なだめる
休日を二人で過ごそうと香穂子と出かけた帰り道、一息つこうと立ち寄ったのは海が見渡せる高台の公園。
眺めの良いベンチに座り遠くを見れば、空の端に沈んでゆく夕日が、雲や周囲の景色を優しいオレンジ色に染め上げてゆく。海に溶け合う空も街の景色も黒いシルエットに包まれて、視界の中に違和感のある人工物が一つも無い自然の情景が広がっていた。
もうすっかり家の明かりを灯す時間になっていたが、互いにまだ離れがたくて・・・もう少し一緒にいたかったから。いや、君を一人にさせておきたく無かったんだ。
見上げればほんのりまだ明るいのに、足元は少しずつ宵闇の影が落ち、視界に映るものたちをゆっくりと飲み込んでいく。西に傾いた太陽は急速に水平線の彼方へと、その姿を隠そうとする・・・沈みゆく姿を見られまいとするように。美しい夕焼けをもたらす黄昏のひと時に、どこか不安や胸騒ぎを覚えるのは何故だろうか。
薄暗くなって、隣にいる筈の君の表情まで判別しにくくなるからかも知れない。
闇に飲み込まれ、このまま消えてしまうのではと思ったから。
昼間は元気だったのに、すっかり大人しく黙ってしまった日野は沈む夕日と同じように俯き、膝の上で赤い携帯電話を強く握り締めていた。祈るように合わせた両手で包み込み、茜色に溶け込む髪がベールのように顔を覆っている。細く華奢な肩が時折小さく震えているから、必死に耐えているのだろう。
労わるようにそっと覗き込むと、吐息が混じる微かに震える声が聞こえた。
「・・・・・・日野?」
「うさぎさん、いなくなっちゃった・・・・・。やっぱりもう、戻ってこないのかな」
ゆるゆると上げられた顔は、ほんのり目元が赤く染まっていた。
それでも心配かけまいと、精一杯の笑顔を作って真っ直ぐ振り仰ぐ輝きが、彼女の心の痛みを伝えてくる。
俺まで辛い表情をしては、きっと彼女はもっと悲しんでしまうだろう。元気を出して欲しいと願いながら、緩めた瞳と頬笑みで包み込んだ。
「月森くん、ごめんね。せっかくのお出かけだったのに、私のせいで全部予定が台無しになっちゃって。楽器屋さんに行って、コンサートにも行く筈だったのに」
「気にしないでくれ。心が落ち着いた状態でなければ、音楽も楽しめないだろうから。コンサートはまた機会があるが、大切なものは今しか探せないだろう? 俺こそすまなかったな、君が無くした物を探せなかった」
「どこに行っちゃったのかな〜白いうさぎさん。月森くんからもらった、大切な宝物だったのに・・・。ねぇ、帰るついでにもう一度だけ、着た道を辿って探してみても良いかな? ほらっ、誰かが届けてくれたかも知れないし」
「もうすっかり暗くなってしまったから、これ以上探すのは難しいだろう。それに、夕方になって人通りが多くなったから何かあっては危ない。諦めきれない日野の気持ちは分かる・・・残念だが・・・・・・」
「そうだよね・・・困らせてごめんね。私、ずっと月森くんを引っ張り回しちゃったよ」
切なげに揺らいだ瞳の煌きは、最後の夕日を映したからなのか、それとも溜めていた涙の輝きだったのか。
膝の上に置いた携帯電話を胸元へ掲げ持つと、残っていた白い紐の切れ端を名残惜しそうに弄んでいる。
日野が無くしたのは携帯電話につけてあった、白くてふわふわしたうさぎの縫いぐるみ。先日学校帰りに、可愛いと目を輝かせて雑貨店のショーウインドーに張り付いていたのを、後日俺が彼女へプレゼントした物だ。
再び同じ店に行き、欲しがっていたうさぎの縫いぐるみを手に入れるまでに、期待と葛藤と緊張で潰されそうになったのを覚えている。それでも勇気を出せたのは、喜んでくれるだろう笑顔のお陰だったと思う。
彼女に手渡し受け取ってくれるまで、コンクールやステージに立つ時でさえこんなにも緊張した事は無かった。
携帯電話の飾りというよりも、縫いぐるみに携帯電話が飾りでついているように見えて随分目立っていたな。
合わせた両手の平にちょうど座って収まるほどの丸いうさぎは、アクセサリーとしてぶら下げるには少し・・・いや、かなり大きいように思えたのだが。毎日いつでも肌身離さず持っているものに付けたいからとそういって、頭についた白い紐を、苦労しながら本体に結わえていたのを思い出す。
暇さえあれば携帯を取り出し、触り心地が気持ち良いのと頬を綻ばせながら抱き締めていた。鞄の外で元気に跳ねるうさぎはこのまま紐を振り切って空高く飛んでしまうのではと、彼女同様目が離せなかったが。日野そのもな愛らしさで、まさか本当にそうなるとは。縫いぐるみが大きかっただけに、細い繋ぎ紐へ負担が多くかかってしまったのだろう。大切にしてくれていると分かって嬉しかっただけに、原因を正直に伝えるのは俺には出来ない。
--------月森くん、大変! 白いうさぎさんを捕まえなくちゃ!
