もっと甘えていいから

秋から冬へと季節が深まるにつれて空気が凜と澄み渡り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。
楽器にとっては乾燥した空気は良いのだが、こうした季節の変わり目には特に風邪を引きやすくなる。
喉が痛いとかすれた声で顔をしかめる香穂子は、気づかぬうちに喉を痛めたのだろうか。
持っていたのど飴を渡し、風邪を引かないように・・・そう注意を促したのは数日前だった。


体調管理も演奏者の大切な勤めだ。演奏には体力や集中力を必要とするから、良い音を奏でるには心身ともに健康で無ければならない。それに例え一日の休みでも、遅れを取り戻すのは数倍の時間と努力がいる。
いや・・・それだけでなく。もし香穂子が風邪を引いてしまったら君のヴァイオリンが聞けなくなるし、笑顔が見れなくなる・・・会えなくなってしまう。もしも君が寝込んでしまったら、俺はきっと冷静でいられないだろうから。


いつもの輝きが影を潜めた良くない顔色を気遣い、早めに放課後の練習を切り上げた・・・それなのに。
まさか俺の方が風邪をひいて寝込むなんて、予想もしていなかったんだ。




「熱出して寝込んでるこんな時に、お家の人が誰もいないなんて。どうして、学校お休みするって今朝メールくれたときに、一人だって教えてくれなかったの! 朝から何も食べてないんでしょう?」
「起き上がって何かする気力が無かったんだ・・・寝ていれば治ると、そう思ったから。だが水分は取っていた」
「もう〜っ、お水だけじゃ駄目なの! ちゃんと栄養取らなくちゃ、元気にならないんだからね。私だって蓮くんに会いたかった・・・淋しかったんだからね。無理してこじらせたら、風邪が長引いて会えない日が長くなっちゃうよ」
「それは、困るな・・・」


俺が寝ているベッドの枕元に腰を下ろした香穂子が、濡らしたタオルを俺の額に当てながら頬を膨らましている。
彼女が怒る心配はもっともだ、逆の立場なら俺も同じ事を言っていたと思うから。火照った額の熱を吸い取る冷たさに気分も安らぎ、諫める声さえも心地良く感じてしまうのは、側にいてくれる安心からだろうか。


今日は休むから先に行ってくれとメールをして、一日ベッドへ潜っていたものの、考えるのは香穂子の事ばかり。
今頃は授業を受けている時間だな・・・今何をしているのだろう、今日は何の曲を練習しているのだろうかと。
俺がいなくて淋しい想いをしていないだろうか・・・俺は君がいなくて淋しかった。
だが身体を重くする想いも、香穂子にひと目会ったら、発熱の気だるさと共にどこかへ消えてしまっていた。


「香穂子は学校があっただろう。言ったら俺の家に来ていたはずだ・・・拒めずに、俺も招き入れていただろう。遅刻させたり、休ませるわけにはいかなかった。体調を崩すと心も弱くなる。側にいて欲しいと願う気持が強まり、手放せなくなるから」
「私を気遣ってくれる蓮くんの気持がすごく嬉しい。でもね、学校も大事だけど、蓮くんの命はもっと大事なんだからね。学校もヴァイオリンも今私がここにいる事も全部、蓮くんがいるから輝いているの。もしも何かあったらって考えるだけで怖くなる・・・私に出来る、精一杯の事がしたいの。一緒に過ごせる時間を、大切にしたいから・・・」
「香穂子・・・」
「風邪を甘く見ちゃ駄目。苦しかったよね・・・私がきたからもう大丈夫だよ」


真っ直ぐ見つめる瞳が、切なげな光を放ち俺を射抜く。心配そうに覗き込む瞳は、俺の中から寂しさや苦しみを吸い取るように注がれている。香穂子の隣で呼吸しているだけで、心が癒され穏やかな気持になるんだ。
君と俺に残された限りある時間を思えば、寝込んでいるこの時間さえもどかしい。
だが、誰よりも愛しい君がこんなにも心配してくれる・・・必死な思いが伝わり胸が熱くなった。
俺の側にいてくれて、ありがとう・・・心の底からそう思う。


微笑みながら伝えるありがとうは、風邪のせいでかすれ吐息に近かった。それでも聞き取ってくれた香穂子が、泣きそうに緩んだ頬と瞳を寄せ、額のタオルを押さえるようにそっと手を添えた。
冷たいタオル越しに感じる、手の平の柔らかい感触が心地良い。
瞳を閉じれば、音色が重なったときのように、心が一つに寄り添い合うのを感じる。


しかしいつの間に、風邪をもらっていたのだろう。とはいえ一緒に過ごす時間が多いから、思い当たる理由はたくさんある。香穂子を家まで送り届けた別れ際に、元気になれる薬が欲しいと上目遣いに可愛くねだられ、深いキスを重ねたのがいけなかったのか。それならば良い、むしろ本望だ。


