もう少しだけ苗字で呼ばせて
空が心地良く晴れたこんな日は、ヴァイオリンの音も空高く羽ばたき広がるだろうな。練習の約束をしていた休日が、天気でで良かったねと喜んだ香穂子の笑顔に、俺の心にも君という太陽と、空を映す爽やかな青空が広がった。海辺特有の強い潮風もなく、明るく穏やかな陽気に包まれてる臨海公園で練習をした後は、君と過ごす大切な時間。
音楽というのは楽器を奏でるだけでなく、一つに溶ける心を奏で合わせるのだと、そう教えてくれたのは君だ。
身の回りに溢れているものや自然の全てが、君と俺にとって素敵な音楽。
さぁ喜びや幸せ、感じる楽しさの音を、心と身体の全てを使って奏でよう。
直接芝生に座っては、服が汚れてしまうだろう? そう言ったのだが、ふかふかで気持が良いよと芝生に座り込む香穂子の無邪気さに、惚れた弱みで勝てるわけもなく・・・ポスポスと隣を叩き、隣に座って欲しいと笑顔で俺を招く。だが誘われるまま隣に膝を付いた俺が俺が止める間もなく、柔らかな芝生の誘惑に勝てない香穂子は、デニムのショートパンツ姿のまま寝転び草まみれになってしまった。転がる香穂子を慌てて抱き起こしたものの、はしゃぐ勢いそのままで抱きつかれたのだから、俺まですっかり服が草まみれだ。
全く君は、子供じゃないのだから・・・と、溜息混じりに諫めれば、最初は申し訳なさそうにしゅんと俯いていたけれど。髪や服についた芝を丁寧に払いのけていくうちに、くすぐったさを堪えきれなくなったのか小さく吐息を零したり。二人とも草まみれだね、お日様の香りがするよと嬉しそうに頬をほころばせていた想いが、俺の頬や瞳にも柔らかな微笑みを届けてくれた。
ようやく落ち着いたところで、とにかく一息つこうと近くの自販機を探し、飲み物を買いに行ったのは数分前。戻ってみれば、ヴァイオリンケースと一緒に芝生の絨毯へちょこんと座り、そっと人目を引く煌めきを集めた光の泉の中に彼女はいた。
それほど時間をかけてはいないのだが、眠気に誘われまどろんでしまったのだろうか。それとも、疲れていたのだろうか・・・ここしばらくはずっと、朝早くから帰りも遅くまで練習したり、夜も譜読みをしていたと言うから。
「遅くなってすまない、待たせたな。君が希望していたジュースが自販機に無かったから、ペットボトルのアイスティーにしてみたんだが・・・。香穂子、眠っているのか?」
「・・・んっ、月森くん・・・すぅ〜・・・」
日だまりに包まれながら、眠るつもりが無くても、ほんのひととき夢の世界へ旅立つのは確かに心地が良いな。君が俺の傍にいてくれるときは、心も身体もふわりと浮き上がる心地良さを感じるから、君の気持ちが分かるんだ。
日だまりの泉に腰を下ろしたまま、右へ左へふわりふわりと眠りの船を漕ぐ香穂子は、まるでそよ風に靡くタンポポの綿毛に思えてくる。ふと目を離した隙に目を覚まし、元気良くどこかへ飛び出してしまいそうだから。眠っていても気配で俺が戻ってきたのが分かるのか、目の前に影を作ると眠ったままでも微笑んでくれた。買ってきたペットボトルを芝生の上に置き、少し冷えてしまった手の平を、握り合わせ温めてから・・・。そっと触れた頬が柔らかく吸い付けば、鼓動が熱く弾け背筋を駆け昇る甘い痺れ。
言葉にはならないけれど、微笑む唇がむにやむにゃと微かに動いたのは、きっと俺の名前を呼んでくれたのだろう。そう想うだけで胸が熱くなる。だが君と想いを交わし合った今、出来ることなら月森くんではなく俺のことも、蓮と名前で呼んで欲しいと願うのは我が儘だろうか。
