無自覚という名の罪
君がいるような気がして、心のままに足が向いた先は屋上だった。
天気が良いからだろうか、いや・・・。香穂子が奏でる音色が風に乗り、直接俺の心へ届いてきたから。
屋上の重い扉を開ければ爽やかな空気と共に、予想していた通りの音色が聞こえてきた。昼休みの屋上にいるのは、どうやら香穂子だけのようだな。邪魔をしないように少し離れたところで音色に聴き入っていると、演奏が終わり静かに弓が下ろされた。拍手をする俺に気づき、照れくさそうな笑みを浮かべると、吹き抜けるそよ風が甘い香りを運んでくれる。
花の香りだろうか? それとも果実の香り?
どこから漂ってくるのだろうかと周囲を見渡していると、彼女はヴァイオリンを傍にあったケースに置き、いそいそと懐に駆け寄ってくる。駆け寄る香穂子と共に、香りも一緒に俺へと近づいてくるのは・・・そうか、この甘い果物の香りは彼女が纏っていたんだな。
「香穂子、良い香りがするな。香水か何か付けているのか?」
「へ? 香水は付けてないけど・・・あっ! 今ね、ちょっと休憩しようと思って、楽器を置いた時に桃の香りがするキャンディーを舐めたの。お昼ごはんをここで食べた時にも飴を舐めたから、きっとその香りかもしれないね。とっても美味しいんだよ」
「桃・・・か、言われてみればそんな香りだ。春を思わせる爽やかな甘い花の香りは、香穂子に似合うと思う。俺は好きだ」
ぱっと頬を桃色に染め、嬉しそうに浮かべた香穂子の笑みに、鼓動が大きく飛び跳ねた。一瞬止まった時間が再び流れ出すと俺の両腕を掴み、色濃く香る桃の香りと彼女の顔がぐっと近づいて・・・。精一杯つま先立ちで背伸びをしながら、キスをねだるように振り仰いだ。
香穂子が何をしようとしているのか分からず、ただ見守りながら、走り出す鼓動を抑える事しかできない。じっと固まる俺にちょこんと赤い舌を差し出し、ほらね?と視線で飴のありかを教えてくれた。吸いつきたくなるような赤い舌の上に乗っているのは、薄桃色をした透明のキャンディー。小さく口を開けた瞬間に、閉じ込めた香りが一気に溢れ俺を包む。
心や脳裏まで桃色に・・・いや、君の色に染め上げられて、心地良い痺れに眩暈がしそうだ。
再び舌を戻すと口の中でころころと飴を転がし、美味しそうに頬を綻ばせている。甘いものを食べているときは幸せだと言うように、見ている俺まで温かい空気に包まれ、頬も瞳も柔らかく緩むのが分かる。手の平にはぁっと息を吹きかけ鼻先を寄せているが、首を傾げているところを見ると、自分では良く分からないらしい。
君が気づかないところで、無意識にも甘く俺を惹き付けているというのに・・・。
「ん〜でも、そんなに強く香るかな? 屋上でたくさん空気が溢れているのに、隣にいる蓮くんが気づくくらい強い香りなら、気を付けなくちゃ。お友達にも何個かお裾分けしたから、午後の授業は教室中が桃の香りにならないといいんだけど」
「別に気にならないから、俺はそのままで構わないが」
「本当? 口の中で広がるこの味と香りが、私も大好きなの。ほら、飴を舐めると落ち着くって言うか、幸せだなぁって思うから。まだたくさんあるから、蓮くんも一つ舐めてみる?」
そう言って俺の返事を待たずに、屋上の隅にあるベンチに駆け寄ってしまった。楽譜やヴァイオリンケースと一緒に置かれていた何かを手に持つと、ひらりと蝶のように舞い戻ってくる。手にしていたのは茶色い熊の顔をした、彼女愛用のふわふわなポーチ。手の平サイズの愛らしい熊は、好きなキャンディーをいつでも食べれるようにと、その中に蓄えてくれているんだ。
「はいこれ、蓮くんのだよ」
「いや、俺は・・・」
「どうしたの? 食べないの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
小さなファスナーを開け、熊の顔の中からとっておきの一粒を差し出す君は、きらきらと目を輝かせている。俺が桃色の香りに包まれるのが、そんなに楽しみなのだろうか? 半ば押し付けられるように、柔らかい手に握り締められながら託されたのは、赤いハートが描かれたピンク色のパッケージ。いや、包が逆さまだな・・・どうやらハートに桃の形を重ねているらしい。
手のひらに乗ったピンク色のパッケージには、「恋キャンディー・桃色吐息」と書かれている。指先で摘まみ裏側を見れば、キスがしたくなる味だと書かれていて、少しばかり照れくさい。いかにも女性が・・・可愛いものが大好きな香穂子が、喜んで手にしそうな菓子だと思う。
これを俺に託したということは、一緒にこのキャンディーを舐めてキスをしようと、君はそう言いたいのだろうか?