「ごめんね、今日の蓮くん病人なのに言い過ぎちゃった・・・。だって私のこと過保護なくらい気遣ってくれるのに、自分のことはさっぱりなんだもん。蓮くん自身も大切にして欲しいの・・・私の宝物だから」
「俺こそ、すまなかった・・・。香穂子の風邪は、もういいのか?」
「うん! 温かくして一晩ぐっすり寝たら、すっかり元気だよ。蓮くんがくれたのど飴と、お薬が効いたんだと思うの。今度は蓮くんが元気になる番だよ、お薬の無前に少しご飯食べようよ。お台所勝手に借りてごめんね、喉やお腹に優しいものをって思ったから、おかゆを作ってみたの。栄養付くように卵入りだよ、熱いから気をつけて食べてね」


座っていたベッドの枕元から、ぴょんと身軽にフローリングの床へ飛び降りた香穂子が、横になったままの視界から一瞬姿を消した。額のタオルを退けて、肩肘を支えにしつつ上半身を起こし、首を巡らせ様子を伺う。すると床に置いた木製のトレイの前にぺたりと座り込み、かいがいしく食事の用意をしてくれていた。

一人分の小さな土鍋には、ふんわり卵の入ったおかゆが黄色い満月のように微笑んでいて。温かさを伝える白い湯気と、食欲を誘う優しい香りを漂わせている。食べやすいように木のしゃもじで茶碗によそり直すと、箸を持って再びベッドによじ登ってくる。

受け取ろうかと差し出した俺の手に託されず、粥の入った茶碗は香穂子の手に握られたまま。まだ何かあるのだろうかと不思議に思ったところで聞こえたのは、ふーっと吹きかける彼女の甘い吐息。舌触りが良い温度に下げるために、大きく吸った息をす吹きかけ始めたのだ。吸い付きたい衝動に駆られるすぼめた唇から、何度も・・・。


「・・・・・・っ!」


ふーっと息を吹きかける仕草だけでも愛しいのに、冷めたかどうか味見までしている。君が口に含んだ箸を、これから俺も使うのだと、分かっているのかいないのか。それに甘い吐息が注がれていたのは、俺の為に君が作ってくれた手料理。食べやすく冷ましてくれたのに、風邪や料理とは違う熱さが身体の中に沸き上がるに違いない。

満足げな笑顔でうんうんと、一人納得しているところを見ると、味や舌触りがちょうど良いのだろう。
じっと耐えて待つのにも限界がある・・・早く食べたいと、自然に前のめりに求めてしまう自分がいる。


「はい蓮くん、どうぞ召し上がれ! 表面は冷めてるけど、中はまだアツアツだから火傷しないように気をつけてね。
もうちょっと、ふ〜って冷まそうか?」
「・・・いや、その・・・・・・」


目の間に手渡された茶碗と箸をすぐ受け取れずに戸惑ってる俺に、首を傾ける香穂子が嬉しそうに目を輝かせて再び中身をかき回し始めた。黄色に輝く熱い中身が表面に現れると、湯気に戯れながら息を吹きかけている。
なぜあの沈黙が肯定に捕らえられたのだろうか。いや・・・俺が照れて言い淀んでいると思ったのだろうな。

再び差し出された茶碗を受け取ったものの、やはり照れ臭さに耐えきれず視線を逸らしてしまった。見つめられたままでは、上手く箸を動かせそうにないから。自分でやるからとも言えないのは、かいがいしく世話をしてくれる香穂子に、もっと甘えていたいからだ。


「その・・・病気の時のお粥は、こうして食べるものなのか?」
「へ!?」
「いやその・・・香穂子が先程からずっと、息を吹きかけて冷ましてくれるから・・・」
「子供の頃とか風邪引くと、こうやって食べさせてもらわなかった? 思いっきり甘えて良い日だよって、お姫様気分になるの。普通に食べるより、不思議と美味しくて元気になれる気がするよね。私ね、これが大好きだったの」
「そう・・・だったのか、知らなかった」


初めはきょとんと不思議そうに俺を見ていた香穂子の顔が、何かに気づいてあっと驚きの表情を見せると、みるみるうちに真っ赤に染まりだした。恥ずかしさにそわそわ肩を揺らして身動ぎだし、スカートをぎゅっと握り締めながら俯いてしまう。いたたまれなさを隠せない彼女の動揺が、俺の鼓動に重なり熱く高鳴らせた。

落ち着くんだと言い聞かせて一口箸を運ぶと、ふんわり優しい卵味のお粥が身体へ染み込んでいく。
溢れてくる力と温かさは、吐息に込められた香穂子の想い。そうか・・・だから蕩けるように優しくて温かいんだな
緩めた瞳と頬で美味しいなと伝えれば、綻んだ花の笑顔がゆっくりと振り仰いだ。