大切な君のことを名前で呼びたいと願い、香穂子と名前で呼ぶようになってから暫く経つ。想いが深く重なり合うようになった今では、こちらの呼び方の方がしっくりくるな。照れ臭いし心臓がどきどきするのと、名前を呼ぶ度に真っ赤な茹で蛸になり言葉を詰まらせてしまう香穂子は、まずは二人きりの時から少しずつ俺の名前を呼んでくれている。
二人きりというのは、周りに誰もいなくなった時だろうか。それとも恋人としてのスイッチが入った熱い時だろうか・・・未だに迷うんだ。本当はいつでも呼びたいし呼ばれたいけれど、彼女が抱く乙女心は大事にしたい。俺たちは俺たちらしく、ゆっくりで愛を育もう。
「香穂子・・・」
「・・・ん、ん〜・・・・・・」
座ったままでは眠りにくいだろうから、起こさないように気を配りながら支え、そっと俺の膝に香穂子の頭を横たえた。いわゆる膝枕というものだろうか。目が覚めている時だったら、恥ずかしがる香穂子は真っ赤に火を噴きながら逃げてしまうだろうが、今は緊急事態だから許して欲しい。どんなに熱くなってもくすぐったくても、この先は身動きが取れなくなってしまった自分に気付いたのは、ころりと寝返った香穂子が俺を求め、しがみついてきたときだったとは、我ながら迂闊だったな・・・。
一つに解け合う彼女の柔らかさと香り・・・感じる心に言い聞かせている自分が、一番落ち着かないのかも知れない。
ブラウスの襟元から覗く白い肌には、ヴァイオリンを肩に挟むときに出来る赤い跡が。シャツの裾をきゅっと握り締める手や指先も、以前に比べてずいぶんとヴァイオリニストらしくなったと思う。どれだけ練習を重ね努力をしているかを、彼女の身体が刻み込んでいる証だ。こうして君が眠っている時に指先で触れる度に、愛しさで胸が張り裂けそうになるのだと、君は知っているだろうか。
「香穂子、そろそろ起きてくれないか? いくら日だまりでも、海風を浴びながらでは風邪を引くぞ」
「ん、ん・・・蓮くん、おはよぉ。もうちょっとだけこのまま・・・あと五分だけ寝かせて? 蓮くんに、ぎゅーっとしたいの・・・」
「ひょっとしてもう起きているのか? それとも、寝ぼけているのか? おい、香穂子!?」
「ん〜っ・・・おはようのキスはもうお腹いっぱいなの・・・。たっぷりじゃなくて、ちゅっと啄むだけで良いんだよ・・・」
「・・・っ! 香穂子、すまない。起きてくれ!」
幸せそうな微笑みを浮かべながら寝返りをうち、横抱きにしっかりしがみつく香穂子は、抱きしめた俺の腹の辺りへころころと頬をすり寄せてくる。本当は君の眠りを守りたいのだが、くすぐったさと照れ臭さと、言葉にならない熱さと動揺が混ざり合い、揺すり起こさずにはいれられなかった。君が名前で呼んでくれるのは、深く交わるときだから。熱さの記憶に脳裏も心も焼き焦がされてしまい、俺がどうにかなってしまいそうなんだ。
頬を優しくぴたぴたと叩くと、蕩ける眼差しをぼんやり明けた香穂子が、焦点の定まらない瞳を彷徨わせながら、小さく欠伸をかみ殺した。目尻に浮かんだ涙を指先で拭い去ると、自分が俺の膝を枕にしている事に気付いたらしい。ぱちくりと数度瞬きをしてから俺を見上げ、慌てて飛び起きると胸の前をかき合わせ小さく丸くなってしまう。大きく息を吐いて鼓動を鎮めると、耳や首筋まで真っ赤な茹で蛸に染まり、泣きそうに潤む大きな瞳。
どんな夢を見ていたのか寝言からしか想像できないが、ようやく夢から覚めて恥ずかしさに耐えられなくなったのか、それとも膝枕だったことが照れ臭かったのか。どうか落ち着いて欲しい、見つめられては、君を抱きしめてしまい抱くなるじゃないか。