もちろん俺は大歓迎だが、心の中にある願望が先走ってしまい、想いは深く絡まるばかりだ。
とはいえ、屋上で少し距離をおいても強く香るのだから、教室に戻れば香りが確実に制服や口に残るだろう。
まだ午後の授業があるのだし、クラスメイトに問い詰められたら答えに困ってしまう。
彼女が好きなものを一緒に味わいたいが、今だけは避けたいのが正直な気持ちだ。ありのままを答えるのは恥ずかしすぎるし。かといって桃色吐息の飴を舐めた後に、歯を磨くなど出来るわけがない。彼女の気持ちが嬉しいし、大切にしたいから・・・。
黙ったまま固まる俺を、香穂子は不思議そうにきょとんと見上げている。曇りのない澄んだ大きな瞳は、純粋に好きな飴をお裾分けしたいだけなのだと教えてくれた。まさか、香りを嗅いでから胸の奥に燻り始めた熱さを、包み紙のに言い当てられたなんて・・・だからこそ、どうしたら良いか困ってしまう。
こうして悩む間にも、そよ風に乗った甘い桃の香りが漂い、俺の脳裏を霞ませる。
「その・・・すまない。香穂子の気持ちは嬉しいが、甘いものが得意ではないんだ。一粒は大きいから、半分くらいでちょうど良い。甘味が強いと、奥歯が痛む気がするんだ」
「えっ! 蓮くん虫歯あるの!? 大変! 一緒に歯医者さん行く? 歯の健康は集中力にも影響するんだよ。でも私、歯医者さんって苦手なの、どうしよう・・・」
「いや、物の例えだ。虫歯ではないから、心配しないでくれ。君を想いながら後でゆっくり、家で味わおうと思うんだが、駄目だろうか?」
「駄目じゃないよ、蓮くんが一番大事だもん。でも大丈夫?」
虫歯など一本もないし、至って健康だ。香穂子の言う通り、集中力や演奏にも影響するから、日頃から体調管理には気を使っている。甘いものが苦手だから嘘ではないのだが、逃れる方法とはいえ、さすがに苦しいなと思わずにいられない。桃の香りを纏う自分を想像しただけでも、かなり照れくさい・・・君ならば可愛いらしいのに。
だが理性で耐える俺の為というより、君の為でもあるんだ。
大丈夫?と心配そうに俺を見上げる、潤む瞳に少しばかり心が痛む。
「そうだよね、蓮くんは甘いものが苦手だもんね。今度は甘くないミント味の飴を用意しておくね。くまさんポーチの中には、甘いキャンディーばかりなんだもん・・・ごめんね」
「いや、香穂子が謝ることじゃない。気持ちは受け取った、ありがとう。香穂子が好きなものを、一緒に分かち合えるのは、本当に嬉しいんだ」
「蓮くん・・・」
残念そうにしょげながらクマのポーチを握りしめる香穂子に、緩めた瞳で心からの礼を言うと、小さな微笑みが光を灯した。じゃぁこれは後で食べてねと、更にもう一つ手のひらに託すことも忘れない。二粒の桃色キャンディーを、制服のポケットに入れた瞬間から、落とさないように誰にも見つからないようにと。俺の緊張が始まったのを、君は知らないだろうな。
だが嬉しいのは、偽りない心からの気持ちだ。心の中は甘い香りに包まれ温かいから、不思議と心地が良い。二人だけの秘密を見つからないように守ってみせると、使命感にも似た想いが湧きあがるのは、君が好きなものだから・・・君の大切なものだからだと思う。
「あのね、いいこと思いついたの!」
「香穂子、どうしたんだ?」
瞳を輝かせた香穂子がポンと手を叩くと、再び俺の両腕にしがみつき、背伸びをしてきた。俺と君との頭一つ分の身長さを埋めるほど背伸びをするのは、かなり大変だろう。見渡す限り、この屋上にいるのは俺達二人だけなのが幸いだが・・・。無防備な心にぽんと飛び込む君の無邪気さに、心臓が大きく弾けてしまいそうだ。
「蓮くんが桃の飴を食べられないれない代わりに、せめて香りだけでも味わって欲しいなって思ったの。蓮くんも好きだって言ってくれたから、私が届けてあげるね」
「香りを届ける? 一体どうやって?」
「少しの間だけ、じっとしていてね。大きく息を吸い込んで・・・と、はぁっ・・・はぁっ。どう? 届いた?」
「・・・・・・・・っ!」
