未来航路



オレンジ色をした夕焼け空の端に、星空を散りばめた藍色のカーテンが、ふわりと舞い降りる。休日を一緒に過ごした最後に、君と俺が目指す場所は海を望む公園だ。どこへ行きたいだろうかと尋ねた俺を、嬉しそうに隣で振り仰いだ香穂子が、小さな背伸びで煌めく星の囁きを届けてくれたから。「今日も一日ありがとうのお礼を込めて、沈む太陽へヴァイオリンを弾きたいな」と。


交差点を渡り、住み慣れた街のいつもの道を行く。だが、ふと立ち止まった香穂子は、家の壁に挟まれた細い路地を覗き込み、蓮くんと俺の名前を呼びながら繋いだ手をきゅっと握り締めた。こっちかな?と、路地を指さしながら見上げる澄んだ大きな瞳は、子供のような好奇心を一杯に湛えていた。


「ん〜と、海はこっちかな?」
「香穂子、どこへ行くんだ。海なら、こちらの方向だろう。君が行こうとしているのは、逆方向だ。初めて行く道でもないんだ。このまま真っ直ぐ進めば、海の見える公園に出るのは、君も知っているだろう?」
「うん、知ってるよ。でもね、たまには違う道から行くのも、きっと楽しいと思うの。私の勘だと、こっち海はこっちだよって、アンテナがピンピンしているんだもの」


こっちと指さす路地の方向は、確か遠回りをしながら元きた道の振り出しへ戻る、目指す海とは逆に進む道のはず。つい先日、練習帰りに香穂子が見つけた道の一つだ。知らない道を初めて通る時には、本当に辿り着けるのだろうか・・・どこへゆくのだろうかと、最初は心に抱いた僅かの不安。だが振り仰ぐ楽しそうな笑顔が、いつの間にか俺の心を好奇心へ変えていた。

君のアンテナは新しい回り道だけでなく、道端の小さな花から新しい店、普段気付くことのない空の色まで、実にいろいろなものを見つけてくる。今度は一体何を捕らえたのだろう。

俺にとって驚きと発見の連続で、その感度の良いアンテナに振り回された一日を苦笑気味に振り返りながらも、今度は何を捕らえたのだろうかと、少し楽しみに思う自分がいる。心の底が妙にそわそわと弾むのは、君が言うところの「何か素敵な事が起こる予感」だったり、「二人が同じ事を考えて、気持ちがシンクロしている証」に違いない。


二人で遠出をするときも、そう。電車の中では熱心に眺めていた雑誌やガイドブックも、現地に到着してしまえば香穂子の手を離れ、いつの間にか俺の元へ。地図を頼りにしながら慎重に進む俺とは対照的に、目に映るものや興味ある景色に誘われるまま、本能と直感に任せて進む君。気ままな勘だけを頼りにふわふわと進む、君という船は実に風まかせ。

いや・・・太陽と星を目指して進む船のように、心の底には強い信念と強さがあるから、惹かれずにはいられない。


「あっちの道、こっちの路地って・・・たくさん振り回しちゃったよね。ごめんね、蓮くん。公園で一曲ヴァイオリン弾いたら、もう家に帰らなくちゃ。だから蓮くんともう少しだけ・・・もうちょっと一緒にいたいなって思うの」
「香穂子は、わざと遠回りをしていたんだな」
「この道を真っ直ぐ行ったら海の見える公園に着いちゃうけど、一本路地を曲がれば遠回りができるでしょ? 道を曲がれば旅が始まるの。道を知った数だけ、一緒に見る景色が増えるし、過ごせる時間も長くなるよね」
「夕暮れ時の家路は急ぐものだが、君と一緒だと別れ難くて、どうしても時間を延ばしたくなってしまう。香穂子が教えてくれた遠回りや寄り道の楽しさを、もっと味わいたいのもあるが、本当は俺も・・・少しでも長く一緒にいたいんだと思う」