「やだっ、私ったら・・・ごめんね月森くん。ずっとお膝に私の頭を抱っこしてくれて疲れたでしょう? その・・・ね。良く覚えていないんだけど、ものすごく恥ずかしい寝言を言った感覚あるの! 夢だから気にしないでね。私がどんな寝言を言ってたか、お願いだから教えて?」
「いや・・・大丈夫だ、特に何も言っていなかった・・・から。ただ、その・・・夢の中で蓮と、俺の事を呼んでくれてただろう? 眠っている君がそう呼んでくれたのが、嬉しかった」
「え、どうして分かるの!?」
「蓮くんと、眠りながらそう何度も俺を呼んでくれたんだ。気付いていないかも知れないが。出来ることなら、いつでも香穂子には蓮と・・・名前で呼んで欲しい。あと少し、君と心の距離を縮めたいんだ。駄目だろうか?」
「あのね、本当はいつでも蓮くんって呼びたいの。でもくすぐったくて恥ずかしいし、抱きしめられていた甘い夢を思い出しちゃうから・・・意識しちゃうの」
蓮くんと・・・名前を呼ぶと、他には何も見えずに想いが溢れてしまうのだと。ひたむきに見つめる瞳に吸い寄せられ、胸の前に握り合わせた手を包みながら、懐に引き寄せ唇にそっと掠めるキスをして。胸の中に沸く燃えたぎる熱さを、薄皮一枚の理性で留めよう。想いを指先から伝える手と、困ったように見つめる眼差しやキスの意味を、君はどう受け止めだろうか。
それにヴァイオリンと同じように何度も練習すれば、自然と呼べるようになると思う。じっと見つめる瞳を逸らさずにそう告げると、落ち着き無く肩を揺らし視線を彷徨わせ始める。だが握り包んだ手と眼差しに熱い想い力を込めると、真っ赤に火を噴く顔から白い透明な湯気を昇らせた。唇が微かに動き、俺だけに聞こえるようにしっかりと言葉を紡いだのは、聞きたいと願っていた名前。
「れ、蓮くん・・・」
「ありがとう、香穂子。どんな夢をみていたのか、もし良ければ教えてくれないか?」
「えっとね・・・ここ最近、新婚さんになった夢をよく見るの。夢の中でも蓮くんに起こされていたの、おはよう香穂子って。白いカーテンと眩しい朝の光、二人でベッドのシーツにくるまって迎える幸せがくすぐったくて・・・。あの、夢の中では月森くんと私が新婚さんだったんだよ。二人の薬指に指輪があったら、きっとそうだと思うの。蓮くんって名前を呼ぶだけで顔が熱くなったり、夢を思いだして心臓が弾けそうなんだもの」
「・・・・・・・最近、朝迎えに行くと、夢を見たから顔が熱いのだと言っていたな。だから視線を合わすとすぐに逸らしたり、名前を呼ぶ度に真っ赤に口籠もっていたんだな」
「そうなの、ごめんね。あっほら、蓮くんまで顔が真っ赤だよ。だから恥ずかしいって言ったのに」
奏でるヴァイオリンも心も身体も、全てが君の色に染まり君へと向かってゆく。名前というのは、溢れる想いを込める言葉の箱であり、心を繋ぐ架け橋に違いない。例えば夜空の星に自分だけの名前を付けて所有できるように、どんなに遠く手が届かない物や形が無くても、名前を付けるだけで心の距離がぐっと近付き、愛しさが増すのを感じる。
香穂子と君の名前を呼ぶだけで温かく優しい気持ちになったり、時には恋しく熱い情熱に焦がされたり・・・大切な人の名前には不思議な力があるんだな。君にも感じて欲しい・・・分かち合いたい気持があるから。
音楽でも、苦手な場所は練習するだろう? だからどうか香穂子・・・君も、どうかいつでも、俺のことを名前で呼んでくれないか? 君が見たまどろみの夢が、正夢になるように。