もしも神様いるのなら

放課後、なかなか練習室に来ない香穂子が心配になり、彼女の教室まで迎えに行く事にした。いつもなら授業が終わるとすぐに駆けつけてくるのに。急がなくて良いから・・・そう宥めるくらいに息せき切って。
用事があるとも遅れるとも聞いていなかったし、何かあったのだろうか?


部活動やアルバイトに勤しむ生徒が多い為か、音楽科に比べて放課後の普通科校舎は静まり返り、人気もまばらなようだ。お陰で白い制服が浮く事もなく2年2組の教室まで辿り着けるから、ありがたい。
開け放たれたドアから中を覗けば、予想通り誰もいない教室にたった一人、香穂子はいた。
ただ一つ予想と違っていたのは窓側にある自分の机で、机の上に顔を伏せていたこと。



「香穂子」


寝ているのだろうか・・・・。
入り口から呼んでもなぜか反応はなく、中に入って前の席の椅子を椅子を借りて腰を下ろした。起こしては申し訳ないと思いつつ、上半身を捻って後ろの香穂子へと向き、伏せられた顔をそっと覗き込むよう、再び優しく呼びかける。すると、ピクリと微かに身体が身じろいだ。ゆっくりと顔が上げられ、暫くぼんやりと見つめていたものの、ようやく俺に気付いたようだ。


「起こして、すまない」
「蓮くん・・・。ごめんね・・・迎えに来てくれたんだ・・・・・・」
「なかなかこないから、心配になって様子を見に来たんだ
どうした、具合が悪いのか?」
「う〜ん・・・だるいって言うか・・・寒いんだよね。身体の芯から震えが止まらないの。でも表面は熱くてボ〜ッとする感じ。何か力はいらなくて、動けなかったの」
「熱があるんじゃないのか?」


顔色が赤く火照り、向けられる瞳も輝きが失せて潤み、どことなく焦点が合っていない。それに声も気配も、その姿さえも、今にも消えてしまいそうにか細く感じた。いつもの彼女はどこに行ってしまったのだろうかと、そう思えるほどに。

失礼・・・と一言断ってから額に手を当てれば、火を噴出しそうなほど熱い。


「凄い熱じゃないか。どうして・・・・・・・!」
「・・・蓮くんの手、冷たくて気持いい〜・・・・・」
「・・・・・っ、香穂子?」



どうしてこんなに酷くなるまでに放っておいたのだという言葉を途中で遮って、額に触れた俺の手を押さえるように彼女の両手が重ねられた。触れる指先も、驚くほど熱い。瞳を閉じて手の冷たさに浸っているのか、苦しそうに歪んでいた表情が、幾分か和らいでいくように見えた。そんな些細な変化さえ、みっとも無いくらいに内心慌てて動揺していた心が、波紋が広がるように落ち着きを取り戻すのを感じる。

なぜ、一緒に朝登校した時に気が付かなかったのだろう・・・。そういえば、いつもよも少し静かで様子が違っていたのに。休ませたり、あるいはこうして待たせずに、すぐ帰る事だって出来たはずだ。


「すまないな。君の体調が悪いのを、朝俺が気付いていれば、こんな事にはならなかった」


月森は瞳を閉じる香穂子を見つめならが、苦しげに眉根を寄せ、膝の上に置い拳をぎゅっと握り締める。
溜息と共に吐き出すように呟けば、瞳をゆっくり開いた香穂子が額から手を離し、ふわりと微笑んだ。
今さっきまで額に触れていた月森の手を、息を吹きかけるように両手で包み込みながら。


「蓮くんのせいじゃないよ。朝は少しだるいかな?くらいだったから、1日平気だと思ったの。でもやっぱり無理しちゃったみたい。午後になったら急に具合悪くなっちゃって・・・・・・・・」
「保健室には行ったのか?」
「うん。さっきお薬もらった。これでも少し落ち着いたんだよ」


心配させないようにと俺へと向ける精一杯の笑顔は、どこか弱々しく力が無いようで。まるで羽根を傷付けられた鳥や蝶を見ているように、痛々しい・・・。しかしそんな自分の身に起きた事など気にもとめずに、小首を傾げて困ったように笑いかけた。


「もーっ、蓮くんてぱ。そんな辛そうな顔しないで、ね? これじゃぁどっちの具合が悪いのか分かんないよ」
「・・・君の方が、よっぽど辛そうだ。俺が、変わってやれたらいいのに」
「蓮くん、そんなこと言っちゃ駄目っ」
「香穂子!?」


目を見開いて驚いていると、めっと叱る視線を向け、立てた人差し指を俺の唇に当ててくる。塞ぐように・・・キスをするように指を軽く押し付けると、その指を今度は自分の唇へと持っていき、同じ場所に押し当てた。しなやかな指先の動きを追って彼女の唇に辿り着いた瞬間、もう指が触れていない筈の唇を通して感じたのは、全身に行き渡る電流のような甘い痺れと熱。


「気持は凄く嬉しいけど、蓮くんが代わりに辛い思いするのって、私ちっとも幸せじゃないよ。全部だなんて・・・蓮くんも私も、2倍余計に辛くなっちゃうと思う。だって私が味わう苦しい思いは、蓮くんにしてもらいたくないんだもの」




力を振り絞って真っ直ぐに向けられる瞳。
発熱から来る寒さの為か、細く華奢な肩が微かに震えていた。椅子から立ち上がると制服のジャケットを脱ぎ、香穂子の背後から覆い包むように肩にかけた。すると、いつもより緩慢な動きだが驚いたように肩越しに振り返り、熱で潤んだ瞳が見上げてくる。


「いいの? 蓮くんが風邪ひいちゃうよ!?」
「寒いだろう? 俺は平気だから、家に着くまで羽織っていてくれ。俺には、これくらいしか出来ないから」
「そんな事無いよ、嬉しい・・・ありがとう」
「俺も同じなんだ。君が苦しそうにしているのは、身を切られるよりも辛い。俺に出きることは無いか? 苦しみを軽くするためなら、何でもしたいと思うんだ」
「じゃぁ・・・手、貸して?」
「手!?」
「そう、蓮くんの手。ひんやりして、すごく気持いの。気分が落ち着くし・・・安心する」


分かった。そう言って微笑むと再び彼女の向かい側に腰を下ろし、掛かった前髪を払うようにしながら、すっかり温かくなった方とは反対の手を香穂子の額に再び当てた。
気持いい〜と、心地良さそうに目を細めて、顔を乗り出すように寄せてくる。


「今日はもう帰ろう。練習室から荷物を持ってくるから、すまないけれど待っていてくれ。それよりも立てるか?」
「うん、平気だよ。いっぱい栄養つけて、たっぷり休んで、早く元気になるからね。でも、もう少しこのままでいさせて欲しいな・・・・・・」
「あぁ・・・・・・」


手の平が次第に熱く火照っていくのを感じるのは、苦しみの元である発熱を吸い取っているからなのだろうか。
そうであって欲しいと思う。





俺には、側に寄り添って見守る事しかできないけれど。
だからせめて、君の為に祈ろう。


もしも神様がいるのなら、彼女が早く元気になりますようにと。
どうか俺の力を分けて欲しい・・・そして苦しみを取り除いて欲しいと、切に願う。
今、額に触れている、この手の平を通じて・・・・。


いつも俺に力を与えてくれる眩しい笑顔と、惹きつけて止まない大きな瞳の輝きが、一刻も早く戻りますように。