遠回りや寄り道が楽しくて、裏道や隠れ道を幾つ知っているかで、クラスの中で株が上がったのだと、子供の頃を懐かしそうに語ってくれた。子供の頃から香穂子は、たくさんの道を知っていたんだろうな。俺は、学校とヴァイオリンのレッスンと・・・いつも決まった道だけを通っていたから、羨ましい。そう遠い眼差しを向けると、手を包み込む優しい温もり。

俺の手を握り締めた香穂子が、これから一緒にたくさんの道を見つけようねと頬を綻ばせ、心和む微笑みを浮かべた。


「真っ直ぐな一本の道を進むのは、難しいだよね。寄り道の楽しい誘惑が待って居るんだもの。真っ直ぐな道ほど強い意志が必要で、時には立ち止まったり、心が迷子になるの」
「人生や俺たちが目指す音楽も、一本の道だと俺は思う。時には起伏が激しく、進むには困難で、ひたむきな強さが必要だろう。だが眼差しを周囲へ向ければ、小さい裏路地がいくつもある・・・。寄り道の楽しさを教えてくれたのは君だ」


「道草を食う」は人間の様子ではなく、馬が道端に生えている草を食べて、なかなかその場を離れないこと。転じて目的の途中に他のことで、時間を潰してしまうことをいう。本当は暗くなる前に、香穂子を家に送り届けなくてはいけないのだが、いつもこうして、家まで送り届けるあと僅かのところで、時間を引き延ばす・・・小さな旅が始まってしまうんだ。

一つ路地を曲がるだけで散歩になる、それは小さな小さな旅の始まり。季節の気配を心で感じ、眼差しを自然に向けるようになれば、広がる世界の中で音楽に様々な想いを巡らせる事ができる。

私?と不思議そうにぱちくりと瞬きをした香穂子へ微笑むと、包んでくれた手を握り返し、前へと進み誘う強さを託す。君が迷わないように、俺が灯火になろう。


「君と俺がこうして散歩する道すがらは、まるで海を進む船のようだな。空を羽ばたく海猫の鳴き声、汽笛や波の音、エンジンや人の喧騒。注ぐ光や揺れる水面、船が走る白い航路跡。船が行き着く波止場には、様々な音が生まれる。学院の屋上や森の広場、公園や駅前通りといった波止場で、光溢れるヴァイオリンの音色を響かせる・・・」
「蓮くんと私の船が音楽かぁ、素敵だね。それぞれの音楽は、一人で進まなくちゃいけない道だけど。時には二人のアンサンブルで、同じ船の散歩をするの。一人では乗り越えることが困難なことも、迷いそうな道も、二人なら進むことが出来るよね。太陽と星を目印に、二人で舵を取り合って・・・あ!」
「どうしたんだ香穂子、顔が真っ赤だぞ」
「同じ台詞をどこかで聞いたなぁって思ったら、親戚のお姉さんの結婚式で聞いた、牧師さんの言葉だったよ。愛し合う二人が築く家庭を、船に例えていたの・・・」


視線が絡み合う、呼吸を止めた一瞬。そわそわと落ち着かなそうに肩を揺らした香穂子の頬が、うっすら赤いのは、きっと夕日の色なんだろうな・・・俺と一緒に。明日天気になぁれと、無邪気にはしゃぐ、香穂子の笑顔が太陽よりも眩しい。

夕暮れ時の黄金色に染まる海は、まるで豊かな実りを結ぶ小麦畑。俺たちの心の中に、二人で育てる想いの実があるとしたら、こんなふうに豊かな実り色に染まっているに違いない。繋いだ手の温もりが、夕日の赤を映して心に灯る。ね?と振り仰ぐ君との距離がいつもより近いから、ふいに跳ねた鼓動に気付かれてしまっただろうか。


迎えに行った朝よりも、送り届ける夜の方が、繋ぐ手も心の距離もぐっと近くなる。
ならば一緒に奏でよう。夕暮れ時に灯る切ないほの灯りを、明日への希望を歌う音色に代えて。