うさぎが逃げたと慌て出したのはランチを食べ終わり、観賞するコンサートまで時間があるからと楽器店に立ち寄る途中だった。時間を確認する為に鞄から携帯を取り出したところで、いつの間にか無くなっていた事に気付いたらしい。
慌てる日野を宥めながら、その後に出かける予定を全てキャンルして、俺たちはうさぎの捕獲に乗り出した。
来た道を逆に辿りつつ落ちていないかと訪ね歩き、心当たりを全て探したのだが・・・結局は見つからずに夕暮れを迎えてしまった。俺ももう少し早く気付いていれば、君を悲しませずに済んだのにと、後悔ばかりが湧き上がる。
「可愛いうさぎさんだったから、今頃きっと誰かに拾われちゃってるよね。でもまだそれなら良いの、だって大切にしてもらえるんだもん。人の足や車に蹴飛ばされて踏まれて、泥だらけになっていたらどうしよう・・・痛いよ寂しいよって泣いていたら、私のせいだよ・・・ごめんね」
「日野・・・」
「月森くんからもらったプレゼントは、私の事を考えて選んでくれたんだって思うと凄く嬉しいの。あのうさぎさんはね、いつどこにいても私を気にかけてくれている、優しさがギュッと詰まった心の欠片なんだよ。ずっと、ずっと大切にしたかった。うさぎさんが踏まれたり蹴飛ばされているって事は、月森くんの心が踏みつけられているって事なの。私には・・・それが一番耐えられない!」
熱い想いに押されて身を乗り出しながら、振り仰ぐ真っ直ぐな光りが矢となり俺の心を射抜く。
ごめんね・・・と声を詰まらせると、潤みかけた瞳を慌てて手の甲で拭い、顔を反らしてしまった。
落ち着くために深呼吸をすると、無くした縫いぐるみの名残である白い結び紐を、携帯電話から外し始める。
震える指先のせいか上手く解けずにいるが、俺が手を出してはいけないのだと思い、出しかけた手を気付かれないように引き戻した。彼女が大切にしている金色の弦と向き合っている時に、似ているたから。
どんな時にも笑顔で明るく、挫けずに強くて周囲を励ますけれど、本当は君こそが傷つきやすく繊細な心を持っている。手の平に乗せた細い紐を愛しそうに触れながら、祈りや想い思い出、感謝といった全ての言葉を込めているのだろう。紐ごと握り締めた手を胸に当てているのを声をかけることも出来ず、ただ見守る事しか出来ないけれど・・・せめて。
俺だけが知っている傷ついた心を、優しくそっと癒したいと思う・・・君が俺を温かく包み込んでくれるように。
肩を包むと、頭ごと自分へ寄り掛からせるように抱き寄せた。最初の一瞬は身を硬くしたものの、直ぐに柔らかく緩んだのは心と一緒に俺へ預けてくれたから。身を寄せながら互いに息を潜め、高鳴る鼓動を伝え合う。
花の香りがする赤い髪に鼻先を寄せながら、握ったままの手に重ねて包み込んだ。
「日野が無くしたんじゃない。きっとうさぎは、森へ帰っていったんだと俺は思う」
「森・・・へ?」
腕の中の彼女がきょとんと目を軽く見開き驚いているように、こんな事を言う俺は珍しいのだろうなと、自分でも思う。照れ臭いが自然に浮かんだままを言葉にしたのだが・・・顔に熱さを感じながらはにかむと、そうか・・・そうだよねと。受け止めた言葉を呟き噛み締めながら、次第に笑みが浮かんでいった。
「日野と一緒で、台地と大空を自由に飛び回りたかったのだろう。繋がれて縛られた狭い世界より、もっと広い世界が待っている・・・君たちに相応しい場所が。今頃は仲間や家族など、大切な人たちの元へ帰っている頃だろうな」
「フフッ・・・月森くんがそんな事言ってくれるとは思わなかった」
「そうだろうか、俺も君に似てきたんだと思う。心地良くて、良い変化だ」
「さっきまでの私と別人みたい。蓮くんの一言と微笑がいつもの私にしてくれるの。そしていつの間にか同じ表情になっていて、柔らかく温かい気持ちになってる。ありがとう、嬉しかった・・・元気でたよ」
