりと寝返りを打ち俺から背を向けてしまった。
肘で支えるように上半身を起こした拍子にシーツがはらりと零れ、惜しげもなく晒された白い背中に彼女の赤い髪が流れ落ちてくる。無邪気な彼女が見せるそんな些細な仕草の一つにさえ、俺だけに見せる大人びた艶を感じてしまい、鼓動が高鳴り飛び跳ねずにいられない。
種火となって収まりかけていた熱が再び燻りだし、大きな炎となって駆け巡るのが分かる。
このまま君を後ろから抱き締めたい衝動と、苦しさを増す呼吸を、耳に吸い込まれる雨の音で押さえて・・・。
俺は目の前の白い背中と、うつ伏せになって頬杖をつきながら窓の外を楽しげに眺める君を、見つめていた。
「私ね、子供の頃は雨女だったんだよ。私が雨を降らせるんだって、よく皆に言われたの」
「そうなのか? 意外だな。君は雨よりも、太陽に好かれているように見えるんだが」
「私が雨を降らせている訳じゃなくて、雨が降り出すと、いそいそ出かけることが多かったから、そう見えたのかな。新しく買ってもらった傘を差したくて・・・お気に入りの長靴を履いて水溜りに飛び込みたくて・・・。いつもずぶ濡れの泥ん子になって家に帰って来るから、よくお母さんに怒られてた」
「そうだったのか・・・上手く言えないけど安心した。いかにも香穂子らしいな」
肩越しに俺を振り返る香穂子が、どこか懐かしそうに笑う。
彼女が楽しそうに笑えば、いつの間にかつられて一緒に笑っていて、穏やかな気分に戻っていた。
香穂子は身体を捻って方向を転換させると、シーツについた肘で這いながら、嬉しそうにいそいそと俺の方へ擦り寄ってくる。おいで・・・と、這い寄る彼女に向けて両手を伸ばし広げれば、飛びつくように俺の胸の上へポスンと飛び乗り、覆い被さってきた。
「私は雨が好き、雨の日って素敵だもの。でも何がって言われると困っちゃうんだけどね。蓮くんは雨の日は苦手? 梅雨時の長雨は嫌になっちゃう?」
「人が生活したり音楽を奏でる上で梅雨はうっとおしいものだ・・・以前は好きではなかった。だが君と出会った今ではそうでもない。雨降りの散歩は、いつも気が付かないものを見せてくれると、君が教えてくれたから」
抱き込んだ温かく柔らかな感触と、楽しげに揺れるスプリングの心地良さに挟まれながら。
頬を寄せて擦り寄る彼女の髪に指を絡め、愛しさ込めて呼吸と同じようにゆっくり撫でてゆく。
「雨だと足元を見るようになるでしょう? 静かな水溜りにポツポツ広がる波紋とか、雫をたっぷり付けて輝く葉っぱや蜘蛛の巣とか・・・。この前はね、樹の根元にある苔の中に、小さな可愛いきのこを見つけたんだよ。きのこも私と同じで傘をさしてるな〜って思ったの!」
「本当に君はいろいろ見ているんだな。俺は水溜りにはまらないようにと、足元を見るだけで精一杯だ。香穂子を見習わなくてはいけないな。だが足元だけでなく、前も見てくれると嬉しい。俺は君から目を離せないんだ」
「ごめんね、気をつけるね。それに蓮くん知ってた? 雨が降るとお花も濡れないようにって、下を向くの。花びらを閉じるんだよ。でね、雨が止むとまた上を向いて開くんだよ・・・不思議でしょう?」
指が通るたびに気持良さそうに目を細める香穂子は、今度はしがみ付く胸の上で頬杖を付き、俺の心配を余所に次から次へと見つけた事を語りながら、ね?と愛らしく首を傾け見つめてくる。
心の中で苦笑していても君の世界に引き込まれてしまうから、俺も同じものを一緒に見たいと思ってしまうんだ。だから今度見つけたら俺にも教えて欲しいと言ったら、嬉しそうに頷いてくれた。
しかし楽しいと思うその反面、雨が好きだと・・・嬉しそうに雨の日を語る君を見ていると・・・雨雲のように厚く俺の心を覆って湧き上がる想いがある。愛しさだけでなく・・・不安・・・寂しさ・・・独占欲・・・全ての想いが俺の心にも雨を降らせるんだ。優しく温かいものから・・・冷たく大粒で激しいものまで。