「たまに風邪を引くのも良いものだな。君の優しさが嬉しいし、かいがいしく世話を焼いてくれる姿が、くすぐったい程に愛おしい。遠い夢を描かせてくれるようだ。ありのままで肩を預け、甘えたくなる。俺ばかりで、すまないな」
「こうして蓮くんのお世話するのって、なかなか機会がないでしょう? 新婚さんみたいで照れ臭いけど、私も凄く楽しいの。今日は思いっきり甘えて、何でも言ってね。あ!汗かいてるからパジャマ着替える? 背中拭こうか?」
「・・・いや、それは・・・大丈夫だ。ずっとこうしていたいが、君に移さないように、早く風邪を直さなくてはいけないな」
「そうだよ、週末には一緒に練習する約束でしょう? でも無理しないでね、お部屋でのんびりデートも素敵だから。蓮くんの風邪が、早く良くなりますように・・・」


そう言って身体を傾けながら顔を寄せると、柔らかな温もり・・・香穂子からのキスが頬に触れた。
だから大人しく寝ていてねと、腰に手をあて胸を張りながら、子供に言い聞かす母親のような眼差しで真剣に。
大人しくというのは安静にベッドに潜っていろという意味と、甘い悪戯をするなという二つの意味があるのだろう。
温もりを感じる君を抱きたい想いは確かにあるが、欲はあってもさすがに無理な時だってあるんだ。

暫く見つめ合った後に、どちらとも無く互いに噴き出し笑顔を重なる。


「香穂子・・・甘えても良いのなら、一つ良いだろうか?」
「ん、なぁに?」
「君の、ヴァイオリンが聞きたい」
「もちろん任せてよ、蓮くんのリクエストに応えるから楽しみにしててね。でもちゃんとご飯を食べて、お薬飲んでからね。はいこれ。遅くなったけど、風邪引いてる蓮くんに私からのお見舞いだよ」
「・・・りんご?」
「風邪引いた時にはね、果物でビタミンCを取ると良いんだって。本当は蜜柑が良かったんだけど、まだ時期じゃなかったから・・・なんて。お財布に残ってたお小遣いで買えたのが、これ一個だけだったの。プリンとか桃缶じゃなくて、ごめんね」


ベッドの枕元に腰を下ろす香穂子が、もじもじと恥ずかしそうに差し出したのは、赤く熟れたりんごの実を一つ。
甘く瑞々しい香りを放つりんごと同じくらい、君の頬や唇も赤く染まっていた。りんごにビタミンCが含まれているのかどうかは分からないが、香穂子の優しさが、赤い色や甘い蜜となって詰まっているのは分かる。

身体の風邪は薬で治せるが、心を温め癒せるのは心だけ。
そう・・・何にも代え難い心の栄養、君は俺だけの風邪薬だから。


「ありがとう香穂子、君の気遣いが嬉しい。俺一人では食べきれないから、良ければ一緒にどうだろう?」
「じゃぁ皮を剥いてきてあげるね。私、りんごのうさぎさんが得意なの」
「刃物を使うのは危ない、手を怪我したらどうする」
「大丈夫だよ、気をつけてるもん。包丁使えなかったら、蓮くんにご飯作れないよ・・・良い奥さんになれないの」
「は!?」


力強く拳を握りしめ、決意を新たにするのはいいが・・・その、話が随分飛躍したと思うのは気のせいだろうか。
一瞬の聞き間違いでないのなら、君が描いた道の先であり願いだと、信じてもいいのだろうか。
いや・・・今は伝えられない想いの中へ秘めておこう。
難しそうに眉を寄せる香穂子が首を捻りつつ、眺めていたリンゴを俺に差し出してるから。


「じゃぁ、二人で交互に直接りんごへかじりつく? 元気な時ならいいけど、風邪引いてる蓮くんお腹壊しちゃうよ」
「アダムとイヴみたいだな、楽園を追われないようにしなくては」
「楽しいことばかりじゃ、本当の喜びの価値って分からないでしょう? ヴァイオリンがあれば楽園を出ても、二人一緒にどこでも生きてゆけるって思うの。狭い世界だけじゃ駄目・・・蓮くんには広い世界が待っているもの・・・私も、追いかけるから」


香穂子が先に一口かじったりんごを、俺の口元に向けて差し出してくる。
彼女がかじった同じ所・・・赤い皮の中に小さく現れた黄色の実へ、唇を重ねるようにかじりついた。
口の中へ広がる甘く瑞々しい果実は、禁断の実。それは深い愛の実でもあり、未来への扉。


体調を崩した時に改めて、当たり前だと思っていた健康のありがたさと喜びを知るように。
君がどれだけ俺にとって大きな存在であるか、愛しく思っているかを知るのだ。
真実の喜びと幸せの為に、苦難を受け止める事もいとわない誓いを込めて。


ベッドから飛び降りた香穂子が、足取り軽くドアの外へと駆け出していく。
再びこの部屋に戻ってきた時には、うさぎ型にカットされたリンゴを小皿に携えてくるのだろう。
黄色い満月のお粥に、ウサギのりんご。
月の中で飛び跳ね歌うウサギは、きっと君なのかも知れないな。