桃色の透明なキャンディーが乗った、赤い舌をちょこんと差し出しながら、はぁっと何度も吐息を俺に届けてくれる。
途中で苦しくなると、再び口の中でころころと飴を転が桃色の香りをたくさん補充して。窓ガラスを曇らせるうに、顔を近づけそっと優しく甘い吐息を注いでくれた。窓ガラスが吐息で白く曇るように、君が吐息を生み出すたびに俺の全てが桃色に霞んでゆく。
俺のためにと頑張るひたむきさといじらしさが嬉しくて、真っ直ぐ向けられる想いに心の底から熱くなる。
甘いのはキャンディーが放つ桃の香りではなく、吐息を届けてくれる君自身の香りだったんだな。だからこそ、離れていても良い香りに気付いたし、包まれれば心地良いのだろう。
キスがしたくなる香りの飴・・・か。包みに書かれていた煽り文句の意味が、ようやく分かった。
香りだけでなくささやかな仕草が甘さを灯すから、求めたくなるのだと思う。
「この飴舐めると、キスがしたくなるって書いてあったけど本当なのかな? ねぇ、蓮くん顔真っ赤だよ。大丈夫?」
「・・・すまない、香穂子。俺はもう限界だ」
「え!? ごめんね、甘くて気持ち悪くなちゃったかな。もう止めるね、あっほら、新鮮な空気で深呼吸しよう?」
「いや、そうではなくて。もっとこの香りが欲しくなったんだ・・・香りの源である、君ごと」
「へっ、それって・・・・んっ・・・!」
腕の中に深く閉じ込め、覆い被さるように唇を重ねた。堪えていた熱さが、堰を切って溢れ出した流れのまま、驚きに目を見開く身体を掻き抱き性急に。薄く開かれた唇の隙間から中に入り込み、吐息を吸い込めば、口の中に彼女が食べる桃色の香りがいっぱいに広がった。
奥に逃げる舌を追いかけながら絡め取り、キスを交わして互いに一つのキャンディーを食べ合おう。
瑞々しい果実の甘さは、薄桃色の飴に含まれる桃のと、無自覚に誘う君の甘さ。飴はいらないとそう言ったけれど、やはり無理だったようだな。
名残惜しげに唇が離れる頃には、香穂子の口の中にあった飴がすっかり消えてなくなっていた。触れ合っていた時間の長さというものあるが、熱さが二人分あったから溶けるのも早かったのだろう・・・きっとそうに違いない。
くってりと力なくもたれかかっていた香穂子が、潤む瞳で俺をじっと振り仰ぐ。余韻と温もりを手放したくなくて、崩れ落ちないように身体を抱き支えていると、瞳を閉じて心地良さそうに深呼吸をした。
「ふふっ、蓮くんも桃色の吐息だね。とっても甘くて良い香りがするの、蕩けちゃいそう」
「香穂子と同じ香りだな。本当は香りが残ることを気にして飴を食べずにいたんだ、すまなかった」
「そうなの? どうして? やっぱり男の人って、こういうの照れくさいのかな?」
「あぁ少しだけ・・・だが今は違う。君の香りなのだから、消えないように俺に移して欲しいとそう思う。香穂子も、俺以外の誰かの前では、この飴を舐めないと約束してくれ。甘い香りに吸い寄せられ、キスをされては困るから」
「うん・・・約束する。蓮くんと二人きりの時だけ、舐めることにするね。私がこの桃色キャンディーを食べていたら・・・キスして欲しいな」
腕の中で桃色に頬を染めながら、上目遣いではにかむ香穂子へ頬笑みを注ぐと、返事の代わりに優しいキスを届けた。デリケートな桃の果実へ、そっと優しく触れるように。腕の戒めを解き放ち、ポケットにしまっていた飴を取り出し包みを破くと、染まる頬と同じ透明な桃色を口に含んだ。
控え目な甘さと果実の香りがふわりと広がり、吐息に乗せて君へ伝わる。
俺がこの飴を食べたら、君もキスがしたくなるのだろうか?
嬉しそうに眼を輝かせ、陽だまりの笑みを浮かべた香穂子が再び俺の両腕を掴み、精一杯の背伸びをしてくる。
今度は俺も身を屈めて顔を寄せれば、彼女が纏う桃の香りと共に、笑顔の唇が押し当てられた。
君を知るごとに、新しい「大好き」が増えてゆく・・・。
俺の理性を焦がす無自覚な君の罪が、やがて俺たちを包む甘い幸せに変わった。