胸の上に乗る香穂子の背を懐深く抱き締めると、身体を反転させて彼女の上に覆い被さった。
真上から真っ直ぐ・・・大きく見開かれる瞳を見つめる。
「今も・・・君はこの雨の中へ駆け出したいと、そう思っているのだろうか?」
「雨だと髪の毛がまとまらないし、蓮くんに会うからってせっかく選んだお洋服もサンダルの足元も濡れちゃうし・・・楽しい事ばかりじゃないけどね。もう泥ん子になる訳にはいかないから」
「俺の家に来る時ならば、遠慮なく水溜りに飛び込んでも構わない。すぐに君をシャワーへ連れて行けるから安心なんだ・・・俺も一緒に。だが帰りは・・・風邪を引かないかと心配になってしまう」
「もう〜蓮くんってば・・・。そんなエッチな事言うと、レインコート着て完全防水で来るからね。それに私だってたまには思うんだよ、外に出たくないな〜って。このまま・・・帰りたく・・・ないなって」
「ならば、帰らなければいい」
「ちょっと蓮くん! そういう訳にもいかないでしょう!」
真っ赤に膨らませた頬で俺を睨む香穂子の顔を両手で包み込むと、困ったと言わんばかりに微笑を向ける。
では、どうしたら良いだろうか・・・と。
そのまま少しずつ重みを乗せながら瞳を閉じ、唇を重ねた。
拗ねる彼女を宥めるように・・・帰したくない思いは本当なのだと伝えるように。
彼女の想いを感じ取り自分の中へと取り込むように、熱と潤みを持ち始める赤い唇を吸い。
俺の想いの数だけ角度を変え、押し付けながら感触を確かめて・・・。
「遣らずの雨・・・だな」
「えっ? 遣らずの雨?」
名残惜しげに互いの唇がゆっくり離れた後。
焦点が定まりきらずにぼんやりと見上げ、甘い吐息で呟く香穂子の頬を包むように撫でながら、俺は瞳を緩めて微笑みかけた。覆い被さっていた彼女の上から身体を離すと再び隣へ横たえて、引き寄せた頭をそっと腕に乗せて胸の中に優しく閉じ込める。
「この前読んだ本に書いてあったんだ。遣らずの雨とは訪れた客を帰さない為に・・・引き止めるように降る雨の事なのだと。今窓の外に降る雨は、まさにそれだと思う。香穂子を家に帰したくない俺の想いが心の涙となって、君の帰り道を塞いでいるのかも知れない」
「蓮くんのお家から帰る頃になると、いつも雨が降るなって・・・私もね、ずっと思ってた。側にいたい気持は私も一緒だから・・・蓮くんだけじゃなくて、きっと二人分の雨なんだよ。やっぱり私は、雨を降らせちゃうんだね。子供の頃も・・・今も・・・・・・」
「どうか悲しい顔をしないでくれ・・・雨は悲しいものだけではないと、君がそう教えてくれたじゃないか。雨の後には虹が出るんだろう? だから雨が止むまでもう少し・・・このまま、俺の側にいてくれないか?」
「うん・・・・。雨よりも私は、温かい蓮くんの腕の中にずっと包まれていたい。雨が止まなければ良いなって、思っちゃうよ」
遠くの空が明るく晴れているのが見えるから通り雨だろう。この激しい雨もじきに止む筈だ。
それを告げるかのように、俺と君との時間を留めておいてくれる雨雲が、少しだけだからねと・・・。
窓の外に駆け足で去りながら、腕の中の香穂子と同じように優しく微笑んでくれていた。
だから俺の望みを叶えてくれた君と、優い気遣いを見せてくれる雨雲に。
ありがとう・・・と心からの感謝を込めて、俺も微笑みを向けた。
きっと君が帰る頃には大きな虹を空に架け、煌く街並みを作り出して俺たちを迎えてくれるだろう。
だが・・・雨が止むまで君がいてくれるならば、この雨が少しでも長く降り続けばいいと願ってしまう。
長雨に閉ざされた、君と二人だけの空間でいたいから。