「大切にしていた気持ちは、いなくなったうさぎの縫いぐるみも感じている筈だ。縁があったら再び手元に戻ってくるだろう」
「うさぎさんには窮屈だったのかな。大切な人と離れ離れは辛いもん、悪い事しちゃったかも。月森くんの気持ちも籠っているから私たち二人の所に、大切な人を連れて一緒に会いに来てくれると良いよね」
振り仰ぐふわりと優しい笑顔が、俺の心も明るく温かく照らしてくれる。忙しない太陽は沈み周囲もすっかり暗闇に包まれてしまったが、家路に誘う外灯やベンチから見渡せる港の明かりがほのかに照らし始めたように。
名残惜しそうに残った紐を触ったり眺めている所をみると、心の底ではまだ諦めきれないのかも知れない。
放っておけば夜の街を駆け回り、一人で探しに出てしまうのではと不安が込み上げてくる。
君の為に俺はどうしたらいい? 何が出来るだろうか。
日野の手から白い紐を摘み取ると、失礼する・・・そう言って彼女の左手を取った。
柔らかくて温かな手は、一度繋ぐと離しがたくなるな。だが心を宥めて引寄せると、ほんのり赤く頬を染めた日野が、自分の手と俺を交互に見ながらソワソワと腕の中で身じろいでいる。
突然抱き寄せただけでなく手まで握って・・・これでは他のベンチで肩を寄せ合う恋人達と同じではないか。
ふと我に返れば衝動のままに動いた自分に熱さが噴出し、早駆けする鼓動が弾けてしまいそうだ。だが君を抱き締めたこの手はもう離せない。
「あの・・・月森くん?」
「突然すまない。その、おまじないをしてもいいだろうか? 君のうさぎが戻ってくるように」
「えっ! そんな素敵なおまじないがあるの。ねっ、教えて教えて!」
ぱっと目を輝かせて食い付き身を乗り出すのを、自然に浮かんだ笑みで宥めると、握ったままだった左手を開いて指先を伸ばした。眉を寄せて神妙な面持ちで見つめる日野に、堪えた可笑しさが微かな震えとなって伝わってしまう。互いに視線を交わしてはにかむと、薬指の根元に縫いぐるみが残した白い紐を結んだ。
「うわ〜可愛い! でもあの、左手の薬指・・・」
「左手の薬指は、心臓に一番近い指といわれているんだ。携帯電話に結んだ縫いぐるみと君、そして君と俺。結んだ繋がりが永遠に切れないようにと願いを込めて」
携帯電話に付けていた白く大きなうさぎの縫いぐるみは、紐から離れて飛んでいってしまったが。
音色はどこまでも自由に羽ばたいて欲しいのに、君自身や心は、いつでも俺の元にいて欲しいと願わずに射られない。向けられる微笑が温かいほどに胸が甘く締め付けられるのは、願って止まない想いの狭間で揺られるからなのだろう。だから繋ぎ止めておきたい、君の側にいたい・・・・俺も君を離さない。
日野だけでなく俺も必死に逃げたうさぎの縫いぐるみを探していたのは、君と重ねていたんだと思う。
熱く擦れかける吐息で囁きながら左手を掲げ持ち、唇を寄せた先は白い蝶が止まった薬指・・・誓いのキス。
初めは無邪気に喜び、指先を軽く振りながら結び目の蝶が揺れるのを楽しんでいたが、ようやく気付いたのか真っ赤になって黙り込んでしまった。唇を寄せたまま視線を上げれば、耳や首筋まで染まり火を噴出しそうなのが夜目にも分かる。
「ねぇ月森くん、これって失くした物が返ってくるおまじないなの? それとも・・・・左手の薬指にはめる指輪にちなんだものなのかなって・・・あっ、嫌とかじゃないの。その・・ね、嬉しかったから」
「君が元気になってくれたのなら、良かった。今日は暗くなったから、明日もう一度探しに来ようか」
「うん、ありがとう! きっと戻ってくる予感がするの、おまじないのお陰かな」
本当は思いつきで考えたおまじないだとは言えなかったが、嬉しそうに指先を見つめる君が幸せそうだから、それでもいいかと思う。心に秘めた本当の願いも、いつか叶う日がくると願って。
上手く出来た蝶結びは、君の指に止まる白い蝶。
そう、まるで薬指にはまる誓いの指輪のように煌いていた。